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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。



8月のうたごえ喫茶で小飼さんと竹松恵里さんが椰子の実を歌いました。

うたごえ


(2)ヴェルレーヌの手紙

 三日経っても四日過ぎても返事は来なかった。辛抱しきれずにいらいらしたランボオは、もう一度手紙を書いた。そこには、「わが小さな恋人たち」「パリのどんちゃん騒ぎ」などの詩が同封された。
 ヴェルレーヌの返事を待ちながら、彼は大きな詩「酔いどれ船」の制作にとりかかった。
 ──ランボオは兄といっしょに、ムーズの岸につながれた小舟に乗り、急激に舟を揺すって、波を荒立てて、荒海を渡る感じを味わって喜んだといわれる。「アルチュールは舟のなかに腹這いになって、波がだんだん静まって平らになるのを見ていた。かれの眼は食い入るように深い水にじっと注がれていた」(ドゥラエ)。そこからまず「幽霊船」という古いテーマが浮かんできた。このテーマはまた、その頃レオン・ディエルクスという詩人が『パルナッス・コンタンポラン』誌で取り扱ったばかりであった。ランボオはその発想を借りただけで、正確にいえは、このテーマを自分の身にひきつけて、自分の体験、心境の表現に用いたのである。荒れ狂う冷酷な空の下を、紺青の水のなかに躍り出してゆく酔いどれ船は、もやい綱から解き放たれたランボオ自身であり、彼の魂である。

 九月十八日頃、ランボオの天才を見ぬいたヴェルレーヌの有名な手紙がとどいた。──「やって来たまえ。偉大な魂よ、われらはきみを呼び、きみを待つ。」旅費のための為替が同封してあった。パルナシアンの詩人たちのカンパで集められたものである。
 出発の前日、彼はドゥラエといっしょに郊外へ最後の散歩に出た。森のはずれにくると、彼はポケットから紙片をとり出して言った。
 「聞いてくれ給え。ぼくが向こうへ着いたら、連中に進呈するために書いたものだ」
 彼は「酔いどれ船」を朗読した。感激したドゥラエはこの詩の成功と栄光をうけあった。
 「そうだ、まだこのようなものを書いた者はいない。だが……ぼくは自分を抑えることができない。不器用で、臆病で、ぼくは話し方も知らない。おお、思想の点なら、だれをも怖れはしないが……ああ、あそこへぼくは何をしに行くのだろう?」
詩「酔いどれ船」へつづく

(新日本新書『ランボオ』)

ランボオ写真17才

「酔いどれ船」

(1)
 一八七一年の夏を、ランボオは友達のドゥラエといっしょに、シャルルヴィルやその郊外をぶらついて過した。見るものすべてが、吐気を催すような嫌悪、束縛への憎悪を彼に呼びおこした。とりわけ、プロシャ軍のパレードに出っくわすと彼は激怒した。「やつらはくたばるがいいんだ、自分の勝利で!」
 ところで、二人にはまだ子供のいたずら好きが残っていて、彼らは腕白ぶりを発揮する。ランボオはまだ十六歳である。ドゥラエの語るところによれば、彼らはメジエールの教会の鐘楼にのぼったり、レオポルド二世王領地に煙草を調達しに入りこんだりした。実際、哀れなランボオは、ドゥラエやブルターニュのおかげで、やっとパイプをふかすことができたのである。彼の収入は週二スーで、それも日曜日のミサの、教会の椅子使用料として母親が与えるものであった。
 八月も終わり、木の葉は黄色くなって秋の訪れを告げた。秋になれば、新学期が始まり、恐らく寄宿寮に入らなければなるまい。「見者」の詩学をうちたてたばかりの詩人は、しかし自分の立場の悪いことに気がついた。イザンバールは彼の「見者」の詩学を嘲笑していた。デム二も彼を理解することはできなかった。「鉄のように」強情で一徹な母親は、息子にたいしてますますきびしかった。──ランボオはいまや決定的な決意を迫られていた。そうだ、パリに出て仕事を探そう。日給一五スーの労働者になろう。なんでもいいのだ。この一年来、耐え忍んできた生活にくらべれば、それよりももっと悪い生活などはありえない……。
 その頃の自分の状況、心境を、彼は八月二十八日付のデムニ宛の手紙に書いている。
 「……刑事被告人の立場だ──この一年来、きみも知っての理由で、ぼくは普通の生活から離れてきた。何んとも言いようのないこのアルデンヌの地に絶えず閉じこめられ、ひとりの男とも付きあわず、恥ずかしい、役にもたたない、しつっこい、神秘的な仕事にうち込んでいて、粗野で意地悪な叱責や質問にはただ沈黙で答え、不法なぼくの立場にふさわしく振舞って、ぼくはとうとう、鉛のかぶとをかむった七三人の役人同様に頑固一徹な母親の冷酷な決断を呼びおこしてしまった……」
 母親の願いは、ランボオが相変らずシャルルヴィルで職について働くことであった。さもなければ、彼が家から出て、出奔することを望んでいた。そうなれば、「一文なしで、世間知らずのぼくは感化院にでも入るのが落ちだろう……」
 彼は働かねばならない立場にいながら、一方では「働くなんて、いまはとてもとてもできない。ぼくはストライキ中だ」と書く。
 ランボオは自分の苦境をブルターニュに訴えた。三十五歳のオゥギュスト・ブルターニュは、ランボオとは酒場における飲み友達であり、文学仲間であって、ずっと年下のランボオの常軌を逸した言行に拍手を送っていた。このひとのいいおやじは言った。
 「おれは詩人のポール・ヴェルレーヌをよく知っている。彼なら、たぶん何かきみの役に立ってくれるだろう。」
 「それでは彼に詩を送ってみよう?」──ランボオは幸福に顔を赤らめながら言った。そして言うと同時にそれを実行する。実直で優秀なドゥラエがさっそくカフェーのテーブルの上で、ランボオの数篇の詩をコッピイする。一方ランボオは長い手紙を書く。こうしてブルターニュの紹介状と数篇の詩を同封した手紙は、「パリ、ショアズール小路四七番地ルメール書店気付」で、ポール・ヴェルレーヌ氏に送られた。
 すでにランボオはヴェルレーヌをたいへん尊敬していた。前年の夏休み、彼はイザンバールの書斎で、ヴェルレーヌの『憂鬱な詩集』『艶なる宴』などを読んでいたのだ。
(つづく)

新日本新書『ランボオ』

軽井沢


(4)ジュリアン・ソレルの同族

 ランボオはこの詩でコミューヌの翌日を描き、弾圧後のコミューヌ戦士たちの復讐の念をうたっている。

  おれたちの復讐の行進はすべてを占領した/都市も田舎も!
  ──だがおれたちは粉砕され、火山は爆発するだろう!
  そして大洋は荒れ狂い……

 破壊的な幻想はこんどは宇宙的な領域にひろがる。ランボオは黙示録的なイメージで、爆発する火山、大異変を起こす大洋を想い描いている。
 最後の四行は、破壊的な幻想の頂点を示している。友人だと信じて疑わない「見知らぬ黒ん坊たち」への呼びかけ、崩れかかる「古い大地」。ぐらぐらと揺らぎ崩れかかる大地のうえで狼狽してはならぬ――それがこの最後の詩句の意味でもあろうか。
 最後につけ加えられた一行は、破壊的な幻想と悪夢から醒めて、ふたたび現実に返り、我に返ったことを示している。

  何んにも起りはしない おれはここにいる 相変らずここにいるのだ

 絶望はいっそう深いのである。
 それにしても「見知らぬ黒ん坊たち」にまで兄弟たちと呼びかけても、それは心情のうえの兄弟でしかない。十六歳から十七歳にいたる早熟な少年がともに革命を語る兄弟は、ドゥラエのほかひとりもいなかった。そして生き残ったコミューヌ戦士のほんとうの兄弟たちの多くはニュー・カレドニアに流刑され、あるいは追及をのがれてロンドンに亡命していた。たとえば、ランボオより二十歳ほど年上のジュール・ヴァレースも、「血の週間」から九死に一生を得て、ベルギーを経てロンドンに亡命する。彼は、その亡命中に、自分の不幸な生いたちの記『少年』を書き、一八八〇年、コミューヌ関係者にたいする恩赦令が出ると、パリに帰って、かれの体験的コミューヌ史ともいうべき小説『蜂起者たち』をまとめる。この小説の主人公ヴァントラスは、反抗者ヴァレース自身の反映である。アラゴンは『スタンダールの光』のなかで、この反抗者ヴァントラスを『赤と黒』のジュリアン・ソレルの後継者として論じている。
 「……世紀の進むにつれて、かつてジュリアン・ソレルの徒であったものが、ジャック・ヴァントラスの徒となることは、だれの目にも明らかであろう」「……歴史の論理はジュラのしがない木こりの倅からジャック・ヴァントラスの反抗へとつながるのである。……ヴァントラスの黒衣、つまり十二月二日のクーデター後の黒衣とは、貧民のすり切れた着物である。彼はヴィルメッサンの『フィガロ』紙では、青年層にむかって、ミュルジェ風なボヘミアン生活には憧れないようにと忠告する。一八三〇年の青年と、七月、二月の二つの革命のあいだに記入される歴史をもつ青年とのあいだには大きなへだたりがある。だが、彼らは精神的同族なのである。」
 ランボオは小説の主人公ではない。だが、アルデンヌの農婦の息子ランボオも、ジュリアン・ソレルやジャック・ヴァントラスの精神的同族であり、しかも怖るべき詩的天才を与えられた同族であったといえよう。
(この項おわり)

(新日本新書『ランボオ』)

軽井沢
(3)ボードレールの場合

 一八四八年の二月革命の敗北後、ボードレールはどうなったか。「一八四八年、フランス人民が一瞬、積年の圧制を永遠にくつがえしたかに見えたとき、そして人びとが社会的共和制の最初の夜明けのひかりを見たとき、詩人たちさえも一瞬、自分のまえに現実世界の展望のひらけるのを見た。そしてボードレールも、そう、あのシャルル・ボードレールさえも、労働者詩人ピエール・デュポンの熱心な擁護者となり、かれの作品のなかの詩の未来をほめたたえたのだった。しかし、フランス人民がとりのけようとした暗鬱な重石が、ボナパルチスト一味の長靴によってふたたびおろされてしまうと、それだけでボードレールは、一八四八年に書いた自分の論文を、革命の日の熱狂だといって、恥知らずにも投げすててしまった。こうしてかれはじつに、あの詩の歴史をゆがめるという構想の創始者となり、(芸術のための芸術の理論の創始者となり)あらゆるレアリスムを否定し、この分野における恥ずべき議論の公認の供給者となった……」(アラゴン「第二回ソヴェト作家大会における発言」飯塚書店『アラゴン選集』第二巻、二七七ページ)
(つづく)

新日本新書『ランボオ』

ねそべった


(2)あれはおれたちにとって何んなのか

 ランボオの夢みたように、世界は新しくは変わらなかった。
 ──世の中はすべてもとに戻り──むかしの淫売宿に/むかしどおりのどんちゃん騒ぎがおっ始まる/ガス燈が 熱にうかされたように不気味に燃える/赤く血に染まった城壁に 蒼ざめた空にむかって!(「パリのどんちゃん騒ぎ」)。

 彼はその苦い敗北感を、「あれはおれたちにとって何んなのか」という詩のなかに、怒りをこめて書いている。この詩は一八七一年の末頃か一八七二年内に書かれたとみられている。したがって、コミューヌ弾圧者たちにたいする怒りは、コミューヌ敗北後もなかなかに消えなかったのである。

    あれはおれたちにとって何んなのか

  あれはおれたちにとって何んなのか おれの心よ
  あの血の海 火の海 ものすごい虐殺 怒り狂った
  叫び声 秩序をひっくり返す地獄のうめき声
  そして廃墟のうえを吹きまくる北風と復讐とは?

  復讐だって? 何もない……だがおれたちは復讐したい
  実業家ども 王公ども 上院議員ども くたばれ!
  権力よ 正義よ 歴史よ 消えうせろ! それはおれたちの
  当然の要求だ 血だ 血だ 黄金色の炎だ!

  みんな出てゆく 戦争へ 復讐へ 恐怖へ
  おれの心よ 傷口のなかへ引きかえそう
  ああ 消えうせろ この世の共和国ども!
  皇帝 軍隊 移民 民衆 もうたくさんだ!

  おれたちが兄弟と思う連中とおれたちのほか
  燃えさかる火の渦巻を だれがあふれるものか
  奇抜な友らよ それこそがおれたちにふさわしいのだ
  おお 火の波よ! おれたちは断じて働くまい

  ヨーロッパよ アジアよ アメリカよ 消えうせろ!
  おれたちの復讐の行進は すべてを占領した
  都市も田舎も! ──だがおれたちは粉砕され
  火山は 爆発するだろう! そして大洋は荒れ狂い……

  おお仲間たち!――たしかに彼らは兄弟だ!
  見知らぬ黒ん坊たちも! どうなろうとさあ行こう
  何んということだ 気がつけば古い大地が震える
  おれの上に 次第にきみらの上に! 大地が崩れかかる

    何んにも起りはしない おれはここにいる 相変らずここにいるのだ

 この詩は無題であったが、のちにパテルヌ・ペリションによって「めくるめき(Vertige)」と名づけられた。それは「言葉の錬金術」のなかの「おれは沈黙を夜を書きとめた。説明しがたいものを書きとった。めくるめきvertigesを定着させた……」という章句にのっとって、名づけられた。
 この詩にみられる激しい革命的な調子は、コミューヌ敗北後もまだ消えやらぬ、コミュナールとしてのランボオの革命的熱狂を示している。彼はコミューヌの兄弟たちと同じように、「王公ども」「上院議員ども」などの支配勢力の消滅と破壊をねがうと同時に、その社会のあらゆる形式──「軍隊、移民、民衆」にたいする嫌悪をも表白する。さらにその憎悪は、「ヨーロッパよ アジアよ アメリカよ 消えうせろ!」といって、文明の諸大陸へと向けられる。これはまったくアナーキスム(無政府主義)の詩であり、全的な反抗の詩である。

  おお 火の波よ! おれたちは断じて働くまい

 この「おれたちは断じて働くまい」は、ランボオによるブルジョワ社会にたいする拒否を示すことばで、それはすでに一八七一年五月十三日付のイザンバール宛の手紙のなかにも、「働くなんて、とてもとても」と書かれていたし、やがて『地獄の季節』のなかに「おれはあらゆる職業が大嫌いだ」と書かれることになる。反動期のなかでランボオは革命的希望を失うにいたるが、しかしブルジョワジーを徹底的に拒否するのである。ここにボードレールの場合との決定的なちがいがある。
(つづく)

新日本新書『ランボオ』)

ランボオ

ファンタン・ラトゥール「テーブルの隅」のための素描(1872年)



コミューヌが敗北して

 わたしはパリとおぼしい方角の空を見る。赤い雲を浮かべた、抜けるような青空だ。まるで血に漬かった大きな菜っ葉服のようだ。
           ──ジュール・ヴァレーズ『蜂起者たち』

(1)
 パリ・コミューヌが敗北して、ランボオに何が起きたか。当時のフランスの多くの若者たちと同じように、彼もコミューヌに託した大きな希望が無残にも崩れ去ったのを苦々しく感じ、その絶望に痛々しく耐える。(フランスの十九世紀の若者たちは、一八三〇年の七月革命、一八四八年の二月革命および労働者の六月反乱の弾圧、そして一八七一年のパリ・コミューヌの敗北によって、相ついでその心に深い傷手をうけたのだった。)完全に追い払ったと思っていたあの連中──職業的政治屋、たらふく喰べている貴族、牧師、資本家、軍人、サロンの貴婦人、ぺてん師どもが、ふたたび権力につくのを彼は見る。また、コミューヌの嵐のあいだ、穴倉にかくれていたシャルルヴィルのブルジョワどもが、その穴倉から出てきて、安堵の胸をなでおろして大笑するのを聞いたとき、どんなにランボオの胸は怒りに顕えたことだろう。──コミューヌをやっつけた人殺しどもは、おれたちの町にもいるのだ……。
 コミューヌのあいだ、たとえ彼はその戦闘に参加しなかったとはいえ、彼はコミューヌについて多く考え、想いを馳せ、コミューヌ戦士と闘うパリをほめたたえる詩を熱狂をもって書いた。しかし、歴史の残酷さによって、彼の潜在的なすべての友人たち──彼の読者となり聴衆なるべき人たちはブルジョワジーによって大量に殺されてしまった。それ以来、ブルジョワジーによる独占的な支配がつづき、その後永年にわたって労働者階級は抑えつけられ、フランスは激しい憎悪によって相対立する二つの陣営にひき裂かれる……。

 ナポレオン三世のクーデターののち、一八五二年三月、ボードレールはひとりの友人に書いた。「十二月二日はわたしを物理的に政治から引き離した」と。
 コミューヌの崩壊は、おなじような作用をランボオにおよぼすことになる。コミューヌにたいする熱狂を高らかに歌った後、彼はそれ以来、「魂から魂へ」と語りかけるようになり、遠まわしにしか話さなくなる。コミューヌへの弾圧以来、戒厳令がしかれていたことも考慮に入れなければならない。その後の彼の詩をもっぱら神秘主義、オカルティスムの所産とみなす批評家が多い。むろんそういう側面のあることを否定するものではないが、コミューヌ敗北後のランボオの詩作品を神秘主義、オカルティスムだけによって説明しようとするのは大きな偏向でありあやまりでもあろう。ランボオはみずからそれを「わが狂気の沙汰」と呼んでいる。なぜ彼がその狂気の沙汰を演じるにいたったかを追求することが問題であろう。
 ランボオは、コミューヌの世代が味わった深い絶望、精神的混乱から脱けだすために、まちがった解決法をふくめてあらゆる解決法をまじめに一生懸命に試みるようになる。彼は深い絶望を感じたからこそ、全力をあげてそれに立ち向かったのである。ランボオのすばらしさはそこにある。
 したがって、コミューヌ敗北後の数年にわたるその詩作期間をとおして、コミューヌ体験はランボオの意識から、あるいは記憶から、その影を消しさることはなかったといえよう。コミューヌ体験の反映は、「地獄の季節」のなかにも現われずにはいないだろう。
(つづく)

新日本新書『ランボオ』

さるすべり


「パリのどんちゃん騒ぎ」

 一八七一年五月、ランボオはコミュナールとしての熱情と怒りをこめて、最後の革命的な詩「パリのどんちゃん騒ぎ――或いは再び賑わいに返るパリ」を書く。コミューヌの騒ぎが収まると、ヴェルサイユやサン・ドニに逃げていた大ブルジョワたちがパリに戻ってきて、どんちゃん騒ぎをくりひろげる。その状況とブルジョワたちの退廃ぶりを、ランボオは、「聖なるパリ」との対比のうちに、描き出している。

     パリのどんちゃん騒ぎ
       或いは再び賑わいに返るパリ

  おお臆病者ども さあパリだ! 駅へなだれ込め!
  一夜「野蛮人ども(注1)」が埋めた その大通り(ブルバール)を
  太陽は その熱い息吹きで 拭いかわかした

  おお 西方に鎮座した 聖なる都 パリ!
  さあ 戦火が鎮まって われ先にと戻ってくる
  そら むかしどおりの河岸(かし)だ そら 大通り(ブルバール)だ
  そら 軽やかな青空を背に かがやく家々だ
  一夜 花火のような 赤い砲火を浴びた家々だ

  崩れ落ちた宮殿など 板張り小屋に隠してしまえ!
  おまえらの眼は かつての恐怖の日からよみがえる
  見ろ 腰をくねらせてゆく 赤毛の女たちの群を
  さあ 浮かれろ 眼を血走らせて 阿呆になれ!

  脂肉(あぶらにく)など食ってる さかりのついた牝犬ども
  金塗りの家々から上る叫びが おまえらをそそのかす
  盗め! 喰(くら)え! いまや身もしびれる歓楽の夜が
  街に降りてくるのだ おお 哀れな飲んだくれども
  ……………………
  おお 汚らわしい奴ら ぞっとする恐ろしい口ども
  もっと烈しく動きまわれ 悪臭を放つ口ども
  もっと酒を この下司な酔いどれどものテーブルに...
  おお 征服者ども(注2) おまえらの腹は 汚辱でいっぱいだ
  ……………………

  梅毒病みに 道化ども 王公貴族に その手先ども
  また腹話術など使う奴 おまえらの精神と肉体で
  おまえらの毒やぼろで 娼婦パリに 何ができよう?
  腐った悪党ども パリはおまえらをはじき出すだろう

  おまえらが死んだような 脇腹 臓腑(はらわた)に呻きながら
  無我夢中に金を叫びためながら ぶっ倒れるとき
  戦闘で 胸ふくらんだ 赤い娼婦 パリは
  しびれたおまえらをしりめに 堅い拳(こぶし)を握りしめるのだ

  おお 苦しみもがく首都 息も絶えだえの首都よ
  その頭と 二つの乳房を 「未来」の方に向けて
  蒼ざめた身に 無数の城門をひらいた首都よ
  暗い「過去」が おんみを祝福してもくれよう

  とてつもない苦しみゆえに 魅力もつ 身よ
  おんみはまた 怖るべき生をのみこんでしまう
  おんみの身ぬちには 蒼白い蛆虫どもが湧きいで
  おんみの 明るい愛の上を 氷のような指がうろつく

  だがそれも悪くはない 蛆虫も 蒼白い蛆虫も
  おんみの「進歩」の息吹きを止めることはできまい
  あの青い高みから 星のような金の涙を流す
 「女像柱(カリアチイド 注3)」の眼の光を消した「吸血鬼」と同じように

  そんな態(てい)たらくのおんみは 見るも怖ろしいとはいえ
  緑の「自然」にかくも悪臭を放つ潰瘍(かいよう)が かつて
  ひとつの都市につくられたことはなかったとはいえ
  詩人は歌うのだ 「おんみの美しさはすばらしい!」と

  嵐は おんみを 至高の詩へと 清め高めた 
  動きうごめく はてしもない力が おんみを救う
  労働が湧きたち 死が呻きをあげる 選ばれた首都よ
  重いラッパのなかに 鋭い叫びを 吹きこめろ

  詩人は聞きとるだろう 「不逞の輩(やから)」の呻き声を
  「徒刑囚」の憎しみを 「呪われた者」の叫び声を
  詩人の 愛のひかりは 「女たち」をむちうち
  その歌は弾(はず)むだろう 見ろ 見ろ この悪党どもを

  世の中はすべてもとに戻り──むかしの淫売宿に
  むかしどおりのどんちゃん騒ぎが おっ始(ぱじ)まる
  ガス燈が 熱にうかされたように不気味に燃える
  赤く血に染った城壁に 蒼ざめた空にむかって!
                     一八七一年五月

 注1「野蛮人ども」が埋めた――ドイツ軍によるパリ占領を指す。
 注2「征服者どち」――「血の週間」の銃殺者どもを皮肉ったもの。
 注3「女像柱」――ギリシャ人は、ペルシャにくみしたカリュアイを攻めて、男たちを殺し、女たちを奴隷に
したうえ、さらに伝えるために、重荷を背負う暗罪の女像を大理石柱に刻んで、このような女像柱をカリアチイドと呼んだという。ここでは、コミューヌのために戦ったパリの女たちを指すのか。ある批評家は、カリアチイドは古代文化の象徴であるとしている。

 この詩は一八七一年八月ヴェルレーヌに送られたものの一つであるが、そこから見てもランボオの自信作であったと思われる。
 この詩は一般に「パリ戦争の歌」のあとに置かれていて、ヴェルサイユ軍の勝利を扱ったものとされている。しかしM・A・リュフの指摘によれば、この詩はコミューヌの翌日を描いたものではなく、ランボオが見た普仏戦争末期のパリを描いたものだという。そのときもヴェルサイユやサン・ド二へ避難していたブルジョワたちがパリへ戻ってきたのである。そういう細かい点はとにかくとして、ここでランボオが保守的なブルジョワたちの頽廃ぶりを痛烈に罵倒していることは間違いない。
 この詩では、パリの都市はコミュナールたちになじみ深い暗喩にしたがって、ひとりの女性の姿のもとに描かれていて、パリはその顔を「未来の方に」向けている。だがヴェルサイユの大ブルジョワどもが帰ってきて、またしてもパリを腐敗と堕落のなかへ突き落すのである。

  梅毒病みに 道化ども 王公貴族に その手先ども/また腹話術など使う奴 おまえらの精神と肉体で/おまえらの毒やぼろで 娼婦パリに何ができよう?/腐った悪党ども パリはおまえらをはじき出すだろう

 しかし詩人の希望と夢はかなえられず、世界は変らなかった。
  世の中はすべてもとに戻りーむかしの淫売宿に/むかしどおりのどんちゃん騒ぎがおっ始まる/ガス燈が熱にうかされたように不気味に燃える/赤く血に染った城壁に蒼ざめた空にむかって!
 この章句は、新しく変らなかった現実世界を描きながら、深い絶望の色にいろどられている。

新日本新書『ランボオ』

銀座


  街道の詩・「居酒屋緑亭」

 ドゥエからシャルルヴィルに帰ると、ランボオはふたたび退屈な生活を見いだす。為すこともなく、彼はメジエールの友人エルネスト・ドゥラエを訪ねる。二人はいっしょにあたりをさまよい、ランボオは自分の詩を読んできかせる。二人のあいだには深い友情が生まれ、その友情はその後二十年にわたってつづく。
 帰ってから一週間後の一八七〇年十月七日、早くもランボオは二度めの家出を決行する。彼はベルギーのシャルルロワに住んでいる学友ジュール・デ・ゼサールを訪ねてゆく。靴ずれによる足の痛みを我慢しながら、彼は徒歩でベルギーへ向かう。ジュールの父親は上院議員で「シャルルロワ」新聞を出していた。ランボオの目的はその新聞に自分の詩をのせてもらうことと、新聞記者として雇ってもらうことであった。ジュールは、学校でのコンクール賞に輝くランボオを親切に迎えてもてなす。しかし、家人との話しあいは悪い方へむかう。ランボオは共和主義を支持するという自分の考えを口にする。しかし、ベルギー人のデ・ゼサール家は王党派であった。ジュールの父親の上院議員はいう。
 「お若い革命家よ、わしの新聞はきみには向かない。まずきみの大学入学資格(バッショ)をとりたまえ」

 その後、彼はブリュッセルを回ってドゥエのイザンバールのところ、つまりジャンドル姉妹の家へゆく。この前の家出の折、やさしい母親のような世話を受けたことが忘れられなかったからである。――このドゥエで、彼は若い詩人ポール・デムニと知りあいになる。それから八カ月後、このデムニにランボオは二番めの「見者の手紙」を書き送ることになる。
 十一月二日、シャルルヴィルに帰ったランボオは、ドゥエのイザンバールにあてて書く。「ぼくは死にそうです。平板さのなかで、意地悪さのなかで、単調さのなかで腐ってしまいそうです。……ぼくはものすごく自由な自由にあこがれています……ぼくはきょうにもまた出発すべきだったのです。出発できたのです。ぼくは新しい服を着ています。時計を売ります。そうすれば、自由万歳!です」
 この二度めの家出の終り頃、ランボオはドゥエにいた時、ベルギーで作った詩を書き写して、新しい友人デムニに送っている。「居酒屋緑亭で」「いたずら好きの女」「食堂(ビュッフェ)」そして有名な「わが放浪」など、いわゆる「街道の詩」で、テーマも共通でシャルルロワでつくられた。

 「居酒屋緑亭」のほんとうの名は「緑の家」であった。家も家具もすべてが緑色に塗られていた。ランボオはベルギーを横切っていたとき、そこに寄ったのだった。

    居酒屋緑亭にて  夕ぐれの五時

  八日来(らい)の 石ころ道に靴も破れ
  おれは シャルルロワに入った
  居酒屋緑亭で バター塗りパンと
  ハムを注文 ハムはもう冷えていた

  幸せな想いで 緑のテーブルの下に
  脚(あし)を伸ばし 素朴な壁掛に見とれた
  すると なんともすばらしいことに
  乳房の大きな 眼のぱっちりした娘が

  キッスなどに びくともしない娘(こ)が
  笑みを浮べて運んできた バター塗りの
  パンとぬるいハムを 色塗りの皿で

  にんにくの匂うハムは ばら色で白く
  そして大きなジョッキに注いでくれた
  泡立つビールは 夕日に映えて黄金色
                一八七〇年十月

 緑亭――この希望の色をした家は幸福と自由の象徴である。詩人はそこで「幸せな想い」に浸る。「キッスなどにはびくともしない」給仕女はまた「いたずら好きな女」のなかにも現われる。この詩でもランボオは「幸せにじっとして」いる。

    いたずら好きな女

  ニスと果物の いりまじった匂いのする
  褐色の食堂で のんびりくつろいで
  おれは何か ベルギー料理をとりよせ
  大きな椅子に坐って たべながら

  柱時計の音を聞いていた 幸せにじっとして
  一吹きの湯気とともに 料理場が開いて
  給仕女がやってきた なぜかなかばほぐれた
  三角の肩掛けをして いたずらっぽい髪をして
  うぶ毛のある うす紅の桃のような頬の上に
  ふるえる 小さな指をさまよわせながら
  子どもっぽい くちびるを尖らせながら

  彼女は おれを喜ばせようとそばで皿を並べ
  それから まるでキッスをしてというように
  小声で「ねえ 頬に霜焼けができちゃったの……」

 ランボオは「わが放浪」のなかに彼の放浪生活を天才の閃きをもって描いている。「ファンタジー」という副題をもつこの詩は、現実よりもファンタジーに属するものであろうが、「街道の詩(うた)」をしめくくる作品である。それは恐らくその時代のもっともうつくしい詩のひとつであり、ランボオの作品のなかでももっともうつくしい作品であろう。

  おれは出かけた 破れポケットに拳をつっこんで
  おれのマントもまた ぼろでかたちばかり
  おれは空の下をゆき 美神(ミューズ)よ おん身に忠実だった
  おお おれはなんとすばらしい愛を夢みたことか

 ランボオが家出をくりかえした頃、出発という主題は彼の詩のなかで大きな場所を占めている。

     冬の夢

  冬 おれたちは出かけよう ばら色の小さな客車で
     青いクッションに坐って
  たのしいだろう ふんわりしたどの隅も
     熱い接吻の巣になるのだ

  おまえは眼を閉じる 窓越しに 夕ぐれの影どもが
     しかめっ面をするのを 見ないように
  あのがみがみ言う怪物ども 黒い悪魔や
     黒い狼どもの群を 見ないように

  やがておまえは 頬を掠めるものを感じるだろう
  やさしい接吻が 気まぐれな蜘蛛のように
     おまえのうなじを這いまわった……

  するとおまえは 頭をかしげて言う「探して!」
  おれたちは その虫をゆっくりと探すだろう
    ──ほうぼう這いまわる その虫を
              客車で 一八七〇年十月七日

 二回めの家出ののち、シャルルヴィルに帰ってから、「出発」という主題はランボオの詩の主要なもののひとつとなる。出発する、帰ってくる、また出発する、帰ってくる……これがランボオの生活のリズムとなる。詩人は出発を夢みる。「よき宿屋」を夢みる。「居酒屋緑亭」や「いたずら好きな女」におけるような、あの心地よい宿屋はランボオにとって平和と自由の隠れ家であった。この田舎の「宿屋(オーベルジュ)」ということばは彼の詩のなかによく出てくる。「わが放浪」のなかでは、「おれの宿屋は大熊星」とも書いている。

 しかしこの「出発」も、イザンバールへの手紙に書いたような「自由な自由」も、失敗することが明らかになる。それでもシャルルヴィルにとどまっていることのやりきれなさを、彼はその後「記憶」のなかに美しく書く。

  おれの小舟は いつもじっとして 錨索(いかりづな)を
  涯しない水の眼の底におろす――どんな泥の深さか

 さらに後の『地獄の季節』の「不可能事」においては、おのれの少年時代の放浪生活にたいして、悔恨をまじえた自己批判を加えている。

ああ! あの少年時代のおれの生活、時をかまわず街道を歩き、超自然的に飲まず食わずで、もっともすごい乞食よりも平然として、国も友もないことを自慢した。なんという愚行だったことか、それは。


 さてランボオの反抗は、その時代の政治的および社会的な諸問題にたいする鋭敏な自覚とともに始まっている。普仏戦争の始まった一八七〇年七月以来、彼はナポレオン帝制に反対する詩、「一七九二年の死者たち」や「シーザーのいらだち」を書いている。この後の詩は、ナポレオン三世がセダンにおいてプロシャ軍の捕虜になったという状況から想を得て書かれている。

     シーザーのいらだち

  蒼ざめた男が 花咲く芝生にそって歩いている
  黒い服をきて その口には葉巻をくわえて
  蒼ざめた男は チュイルリーの花壇を想う
  すると どろんとしたその眼がぱっと輝く

  皇帝は 二十年のお祭り騒ぎで酔っぱらっている
  彼はつぶやいた 「わしは 蠟燭の火のように
  自由を そっと巧みに 吹き消してやろう」
  自由はよみがえった! 彼は背骨を折られるのを感じる

  彼は捕えられた――どんな名がその無言の唇に
  震えるのか どんなむごい悔恨が彼を噛むのか
  だれにもわからない 皇帝の眼は死んだようになる
  彼は恐らく 鼻眼鏡をかけた共犯者を想い浮べる
  そして火のついた葉巻からのぼる青い細い煙を
  見つめる サン・クルー宮での夕べのように

 蒼ざめた男とは明らかにナポレオン三世である。顔の蒼さは、権力を失った皇帝の精神的な原因にもよるが、そのとき皇帝は重い膀胱炎を患っていて、そのために三年後には生を落すことになる。「花咲く芝生」はナポレオン三世が幽閉されていた、プロシャのウィルヘルムホシュの城のそれである。また「鼻眼鏡をかけた共犯者」とは、一八七〇年にプロシャに宣戦布告をした大臣エミール・オリヴィエを指している。サン・クルー宮は皇帝と皇妃ウージェニーの居城のひとつであった。
 ここでは、皇帝批判のようなテーマをみごとに詩に形成するというランボオの詩的才能もさることながら、その政治的意識の高さと確かさとを見てとることができる。またこの頃、おなじく普仏戦争から想を得た「谷間で眠る男」が書かれる。

      谷間で眠る男

  緑の窪地のあたり 河が銀のぼろ切れ(注1)を
  岸べの草にきらきらまとわせながら歌っている
  太陽は 高慢ちきな山から 輝いている
  小さな谷間は 光にあふれ 泡立っている

  若い兵士がひとり 帽子もかむらず 口を開けて
  冷たい 青い芹のなかに漬かって 眠っている
  雲の下 草の上 蒼ざめて 彼は横たわる
  光の降りそそぐ みどりの寝床のなかに

  グラジオラス(注2)の中に足を入れて 彼は眠る
  病んだ子供のように微笑んで まどろんでいる
  自然よ 温かくあやしてやれ 彼は寒いのだ

  花の香りも もう彼の鼻をふるわせはしない
  彼は陽を浴びて眠る しずかな胸のうえに
  手を置いて──右の脇腹には二つの赤い穴
                     一八七〇年十月

 注1 銀のぼろ切れ──太陽に反射して輝く河面の形容。
 注2 グラジオラス──黄色い花をつけたグラジオラスである。

 この詩は、あざやかな生と死の対照のなかに、戦争の怖ろしさを描きだしたひとつの画面である。E・ヌレが言うように「生気にみちた植物と溢れる光のなかに、ひとりの人間の肉体がじっと横たわって身じろぎもしない。緑、青、黄の点描のあいだに、二つの赤い穴があざやかである」
 緑と青は自然の静けさ、草の溢れる生命を現わしている。そして血の赤さは、ここではたんに緑の生命をひきたてるばかりでなく、この詩の主題を浮きたたせている。
 「彼は寒いのだ」―兵士はもうまわりの溢れる生命にくみすることもできず、温かい太陽をたのしむこともできず、すでに死の冷たさが彼をとらえているのである。

新日本新書『ランボオ』

草


一九四六年(昭和二十一年)三十六歳
 一月、「そんね」(詩)を「新詩人」(小出ふみ子編集)に、「忘られし園」(詩)を「近代詩苑」(北園克衛・岩佐東一郎 「文芸汎論」の後継誌)に発表。二月、長男朋光出生。同月、ルヴェルディ「風と精神」を「新詩人」に発表。同月、長野市で開かれた日本共産党の演説会へ行きその場で入党。「一九四六年二月のある雪の降る日、日本共産党の演説会が長野市でひらかれた。演説をきいて感動したわたしはその場で入党申込書に署名した。わたしにこの決意を堅めさせたものは、学生時代にかいま見た党の姿の雄々しさであり、「帝国主義戦争は敗北に終わるであろう」という党の戦前の見通しの正しさが眼の前で歴史的に証明されたことへの驚嘆であり、そうして戦争中のあの穴倉のなかの詩から抜けでたい、抜けでなければならないという激しい願望と衝動であった。」(『大島博光全詩集』 「あとがき」)「むろんこの入党には、わたしが学生時代に読んだ『共産党宣言』の記憶、その頃の学生運動のなかでかいま見た党の姿などが、わたしのなかによみがえって大きく作用していたのです。」(「千曲川のほとりの思い出 「多喜二・百合子賞」受賞に際して」 「民主長野」 一九八五年三月)この後、日本共産党更植地区委員会結成に参加する。また戦後第一回総選挙闘争のため、松代近在の村々で選挙の応援演説に参加する。三月、「新しき詩のために」(エッセイ)を「新詩人」に発表。五月、「緑の泉」(詩)を「ルネサンス」に、アラゴン「讃歌」を「新詩人」に発表。六月、アラゴン「マニトゴルスク(ママ)の愛人たち」を「新詩人」に発表。七月、「昆蟲記」(詩)を「新詩人」に発表。九月、「詩と詩人について」(エッセイ)を「新詩人」に発表。

一九四七年(昭和二二年)三十七歳
 一月、「ヴァレリイの詩について」を「現代詩」に発表。三月、「詩に音楽性を」(エッセイ)を「新詩人」に発表。五月、ヴァレリー「詩神」を「現代詩」に発表。八月十一日、共産党の文化講座で「詩について」と題して講演をする。十月、「風のように」(詩)を「詩学」(岩谷満編集発行)に、「ランボオの芸術と生活」、「地獄の季節」、「愛の砂漠」を「肉体」(ランボオ特集号)に発表。十一月、「フランス詩壇について」を「新詩人」に発表。十二月、「アルチウル・ランボオ二章」を「文壇」に発表。

(『狼煙』85号 2018年4月 重田暁輝編集)

山中湖



大島博光年譜5(一九四五―一九四七)

一九四五年(昭和二十年)三十五歳
 一月三日、鈴木静江と長野駅にて再会する。二月、再度招集令状を受けるも再び解除となる。
「いよいよ怠惰な詩人にも国民徴用出頭令なるものが、今日参りました。二月五日に出頭、徴用決定までには少なくも廿日位の余猶はありませう。ただ希はくばイオニアの岸に近きところに徴用されたきものです。さらに希はくば、この徴用がウエディング・マーチによって伴奏さるる機会とならむことを!」(一日付鈴木静江宛)
「徴用出頭は、いよいよウエディング・マーチへのアフロディーテのお導きではないかしら……或いはわたしたちの春の流れへのプレリュードではないかしら……/おお しかし、願はくば、わたしのナルシスさまの傷つかぬようなお仕事でありますよう。/かよわい わたしの おこどもさんの堪え得るようなお仕事でありますよう。/あなたよ、けれど どのような事になりませうとも、お力落しになられないで……/あなたになる わたしが居ります故。居ります故。/参りますわ。十一日に。/又、一時半 長野駅着で。」(四日付大島博光宛鈴木静江書簡)
「いま両親と共に、われらの《聖地》渋へきてゐます。君がいっしょでないのが残念です。徴用の方は九分通り解除になるやうです。またしても美神の恩寵といふほかありません。」(六日付鈴木静江宛)
 以降、ギリシャ古典調の詩を混じえた恋愛書簡を頻繁にやり取りする。三月一日付の書簡にプロティノスへの言及がある。
 四月、東京無線に入社する。
「ψ、一日に東京無線へ行き、入社は殆ど決定しましたが、目下会社側の多忙のため、ポストや条件の決定はまだです。近いうちに呼び出しがあるでせう。それまで最後の閑暇をたのしんでゐます。――久しぶりに『マルテの手記』を読みかへし、その中に浸ってゐました。精神を思ふままに転位すること、しかも常に高みへと転位すること、――そのやうな自己操作の訓練をおもってゐます。」(四日付鈴木静江宛)
「会社内では、一番らくなポストを望み、本でも読ましてもらはうと思ってゐたのに、一番頭脳的で、忙しい業務係にまはされてしまゐ、それも、入社早々、主任の次席などを与へられて、本の読めないのには閉口です。しかし、このあひだは、デカルトの「方法序説」をよみ了へました。Bureauで読むデカルトのすばらしさは、今までの読書にない新鮮な歓びです。あの、ただ厳密に真理を追究する方法について簡明に書かれてゐる書が、詩よりも詩的でした。」(五月五月付鈴木静江宛)
 五月二十日、鈴木静江と結婚。
 八月十五日、終戦。
 秋、上高井郡川田村(現在の長野市若穂川田・若穂牛島)に疎開していた鈴木初江を訪ねる。
「そうこうしているうちに八月十五日に敗戦、その秋十月か十一月か、大島博光さんが来てね。政党に入れってすすめたんです。そのころ共産党の人達が釈放されたんです。/私も、かつて左翼的な運動をしたこともあるからか、と思ったりしたけれど、相手が大島さんだったことに非常にびっくりしたんです。というのは、抒情詩人としての大島さんしか私は知らなかったわけ、あの頃は『蝋人形』にいたでしょう。あんな甘い雑誌をやっている大島さんが何で私に?って、非常に以外(ママ)だったわけですよ。」(『長野県現代詩史1955-1989』 柳沢さつき編集代表 しののめ書房 一九九〇年 「座談会編」「東京方面」における鈴木初江の発言。)
(つづく)

(『狼煙』85号 2018年4月 重田暁輝編集)

結婚

野球

8月13日 火曜日 はれ
ひさしぶりにグランドでソフトボールをした。
ぼくは三るいゴロばかりだった。一本だけテキサスヒットをうった。

*近所にある空き地で子供たちはいろんな遊びをやりました。子供たちが自由に遊べる空き地、今思えば子どもの楽園でした。
ヘチマ

8月12日 月曜日
学校に行った。
ひょうたんやへちまの花や実ができていた。
グラジオラスもさいていた。

*「登校日」に学校に行ったのですね。校庭にある畑でひょうたんやヘチマを育てていました。学校の楽しい行事、今も同じことがやられているのでしょうか。


テレビ


8月11日 日曜日
夜 えいちゃんのうちにテレビを見に行った。

*テレビのある家に近所の子供たちが集まって、窓の外からテレビを見させてもらいました。もちろん白黒のブラウン管テレビです。

花火
 
夜 花火をした。
ことしも やねにのって見たかったが だめだといったので 
共立農機の横の道で のりちゃんたちと見た。
ことしも、のりちゃんと、花火に名前をつけて おもしろがった。

*井の頭公園の花火、少し遠いのですがよく見えました。