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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


バラまつり
(7)クーデタの背景

 チリ人民連合政府の三年間は、人民の統一による「反帝、反独占、反封建」の民族民主革命の発展と、これに対抗するアメリカ帝国主義、大資本家、大地主、さらに極左分子とのたたかいの過程でした。
 しかしながら、ついに一九七三年九月十一日、人民連合政府は軍部ファシストのクーデタによって崩壊させられました。チリ人民はこれまでたびたびクーデタの陰謀に会いながらも、これを人民の動員によって粉砕してきました。しかし、こんどはどうして人民連合の努力にもかかわらず、クーデタを成功させてしまったのでしょうか。前節でみたようなアメリカ帝国主義、右翼反動勢力、極左集団の攻撃のほかに、つぎのような要因があります。

チリの教訓から何を学ぶか

 第一に、中間層を含む強固な統一戦線を広範につくりだすために、まだ一歩力不足であったということがあげられます。人民連合は文字どおり「チリ国民の九〇パーセント以上」の利益を守る政策を実施して諸階層の同盟のための努力をつづけ、支持を拡大してきました。しかしながら、「左」右からの分裂策動によって、とくに中間層の人々が動揺させられ、人民連合への結集のテンポが遅かったといえるでしょう。
 第二に、軍部の問題があります。ラテン・アメリカではめずらしく、チリでは一九三二年以来軍部のクーデタが成功していませんでした。このことの背景には、なによりも人民の民主主義をめざすたたかいの持続的な発展があります。そのなかで、軍隊においても一定の民主主義思想が根づいていました。しかし、アメリカ帝国主義の軍事支配体制の中で存在してきたこと、また人民連合政府成立前の歴代政権下で人民の闘争を弾圧してきたことも事実です。
 したがって人民連合政府の軍隊改革の努力にもかかわらず、アメリカ帝国主義や右翼反動勢力のテコ入れや極左分子の挑発のなかで、アメリカ帝国主義と反動勢力はついに反動勢力の道具として軍隊を使用しうる状況をつくりだすことに成功しました。しかしそのため、軍人の中の民主主義者をクーデタ直前に大量に処刑したり、とらえたりしなければならなかったのです。
 第三にあげなければならないのは人民連合自体の弱点です。人民連合は広範な諸勢力の統一体でした。したがって、一つ一つの政策の細かいところでの不一致はむしろ当然のことといえます。それは一致点での行動のつみ重ねによって克服できるものです。重要なのは革命の戦略の問題です。共産党やアジェンデ大統領は、広範な人民を結集して民族民主革命を徹底させてこそ、社会主義への道がきりひらかれると考えていました。一方、人民連合内の一部の人たちはMIRのようなやり方を支持して、いっきょに社会主義革命を行なうことに賛成していました。このような革命の基本的な問題での不一致が、MIRの反革命活動を許し、さらに右翼反動勢力の攻撃を容易にする一つの大きな原因になったのです。
 チリ人民は、人民連合政府成立までの長い道のりと人民連合政府樹立後の三年間の果敢なたたかいを通して、民主主義と民族解放をめざす世界の人民に偉大な貢献を行ないました。私たちは、チリ人民の犠牲をむだにせず、彼らの残した教訓を深く学び、明日のたたかいに生かさなければなりません。

 <アジェンデは労働者の味方だった>

 前政権の破産状態をひきつぎ、また国会では少数与党という困難な条件のもとにおかれていたにもかかわらず、アジェンデ政権が経済の復興や動労者の生活の擁護という点で達成した業績は、今後ますます明らかになるでしょう。
 人民連合支持者にたいする射殺や逮捕がつづいていたときでさえ、人びとは「アジェンゲは労働者の味方だった」(『朝日』)、「かれは貧乏人の味方だった」(『読売』)、「アジェンデさんは立派な人だった。おかげで来月末には新しいアパートに移れます」(『サンケイ』)とはっきり語っています。これはクーデター直後、ようやくチリ入国を許された日本人記者に、サンチアゴ市民が語ったことばで、人民連合政府の成果をはっきりとものがたるものです。
(この項おわり)

(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」)

アジェンデ



(6)極左集団の攻撃

 アメリカ帝国主義と右翼反動勢力の右からの攻撃にあわせて、極左集団MIRはこれに「左」から手をかしてきました。チリでは、人民の統一戦線への結集が拡大、強化されるなかで、極左集団は分裂や消滅をよぎなくされてきました。
 しかし、一九六五年に結成されたMIRは生きのこり、武装闘争を公言して、テロと暴力の破壊活動を行なってきました。そして、広範な人民の支持していた人民連合政府を支持するようなポーズをとりつつ、「武装闘争への発展による人民権力の樹立」を主張しました。
 MIRはアジュンデ政府と共産党に攻撃を集中して、民族民主革命の路線をブルジョア改良主義としてののしりました。
 MIRのやった活動は分裂策動以外のなにものでもありません。貧しい農民や失業者たちを挑発して、国有化の基準以下の農地を占拠したり、中小の工場を占拠したりして中小農民や中小企業者を不安におとし入れ、彼らの人民連合からの離反をあおりました。また、人民の間に大きな影響力をもち、人民連合に一定の理解をもっている人々をふくんでいるキリスト教民主党を全面的に攻撃して、人民連合との対立をうながしました。
 さらに、人民連合内部の不一致点を利用した分裂策助を行ないました。彼らは共産党に攻撃を集中して、MIRに同情的な一部の党に「ブルジュア改良主義」からの脱却をせまりました。実際、一九七三年三月には、人民連合を構成する人民統一行動運動(MAPU)がMIRをめぐる対立で分裂したのです。
 このように、MIRは広範なチリ人民の統一と団結による民族民主革命の遂行を妨害し、とくに中間層を攻撃することによって彼らを動揺させ、そしてさまざまの挑発活動を行なうことによって右翼反動勢力の攻撃の口実をつくりだしてきました。

<MIR>

 MIRはチリの極左集団「左翼革命運動」のこと。この組織は一九六四年の大統領選挙後まもなく結成されたもので、おもに学生出身で共産党や社会党から脱落した連中が加わっています。
 MIRは人民連合に参加せず、「投票のかわりには鉄砲を」とか「人民連合政府から独立した人民権力を」などという主張をかかげ、人民連合とその政府にたいして挑発的な態度をとってきました。
 そして、人民連合政府のもとで民主主義が徹底し保障されていることに便乗して、人民連合の政策を勝手にねじまげ、右翼や一般国民にたいしてテロをおこない、中小地主の土地や中小工場を不法に没収したり占拠したりしました。こうしてMIRは、人民連合政府を「左」から攻撃するとともに、反動勢力に「あれが人民連合の正体だ」といった反共宣伝の口実をあたえ、こんどのクーデターを挑発する役割を果たしました。チリ共産党は、このMIRには一貫して反対してきました。
(つづく)

(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」)

アジェンデ

(5)チリの右翼反動勢力の攻撃

 つぎに、右のようなアメリカ帝国主義、CIAの支援にささえられたチリ国内の右翼反動勢力の展開した反革命活動をみましょう。
 まず第一は、人民連合政府成立直後にCIAとITTの援助のもとに結成された「祖国と自由」の活動です。
このファシスト団体は人民連合政府の転覆を唯一の目的としてつくられたものです。反動勢力はこの組織を使って、人民連合政府がクーデタで倒されるまでの三年間、人民連合派の人々にテロと暴力をあびせ、中間層にたいしては脅迫をつづけました。そして、MIRを挑発して暴力的衝突をひきおこしながら、軍部の決起を呼びかけつづけました。
 第二に、彼らは国民経済のかく乱や破壊活動を行ないました。「工業振興協会」、「全国農民協会」などの大資本家や大地主の団体を通じて、生産のサボタージュ、買い占め、闇市場の組織、さらには物資を隠したりして日用品の「不足」をつくりだし、人民連合政府から人民が離反していくようあおっていきました。また、とくに中小企業者を脅迫したり、買収したりしてストライキを組織し、チリ経済を混乱させました。
 第三は、議会で多数を占めていることを利用した反政府活動です。これはとくに政府がすすめる大企業やアメリカ資本の国有化を阻止するために行なわれ、たとえば一九七二年二月、企業の接収は議会の承認を必要とするという憲法改悪案を可決しました。これにたいしてアジェンデ大統領は署名を拒否してたたかいました。
 第四は、資本家団体や暴力団による労働組合運動にたいする圧力です。彼らは、労働組合の民主主義を破壊し、一九七三年四月には、エル・テニエンテの銅山で一部の右翼的な労働者に無期限ストライキを組織させて政府に大きな打撃を与えました。
 第五はクーデタの策動です。一九七二年三月には、「祖国を自由」と結託した反動分子と退役軍人らがクーデタを企てました。一九七三年三月の国会議員選挙で敗北した反動勢力は、六月、クーデタを実行しました。しかし、いずれも人民の動員によって粉砕されました。
 以上のほかにも、右翼反動勢力は人民連合政府を転覆するためのさまざまな公然、非公然の反革命活動をくりかえしました。
(つづく)

(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」)

チリの闘い


<反革命クーデタ>

(4)アメリカ帝国主義の攻撃

 人民連合政府が広範な人民に依拠して「民族民主革命」を前進させるなかで、従来の支配階級――アメリカ帝国主義とこれに従属するチリの大資本家、大地主――は当然反革命的な策動を展開しました。
 アメリカ帝国主義は、一九七〇年九月のアジュンデの大統領当選以前から、人民連合政権の成立を阻止する策動を行なっていました。「進歩のための同盟」にのっとったフレイ政権の「自由のなかの革命」の失敗が明らかになり、人民連合政権成立の可能性が大きくなるや、アメリカ帝国主義は一九六九年十月チリ軍部の一部反動派をそそのかして「予防クーデタ」を試みました。これが人民の反撃の前に失敗すると、大統領選挙に圧力をくわえるために、CIAがチリの反動派の新聞「エル・メルクリオ」に資金を与えて反共宣伝を展開させました。さらに、アジェンデの大統領就任を前にした一九七〇年十月には、CIAとアメリカ独占資本ITTがチリ軍部の反動派をあと押ししてクーデタの陰謀をすすめました。この時、軍隊の政治的中立と憲法への忠誠を主張してクーデタに反対したシュナイダー陸軍司令官は、反革命分子によって暗殺されました。
 このように、アメリカ政府やCIA、アメリカ独占資本は、チリの反動勢力、軍部の反動派と提携して、すでに人民連合政府の成立前から、「予防クーデタ」や選挙干渉などの攻撃を行なっていました。これにたいして、チリ人民は統一と団結をもってたたかい、人民連合政権の樹立を成功させたのです。
 人民連合政権成立後のアメリカ帝国主義の攻撃はいっそう綿密なものになります。アメリカ帝国主義はインドシナで地に追いこまれ、ラテン・アメリカでも新たな反米運動の高まりに直面していました。したがって、アメリカ帝国主義は露骨な軍事干渉はひかえて、人民連合政府による諸改革を経済的側面から妨害し、チリ国内の反動勢力と極左分子を使った転覆活動を展開しました。
 第一は「みえない封鎖」といわれるものです。アメリカ帝国主義はこれまでチリの重要な経済部門を支配することによって年間二億ドルにものぼる利益をあげていました。そこで、人民連合政府がチリ経済をチリの手にとりもどすための諸改革に着手するや、米輸出入銀行、米州開発銀行、世界銀行などの国際金融機関は、チリの改革のために必要な資金の融資の要請を拒否して、これを妨害しました。チリの命綱である銅鉱山の国有化にたいしては、アメリカ人技術者を引き揚げることによって銅生産の円滑な発展を妨げたり、さらに差押えや銅の国際価格の引き下げ操作などによって、チリの銅輸出を妨害しました。
 第二にアメリカ帝国主義はチリの反動勢力の反革命活動に援助をしてきました。一九七二年九〜十月、反動勢力は人民連合政府の諸改革を妨害して経済をかく乱し、中間的な立場にある人々を人民連合からきりはなすためにテロで脅迫したり、反政府ストを煽動したりしました。アメリカ帝国主義はこのストライキに五千万ドルもの資金を与え、二千人のCIA要員を潜入させて、これを指導したといわれています。
 第三の攻撃は、チリ軍部の一部反動派にたいするクーデタ工作です。前に述べたように、アメリカ帝国主義は 人民連合政府の要請する借款は、ことごとく拒否しました。しかし一方で、軍部にたいする「援助」は惜しみませんでした。一九七一年には五百万ドル、一九七二年には千万ドルの軍事「援助」を供与しています。これらの援助で、従来アメリカ式に組織、訓練、教育されてきた軍部に、人民連合政府転覆のためのクーデターに決起するよう働きかけてきたのです。
 このような反革命「援助」には、ほかにAID(国際開発局)による技術援助があります。この「援助」はとくに中間階級の買収や労働運動指導者の買収に使われました。また米州開発銀行はチリの反動的な大学に借款を与えています。
 最後に、人民連合政府の諸改革政策を妨害し内戦を挑発するために、極左集団MIR(左翼革命運動)を利用しようとしました。これはCIAとITTの秘書文書に明らかされているものです。極左集団の暴力と挑発活動を利用して、「軍隊の介入を要する状況をつくりだすために」混乱状態をつくりだそうとするものでした。
 以上のように、アメリカ帝国主義は人民連合政府樹立の以前も以後も一貫して、チリ人民の真の独立への道をはばもうとしてきたのです。
(つづく)

ITT文書

(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」)

(3)外交政策

 外交面では、人民連合政府はキューパや中国などと国交を回復して社会主義国とも友好的な関係をうちたてるなど、自主的、平和的な外交政策を展開しました。そして、ラテン・アメリカ諸国と非同盟中立の立場での外交を積極的に発展させました。同時に、アメリカ帝国主義との間に結んでいた軍事同盟条約を改めて、アメリカ帝国主義の軍事支配をとり除く努力をつづけました。こうして人民連合政府は、アメリカ帝国主義に従属した外交を改め、真の平和共存の理念にのっとった自主的外交政策をおしすすめました。
 以上のようにして、チリ人民連合政府は、チリの経済、政治、文化をアメリカ帝国主義、大資本家、大地主の手からチリ人民の手にとりもどしました。そして、国の発展の土台である経済改革を成功させるために、チリの経済に社会的所有部門、私的所有部門、混合部門という三つの部門をつくりだしました。そのなかで、とくに社会的所有部門を中心にして生産を発展させることによって、アメリカ帝国主義、大資本家、大地主の経済支配を完全にうちやぶることが人民の重要な課題となりました。実際に、反動勢力や極左分子による妨害や分裂策動が本格的に開始されるまでのチリ経済は、さまざまな分野で活気にみちた発展をしめしたのです。このことは、人民連合政府成立後一年間で工業生産が一〇パーセントもの成長をなしとげたことにも示されています。
 こうしたたたかいの中心になったのはチリ人民自身でした。アジェンデの大統領当選を下からささえたのは、チリの全国各地に結成された一万二千もの人民連合委員会でした。そして、人民連合政府による諸改革の成功は、CUTに結集する百万の労働者を中心部隊としたこのような組織された人民の動員によって保証されたのです。同時に、行政機関をはじめとするあらゆる旧来の官僚主義を克服するたたかいもすすめられ、たとえば、土地改革の実施においては農民自身がこれに積極的に参加して、彼らの要求や意見が大いにとり入れられました。
 さらに、ベトナム人民をはじめとする世界の反帝民主主義勢力のたたかいは、アメリカ帝国主義を窮地においこみました。ラテン・アメリカでは、キューバ革命が発展しつづけ、ペルーやパナマなどでも反米的、民族主義的なたたかいが、大きな高まりをみせました。これらの世界各地における反帝民主主義勢力のたたかいが、チリ人民のたたかいを大いに励まし、それをささえる力になりました。
 こうして人民連合政府は、反動勢力の攻撃にあいながらも、着実に人民の支持を拡大していきました。一九七三年三月の国会議員選挙では、他の党派が支持を減らす一方で、人民連合は四三・四パーセントの支持率を獲得して、一九七〇年九月アジェンデ大統領の得票率三六・三パーセントにくらべて、大幅に人民の支持を伸ばしました。
(つづく)

ネルーダと

チリの誇り、世界的詩人 パブロ・ネルーダと大統領


(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」)

(2)国民生活の改善

 人民連合政府は成立後すぐに国民の生活条件の改善に着手しました。まず、物価上昇をおさえながら最低賃金を大幅に引き上げるなどの措置をとり、かたよった所得分配を改めました。
 幼児にたいしては一日半リットルのミルクを無料で配給し、労働者や失業者の医療費を免除するなどの社会福祉を拡充して、国民の健康管理の面に力を入れました。
 さらに、教育条件の改善においては、学校建設のほか青年たちが文盲一掃運動を展開するなどして大きな成果をおさめました。
 住宅の建設によって、多くの農民や都市貧困者が電気や水道はもちろん、床さえない"小屋"から施設の整った住宅に移ることができました。
 失業対策にも大きな努力がはらわれ、人民連合政府のもとで失業率は急速に減少しました。
 このように、人民連合政府は、労働者をはじめ青年、婦人などの人民の自主的、積極的な参加のもとに国民の生活条件を急速に改善したのです。

ITT
 ITT(国際電信電話会社)は、アメリカの世界的大独占企業の一つ。一九七一年国連統計によると、四十ヵ国に進出し、総売上げ高七十三億ドルで、世界第十一位の多国籍企業です。
 その本来の業務は電報電話ですが、中南米では通信とホテルを牛耳っています。チリでは、電話を支配し電報業務も大半を占め、ホテル経営でも巨大な利益をあげていました。
 このためITTは、アジェンデ大統領の人民連合政府ができる前から、チリで占める利権を失うことを恐れ、米CIAと組んでクーデターを計画しましたが、これは失敗しました。このときのクーデター計画の秘密文書は、一九七二年の米上院でもばくろされています。
 アジェンデ政権成立後もITTは、同政府の電話国有化の交渉に応じるそぶりをしながら、政府打倒の陰謀をめぐらしていたのです。
(つづく)

アジェンデ大統領


(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」)

不滅のチリ人民連合政府

<三年間の偉大な業績>

(1)人民連合政府の課題

 チリ人民は広範な民主勢力を結集する統一戦線を一貫して追求し、これを発展させてきました。その中心となったものは、チリの労働者階級に大きな影響力をもつ共産党、社会党、CUTの固い団結でした。そして、議会制民主主義が伝統的に存在しているというチリの政治的条件を十分に生かして、人民連合政府の選挙による平和的な成立をなしとげたのです。
 この章では、まず一九七〇年十一月の人民連合政府の成立によって開始されたチリ人民の反帝、反独占、反封建のたたかいをあとづけ、つぎに一九七三年九月の軍部ファシストによるクーデタにいたるまでの反動勢力の攻撃に焦点をあてて話をすすめましょう。
 人民連合政府の課題は、これまでの歴代政府がおしすすめてきたアメリカ帝国主義にたいする従属からぬけ出し、ひとにぎりの独占資本による経済支配をうちやぶり、大土地所有制を廃止することによって、チリ国民の「九〇パーセント以上」の利益を守り、真の独立を達成することでした。

大企業、大銀行、大土地の国有化

 「チリのサラリー」といわれた銅鉱山をはじめ、硝石鉱山、鉄鉱山などはアメリカの独占資本であるアナコンダ社やケネコット社などに握られていました。これらを国有化することは、人民連合政府成立以前から、すでにチリ国民の圧倒的多数が合意するところでした。そこで人民連合政府は成立後ただちにこれらの鉱山を国有化し、チリ人民の手にとりもどしたのです。
 人民連合政府はすべての大企業の国有化もすすめ、石炭、繊維、セメント、ガスなどの大会社を国有化しました。そして、流通過程の民主化をすすめながら、国の経済の重要な部門を国家の手に握ったのです。
 チリ経済の根幹でありながら、少数の財閥と外国資本の手中にあった銀行業も完全に国有化されました。
 また、人民の抑圧と貧困の大もとの一つであり、チリ経済の正常な発展をさまたげていた大土地所有制の打破のための土地改革も急速にすすめられました。この土地改革もすでにフレイ政権の時代から国民の多数が支持するものでした。実際、人民連合政府の土地改革は一九六七年の土地改革法を完全に実行するという形で行なわれたのです。そして、一九七二年八月までに、八〇ヘクタール以上の土地が接収され、約4万の土地をもたない長民や小作人の家族に分配されました。
 こうして、チリ経済の中枢は基本的にチリ人民のものとなりました。
(つづく)

人民連合

(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」)

(5)アジェンデ政府の誕生

 そしてFRAPは、さらに広範なチリ人民を結集するいっそう強固な統一戦線として、一九六九年十二月、人民連合(UP)へと発展したのです。人民連合には、共産党、社会党、急進党、社会民主党、人民統一行動運動、独立人民行動の六つの政党が参加しました。「人民連合の基本綱領」は、つぎのように述べています。
 「真に人民的な唯一の選択、したがって人民の政府がになうべき根本的な課題は、帝国主義者、独占体、寡頭地主の支配を終わらせ、チリにおいて社会主義の建設をはじめることである」
 このような共通の課題をかかげた人民連合は、ついに一九七〇年九月の大統領選挙で、アジェンデを当選させました。チリ人民は、一九三八年の人民戦線の教訓を十分にふまえて、労働者階級を中心に強固な持続的統一戦線=人民連合をつくりあげました。チリ人民は、アメリカ帝国主義、大資本家、大地主の抑圧をはねのけ、さらに人民連合政府の成立を阻止するためのたびたびの反動的クーデタの策動を、人民のゼネストでうちやぶることによって、人民連合政府の平和的、合法的な樹立を可能にしたのです。
(この項おわり)

アジェンデ

 (チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」)

<かちとられた人民連合政府 一九七〇年九月>

(4)第二次大戦後のチリ

 第二次世界大戦が終わると、チリではアメリカ帝国主義とこれに従属した少数の資本家、大地主の寡頭支配体制が強化されます。そのなかで、一九四六年チリ共産党は急進党とともに「民主同盟」を結成して、急進党のゴンサレス・ビデラを大統領に当選させましたが、その後急進党は右傾化し、共産党との同盟を破棄し、一九四八年共産党を非合法化するまでにいたったのです。
 しかし、労働者階級と農民はみずからの階級意識を高めるとともに、支配階級の弾圧をはねのけて、非合法のストライキの決行をふくむさまざまのたたかいをつづけました。一九五二年の大統領選挙では、共産党と社会党、そして国家民主党の三党が「人民の戦線」(FP)を結成して、社会党の指導者サルバドール・アジェンデを統一候補にたてました。この選挙でアジェンデは約五万票を獲得しました。
 この時成立したイバニェス政府は人民弾圧を強化しましたが、チリの経済的困難は増大し、一方、人民のたたかいは強化され、統一戦線の結成が追求されます。そして、チリの労働者階級は、さまざまな共同闘争の積み重ねの上に弾圧をはねのけて団結をかちとり、チリ労働者統一中央組織(CUT)を結成します。CUTには共産党、社会党、人民社会党、急進党、アナーキスト、キリスト教信者などの広範な労働者が結集しました。このCUTを土台にして、さらにFPの経験を積極的にひき継ぎ、一九五六年四月、統一戦線としての「人民行動戦線」(FRAP)が結成されます。これには、共産党、社会党、人民社会党、人民民主党、民主党が参加しました。FRAPは、共産党、社会党を中心として統一を強化し、農民、都市貧民、未組織労働者など広範な人民に働らきかけ、一九五八年の大統領選挙ではアジェンデ統一候補は三五万票余りを獲得して、チリの統一戦線の成長ぶりを示しました。
 共産党は一九五八年、十年ぶりに合法化をかちとり、労働者、農民のなかで大担な活動を展開し、社会党などのその他のFRAPに参加する諸政党も勢力増強をつづけました。
 こうして、一九六四年の大統領選挙では、アジェンデは約九八万票を獲得して第二位になります。
 この選挙で成立したキリスト教民主党のエドアルド・フレイ政権は、FRAPの手の届いていない未組織労働者や農民にたいする影響力をその基礎の一つにしていました。
 したがって、彼らにたいしては「自由のなかの革命」を旗じるしとして、農地改革の約束をするなどの欺瞞的政策をとりながら、実際には大資本家、大地主、そしてアメリカ帝国主義の利益を最優先させ、多くの人民をFRAPの側へおいやることになりました。
(つづく)

(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」)

バラ

(3)一九三八年の人民戦線政府

 一九三〇年代にはいると、世界的な反ファシズムの闘争のなかで、チリ人民は、みずからの役割をいっそう自覚してたたかいを強化します。統一戦線組織CNAの崩壊後、共産党が非合法化されたなかで、いくつかの社会党と名のる組織が生まれ、これらはイバニェスの組織した御用組合「合法労組全国連合」(CNSL)のなかで、影響力を拡大していきました。一九三二年六月には、社会党の一指導者マルマドゥーケ・グロペが軍事クーデタをもって政権をにぎり「社会主義国宣言」を行ないますが、すぐに逆クーデタで倒されてしまいました。グロペらは一九三三年チリ社会党を結成してCNSLの指導を強化します。一方、一九三一年に合法化された共産党の指導によってふたたび活発な活動を開始したFOCHは、一九三四年、CNSLなどの労働組合組織に統一を呼びかけました。そして、一九三六年、FOCHとCNSLを中心として、チリの組織労働者の圧倒的多数を結集するチリ労働者連盟CTCH)が結成されました。
 それに先だって共産党は一九三五年八月、人民戦線結成の呼びかけを行ないました。当時、共産党に対立していた「左翼政党ブロック」が存在しており、そのプロックの中には社会党、民主党、急進党左派、そして共産党左派を自称するトロッキスト集団などが入っていましたが、ブロック内部の革命的グルーブは共産党を含む統一組織の結成に努力しました。
 こうして、共産党、社会党その他の革命的民主主義者たちの一貫した努力、CTCHに結集する労働者階級のたたかい、スペイン、フランスでの人民戦線の闘争の力によって、「左翼政党ブロック」内の反共主義、トロッキズムは克服され、一九三六年三月人民戦線が生まれました。これには、「左翼政党プロック」加盟の諸政党、共産党、急進党、CTCHが参加しました。そして、右翼反動勢力の妨害と軍部ファシストのクーデタの試みをはばみつつ、一九三八年の大統領選挙には急進党のペドロ・アギーレ・セルダを統一候補として立て、約四千票の差で第一位を獲得、スペイン、フランスにつく人民戦線政府を樹立したのです。この政府にはのちの人民連合政府大統領サルバドール・アジェンデも公共保健相として入閣しました。
 しかし、支配階級の激しい攻撃、人民戦線に参加する諸政党、労働組合の団結の弱さ、人民戦線政府を下からささえる人民の運動の弱さなどのために、人民戦線政府は一九四一年一月崩壊し、急進党の一党政権に変質しました。この経験は、チリ人民に、労働者階級を中心として「反帝、反独占、反封建」のいっそう広範な勢力の統一とその団結の強化を要求するものとなりました。
(つづく)

(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」)

野の花

チリの夜明け 戦前の人民戦線から(2)チリ社会の転換期

チリ社会の転換期

 一九二〇年代にはいって、チリ人民のたたかいは新しい段階をむかえます。支配階級の支柱となっていた地主階級とこれに結びついたイギリス帝国主義は、チリの資本主義の発展にともなうブルジョア階級の成長とこれを支持するアメリカ帝国主義の進出に出会うことになります。一九二〇年にはいわゆる自由主義をかかげるアルトゥーロ・アレサンドリが大統領に当選しましたが、彼は労働者階級のたたかいの発展をはばむために組織された「自由同盟」から立候補していました。一九二〇年代前半は、支配階級内部での対立と、そのもとでの共産党に指導された労働者階級のたたかいの前進というチリ社会の転換期として特徴づけられます。
 こうしたなかで、一九二四年、軍事クーデタによってイバニェス・デル・カンポの軍事独裁政権が成立しま す。イバニェスは、地主階級をおさえてブルジョアジーおよびアメリカ帝国主義の要求をとり入れながら、一方 では共産党の弾圧をはじめとして、労働者階級、農民その他の勤労人民には生活苦をおしつけました。

統一戦線運動の萌芽

 しかしながら、一九二五年には大統領選挙を実施せざるをえなかったのです。この選挙で共産党は統一戦線結成のために先頭にたち、FOCH、「小工業者連盟」、「小作人連盟」をはじめとする多くの大衆組織を結集した「勤労者全国委員会」(CNA)の結成に成功しました。これはチリにおける統一戦線運動の萌芽であったといわれています。
 そして、ホセ・サントス・サラスを進歩勢力の統一候補に立て、反動勢力の代表エミリアーノ・フィゲェアと対決して大統領選挙をたたかいました。結果的には敗れたものの、サントスは約三〇パーセントの得票率を獲得して、人民統一の威力を示しました。しかし、CNAを統一戦線組織として存続させようという共産党の主張にもかかわらず、サントスらのグルーブによって消滅させられてしまいます。その後、一九二七年フィゲロアの辞任にともないイバニェスが大統領に当選すると、共産党は事実上非合法化され、労働組合は統制をうけて御用組合化されました。チリはイバニェスのファッショ的な支配におおわれると同時に、アメリカ帝国主義への従属を深めていきます。

(つづく)
チリ人民は

(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」)


チリの夜明け 戦前の人民戦線から

<人民戦線政府の樹立(一九三八年)>

(1)10万人の「飢餓大集会」── 1919年


 以上のような状況の中でチリ人民は長い間労働者階級を中心にして、帝国主義とこれに従属する大資本家、大地主にたいしてたたかってきました。このチリ人民のたたかいは、さまざまな形態をもちつつも、つねに統一と団結 = 統一戦線を追求するなかで行なわれ、一九七〇年十一月三日の人民連合政府の成立は、文字どおりチリ人民の統一戦線を土台として獲得できたものでした。そこでまずはじめに、人民連合政府が成立するまでのチリ人民のたたかいの歴史を簡単にふりかえってみましょう。
 チリでは、ラテン・アメリカ諸国のなかでも、早い時期から労働者階級が成長しはじめました。その中心地となったのは北部の鉱山地帯です。彼らはすでに一八九〇年、最初の全国的ゼネストをたたかいました。その前一八八七年、労働者の要求を一部とり入れた民主党が結成されています。この党は右のような人民のたたかいを反映して、党内に社会主義的なグルーブを生みだし、その指導者となったのがのちの共産党の創立者ルイス・エミリオ・レカバレンです。一九〇六年にはこのグルーブは社会民主党を結成、第二インタナショナルに加盟しました。そしてこの年早くも、レカバレンは鉱山労働者を中心とする勤労人民の代表として国会議員になっています。社会民主党はさらに、一九〇九年から社会主義労働者党(POS)として活動を展開しました。レカバレンに指導されたチリの勤労人民は活発なたたかいをつづけ、ついに一九二一年チリ共産党を結成し、第三インタナショナル(コミンテルン)に加盟したのです。
 人民のたたかいの発展を前にしたチリの支配階級は、一九〇八年、階級協調的な組合としてチリ労働者大連盟(GFOCH)をつくり、戦闘的な労働者の活動をおさえようとしました。しかし、労働者たちはこの組合を内部から変革して、一九一七年「労働者階級と大多数の人民の真の自由をかちとるために資本主義体制を廃止する」という目標をかかげた、戦闘的なチリ労働者連盟(FOCH)を成立させました。
 こうして、社会主義労働者党(POS)の成長と革命的労働組合運動の成立は、チリ人民のたたかいを大いに前進させました。一九一九年八月には、FOCHをはじめとする大衆組織やPOSなどの政党の参加する「全国食種供給労働者協会」が、サンチアゴで10万人もの大衆を結集して「飢餓集会」を成功させています。
(つづく)

挿絵

(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」)
4)南ベトナムでは「虎の檻」 チリではドーソン島

 これに反対する人びとには逮捕、拷問、強制収容所、処刑と血の弾圧です。現在すでに一万五千人の人びとが、極寒の地や砂漠などただでさえ人間の住めないところにオリをつくったり、まったく非人間的な強制収容所に入れられています。人民連合各党の指導者たちは、ルイス・コルバラン共産党書記長や原水禁大会で来日したこともあるアルメイダ人民連合政府外相はじめ約二百人が、マゼラン海峡にある夏でも厳寒のドーソン島の吹きっさらしのオリの中に捕われ、生命は危険にさらされています。
 チリ・クーデタのファシスト軍事評議会の暴虐はこれだけではありません。通常、各国の大使館はその国の法律によってしばられない外交特権を保障され、その敷地は大使館を設置している国の領土と同じく、不可侵性を保障されています。ところが、クーデタ軍事評議会はキューバ大使館を襲撃して銃火を加え、メキシコ大使館を包囲し、アルゼンチン大使館では同館内に逃げ込んでいる亡命者を射殺する、といった国際的に類例のない野蛮と無法の限りをつくしているのです。
 チリ・ファシズムの支配のもとでは、ごく少数の支配層を除いて、すべての人びとが苦しめられています。まず物価が、クーデタ後、半年間に十五倍というメチャクチャな上昇、おまけに全労働人口の二〇パーセントにあたる五〇万人が人民連合支持者、民主的あるいは進歩的であるという思想的理由で失業に追いこまれています。失業していない人たちには無料残業という強制労働がおしつけられています。このため国民生活は極度に破壊されています。さらに両親が殺害されたり、投獄されたために孤児となったこどもたちは数も不明なほど多く、路頭をさまよい、飢えと死の影におびやかされています。

5)アメリカ政府と軍事政府の”互恵”関係

 軍事政権は、国民にたいしては銃剣と流血で沈黙と犠牲をおしつけながら、アメリカの大独占企業や国内の大資本家や地主たちには最大限の奉仕をしています。軍事政権は人民連合政府が国有化した企業をすべて、元の所有者に返還、農地改革で解体された大地主にも土地をかえしています。また、チリの外貨の八割をかせぎ、「チリのサラリー」と呼ばれた銅鉱山も、元の所有者であるアメリカ企業の手にかえそうとしています。
 米政府はチリ・クーデタ直後、軍事政権に二四〇〇万ドルの借款をあたえることを決定しました。これは、米・チリ両国関係史上最高額のものです。
 他方、チリ軍事政権は、アジェンデ大統領の人民連合政権によって国有化されていたダウ・ケミカル社、ダウ・キミカ・チレナ社、ペトロキミカ・ダウ社などの「資産」を返還しました。
 また同政権は、「不法に」接収されたすべての企業を民間所有者に返還すると発表しています。
 こうして、チリのファシスト軍事独裁は、民族独立、自主的経済発展の道を歩んだ人民連合政府のいっさいの前進をもとにもどし、ふたたびチリを外国の企業と少数の大金持の支配下に、かつてない残虐な方法でおさえこもうとしているのです。

(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」)

公園

4 この反革命ファシズムの暴虐(1973年)

暴虐のかぎりをつくす反乱軍

1)クーデタと荒れ狂うテロ

 一九七三年九月十一日、陸海空三軍と国家警察隊の指導権を握ったファシストが反乱、クーデタを起こしました。アジェンデ大統領は「私はモネダ宮(大統領官邸)を去らない。辞任しない。私は、人民から委託された権能を命をかけて守る」とラジオ放送。少数の人たちと大統領官邸にたてこもって人民連合政府を守り、ジェット機の爆撃、戦車の砲撃までくりだした攻撃にたいし、みずから武器を手にとって最後までたたかい、戦闘の中で倒れました。
 アジェンデ大統領が殺害され、選挙で国民によって合法的に成立した人民連合政府は武力で転覆されました。こうしてアメリカ帝国主義とチリ右翼反動勢力の手先、ファシスト軍事評議会が政権を横領しました。
 しかし、チリの働く人びとは、クーデタ発生と同時にこれに反対して立ちあがりました。工場は要塞と化し、労働者住宅地は戦場となったのです。クーデタ反乱軍は、戦車、ヘリコプター、ジェット戦闘機で攻撃しました。激しい抵抗が数日間つづき、多くの工場は破壊され、労働者住宅地の多くは無差別攻撃を受け、各地で婦人、こどもを含む大量殺りくがおこなわれました。
 クーデター反乱軍は、人民連合各党本部や支部はもちろん、人民連合の影響力が強い国立工科大学など学園にたいしても銃砲撃を加え、人民連合各党員や人民連合に加わらない進歩的、民主的な人をも含めて、手当り次第に逮捕し、投獄、処刑のファッショ的テロをくりひろげました。
 警察や兵営だけでは不十分で、国立競技場やサッカー場までが獄舎に変えられ、数万人の人びとが捕えられて拷問され、死の恐怖にさらされました。ファシスト反徒がクーデタ直後に殺害した数は、一万五千人をこえ、その後に殺害された数をあわせると死者、実に八万以上という身の毛のよだつような残虐さです。サンチアゴ市内を貫流するマポーチョ川に多くの死体が投げ込まれ、市街地では見せしめのため幾日も死体を放置しました。
 クーデタ反乱軍は、軍隊内の人民連合派とみられる軍人多数をも殺害、こうして軍内部にもテロ恐怖支配体制をつくりあげ、ファッショ的軍事独裁体制をいっきょにつくりあげました。

2)女性にも野蛮な拷問

 一九七四年二月、十日間にわたってチリを訪問したチリ実情調査婦人代表団のケイ・キャンプ夫人は、チリ婦人にたいする軍事政権の拷問のもようを、こう語っています。
 「チリの婦人たちに加えられている野蛮な拷問は、南ベトナムのサイゴン政権の警官がやったやり方と同じです。彼らは、婦人の陰部に電流の通った電線をつけ、たばこの火でやけどをさせ、むちで打ち、強姦しています」
 「私たちは、多くのやけどのあとをみました。ある婦人のひざは、二度とまっすぐ歩けないほど打たれて、はれあがっていました」
 キャンプ夫人たちは、チリの婦人たちがとじこめられている強制収容所を訪れたいと要請しましたが、軍事政権はこれを拒否しました。

3)これはヒトラーがやったことと同じだ

 クーデタ反徒の軍事評議会は、「祖国をマルクス主義の足かせから解放し、秩序と憲法による統治を回復する」といっています。しかし、現実におこなわれていることはファッショ的暴力支配です。全国には戒厳令がしかれ、憲法は破棄され、国会は解散され、共産党、社会党など人民連合各党は非合法化され、すべての政党の活動は禁止され、労働組合全国センターのチリ労働者統一中央組織(CUT)は非合法化され、働くものの権利は一切うばわれています。軍事政権みずから、五年間はこのような体制をつづけると公言しています。
 また、ヒトラーと同じく、家宅捜査と略奪をおこない、進歩的な書籍から小説、旅行案内書にいたるまで、気に入らない本はすべて灰にするという焚書から、裁判なしの処刑まで暴虐のかぎりをつくしています。
(つづく)

(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「アジェンデは死なず」)

アジェンデは死なず