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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。




 六月の初め、ヴェルレーヌはこういう生活をおしまいにしようと決心した。彼はランボオから逃げだす計画をひそかに練った。その計画を実行する日が来る。
 六月三日水曜日、ヴェルレーヌは片手に油の壜(びん)をぶらさげ、もう一つの手に鰊(にしん)をもって市場から帰ってきた。その格好を窓から見ていたランボオが叫んだ。
 「油と魚をぶらさげて、まるで尼っ子のようだぜ!」
 この気に障る失敬な嘲笑が、ヴェルレーヌが行動を起こすきっかけとなった。彼はさっそく旅行鞄を手にして外へ出た。ランボオはあっけにとられて、大股に遠ざかってゆくヴェルレーヌのうしろ姿を見送っていた。やがてそれが冗談でないことに気がつくと、彼のあとを追った。ヴェルレーヌはセント・カサリーン・ドックの波止場から、ベルギーのアントワープ行きの船に乗った。正午にサイレンが鳴って船が出た。ランボオは波止場にひとり残された。一文なしで、途方に暮れて。

 ランボオは翌日どこへ送るという宛先もわからずに手紙を書いて、ヴェルレーヌが自分をゆるしてくれるようにと懇願する。彼は自分のあやまちを認め、自分の友情を吐露し、ヴェルレーヌの欲するどこへでも行って一緒になるつもりだと伝える。さもなければ、ランボオは軍隊か海軍に入ってしまうと告げる。

 翌日、ヴェルレーヌが船の上で書いた手紙がとどいた。手紙は悲壮な調子で、じぶんの執った行動はたんなる失踪ではなく、ランボオとの決定的な絶交を意味すると説明する。「もしもこれから三日のうちに、完全な条件で妻といっしょになれなかったら、ぼくはピストルで頭を撃ちぬいて自殺する……」さらに追伸はきっぱりとしたものであった。「いずれにせよ、ぼくらはもう二度と会うことはないだろう」そして彼は、三日間有効のブリュッセル局留郵便という宛先を知らせてきた。

 この絶交状を読んで、ランボオは怒りに燃えた。こんどは調子のちがう、激しい手紙を書く。「きみの妻君が、三カ月のうちに、三年のうちに、来るか来ないか、そんなことはぼくの知ったことか。くたばるなんて言ったって、ぼくはきみをよく知っているのだ」。それから、ヴェルレーヌの将来について警告する。
 「これから永年にわたって自由を失い、怖るべき退屈に見舞われて、きみは後悔するだろう……そのとき、ぼくを知る前のきみがどんなだったか、思ってもみたまえ」
 ランボオはロンドンを離れてパリへ行くつもりであった。
(つづく)

(新日本新書『ランボオ』)



 さて、ロンドンに亡命していたコミュナールたち──ヴェルレーヌのむかしの友人たちであったヴェルメルシュ、レガメエ、アンドリュなどのあいだでは、二人の醜聞について嘲笑や悪口が交されていた。ある日、ランボオがアンドリュを訪ねてゆくと、アンドリュは彼を戸口の外へつまみ出すという悶着がもち上がった。この話はすぐ亡命者仲間にひろがって、ヴェルレーヌとランボオは彼らから閉め出されることになる。

 二人はたがいに、人生を台なしにしたという非難を投げつけあう。ヴェルレーヌには、気に障るようなことがあると、いつも暴飲する癖があった。そんなとき、二人の関係は、激しい、乱暴な暴力沙汰に及んだ。ドゥラエによれば、二人の口論はしばしば拳による殴りあいから、ドイツ学生の決闘のような、ナイフをもった立ち廻りにまで及んだという。ランボオはそれをつぎのように描いている。

「幾夜も幾夜も、あの人の悪魔がわたしをひっとらえ、わたしたち二人は転げまわり、わたしはあの人と闘ったものです......」(「錯乱」Ⅰ)

 やがて彼らは、このように傷つけあい血を流す暴力沙汰をかくすことができなくなる。一八七三年八月一日付の警察の調書によれば、「この両人は、仲直りの悦びを味わうために、猛獣のようにたたかい、ひっ掻き合った」とある。事態はこのままつづくべくもなかったのである。(つづく)

(新日本新書『ランボオ』)

闘い

詩誌『歌ごえ』1〜4号 目次

創刊号(昭和23年3月 山川書店)

(巻頭)創刊のことば(新しい朝の歌)…………大島博光
詩の前進のために…………壺井繁治
ソヴェートの詩…………上田進
轉形期の詩人…………平林敏彦
ー作品─
 舊友…………岡本潤
 方向性…………高橋玄一郎
 一つの燈火は…………高田新
 警察署長殿…………穂刈榮一
 子守歌…………岡村民
 牛車にゆられて…………佐藤さち子
 おまえは…………岡田芳彦
 コメをとられた女…………長谷川尚
 山羊…………武内利榮
 愛…………藤田三郎
 ヨーカイ…………近藤東
国鉄にあがる歌聲…………鈴木茂正
長詩 鍛冶屋…………ランボオ 大島博光譯
ランボオについてのノート(一)…………大島博光
 カット 宮城輝夫・大宮昇
 昭和23年3月15日発行 
 山川書店 長野市西長野二番地


2号(昭和23年4月 山川書店)

職場における詩の在り方………サカイ・トクゾウ
人間變革について………大島博光 
──作品──
 言葉………遠地輝武
 流るる日々………奈切哲夫
 ガリ版を切りながら………鈴木初江
 雪にきく歌………武内辰郎
 葬列………鈴木正志
 思い出の人々………濱田初廣
 入党………小田英
 扉………北條さなえ
 どた靴の歌………関口政男
 人形芝居………勝山勝三
 塩売り娘………鶴見甚三郎
 引揚列車………德永壽
 毒………濱田耕作
 同志Kに………池田時雄
 五月の風に………仁木二郎
新鉄の詩人たち………眞貝欽三
ソヴェートの詩………上田進
長詩 ふたたび賑わいに返えるパリー………ランボオ
 表紙・藤井令太郎 カット・宮城輝夫


3号(昭和23年6月 山川書店)

アンケート 詩とヒユマニズム
 豫言者の任務………新島繁.
 封建的抒情の駆逐………岡本潤
 働く者のヒユマニズム………淺井十三郎
民衆の歌ごえ………小野十三郎
──作品──
 断章………………壺井繁治
 桜………………佐川英三
 小使さんの天國……..壺田花子
 土蜘蛛の歌………………曾根崎保太郎
 カンパ………………岡村民
 種………………植村諦  
長詩 とんきち二等兵……………サカイ・トクゾウ
絶望について………………佐々木陽一郎
ソビェートの詩(3)………………上田進
──作品──
 あの人たち………………平林敏彦
 メーデー………………田中敏子
 供出………………長谷川尚
 人夫の詩………………伊藤直彦
 つかれ………………今井朝二
作品コンクール
 表紙・藤井令太郎 カット・宮城輝夫

4号(昭和23年7月 山川書店)

──作品──
 偶作………………金子光晴
 断想………………大江満雄
 夜きこえてくるのは…………北條さなえ
 食後の唄…………エモリ・モリヤ
 火花………………藤田三郎
プロレタリア詩にふれて…………佐藤さち子
──詩の普及と高揚について──
 朗詠詩をとりあげよ……………近藤東
 詩の分業………………竹中久七
長詩 とんきち二等兵.……………サカイ・トクゾウ
大鍵の詩人たち………………乾 宏
すべてのものと歌わればならぬ………岡田芳彦
「私は風に向って歌う」について…………新島繁
長詩 農奴の死……………ネクラーソフ 谷耕平訳
──作品──
 友よねむれ………………武內辰郎
 風の中の道標………………新貝欽三
 帽子………………関淳二郎
 窓………………松島忠
作品コンクール

*『歌ごえ』は1948年3月創刊。大島博光が戦後最初に手がけた詩誌で、民主的詩運動を唱えて発行した。4号があることは判っているが、5号以後が発行されたかは不明。

歌ごえ


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木立ちの残骸が戦争映画で戦場に放置された戦車のようにゴロゴロ
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悲しみの聖母
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アリンコが活動再開
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イノシシも動いているようです
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岸辺の草薮もいずこ
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黄色く輝いていたキクイモの畑も全滅
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先月29日のキクイモ畑
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キクイモは糖尿病にいいというので栽培をしているがダメになった。
ナガイモは土の中に入っているので大丈夫かもしれない。
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長ネギは助かるかなあ?
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ススキがいち早く復活
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立木が流された跡に大きな穴
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大きな流木の塊をニセアカシアの大木が受け止めていました。
濁流の巨大なエネルギーに耐え切れない木が流されてしまう
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弁慶ワクの森の小径にできたバリケード
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杭のように見えるのはナガイモ。土の部分から流されて根の一部が残っているのだそうです。
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桃の畑も無残。桃の木すべて倒れています。
千曲川の風物詩・桃の花でしたが。
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美しく実をつけていたリンゴの木も・・・

台風19号による千曲川の氾濫、浸水が長野市内で広がり、大きな被害が出ています。当記念館の被害についてお問い合わせの連絡を頂いていますが、記念館、レストランはなやとも被害はありません。ご心配いただきありがとうございます。
10月19日(土)に予定しております一人舞台「母たちの手」も予定通り開演します。よろしくお願いいたします。

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夕方になって、水はだいぶひいていますが、水の残った河川敷が川のように見えます。
DSCF7645千曲川
奥に見えるのがが本流で、手前は河川敷。
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桜づつみ公園付近
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神田川水門付近。左が桃畑
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西寺尾付近の河川敷
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西寺尾の河川敷も水が残っています。博光生家あたりはどういう状況でしょうか?
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このあたりは被害はないようです。(青い屋根が博光生家)
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少し下流のロイヤルホテル付近では、支流の氾濫で浸水被害がでているそうで、県道は通行止めになっていました。
赤坂橋
台風19号のために千曲川は大増水、広い河川敷は完全に水没。
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水は堤防ギリギリまで来ていました
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堤防が決壊して大被害がでている穂保は下流の対岸になります
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小さな木立は流されてしまいました
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長イモ畑が辛うじて残っています。その奥がもとの本流です。
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畑
先月29日に来たときは樹々が生い茂り、花と野菜が育っていました。
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農家の人は大打撃ですね。
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松代市街の方にも水が出ているようで、県道が渋滞し、堤防道路に車が流れてきています
犬
安否のお電話をいただきました。記念館とレストランはなやは無事です。


ブリュッセルの悲劇



 ふたたびロンドンに行ったヴェルレーヌとランボオは、グレート・カレッジ・ストリート八番地──こんにちのロイヤル・カレッジ・ストリートに部屋をみつけた。アレキサンダー・スミス夫人の家の一室で、住み心地がよかった。あたりは多くの芸術家たちが住んでいる街で、初め二人は静かな日日を送る。ランボオは例の『異教徒の書』の草稿に手を加えたり、大英博物館の閲覧室へ読書にでかける。ヴェルレーヌも詩作と読書にとり組む。
 二人は、いつまでもヴェルレーヌの母親の仕送りで暮すわけにはゆかず、フランス語の家庭教師の口をみつける。のちの一八七三年七月十二日、ブリュッセルの予審判事の「あなたはロンドンでどうやって暮らしていましたか」という質問にたいしてランボオは答えている。「主として、ヴェルレーヌ夫人が息子に送ってきたかねで暮らしていました。わたくしたちはまた二人でいっしょにフランス語の教師をしていましたが、大したかねにはならず、週に一二フランでした。」
 しかし、うわべの静けさの下に、火がくすぶっていた。その頃の二人の共同生活の模様は、「放浪者たち」(『イリュミナシオン』)のなかにもこれを見ることができる。

 「哀れな兄き!おかげで、おれはどれほど辛い、眠れぬ夜を過ごしたことか!《こんな放浪の企てに、おれはこころから熱中したわけではない。おれはかれの弱さをからかっていたのだ。おれのあやまちで、おれたちはまた流浪の身となり、奴隷の身におちるのかも知れぬ》兄きは、おれをとても風変りな、不運な男、無邪気な男と決めて、いろいろ気をもたせる理屈を並べたてたものだ。おれはあざ笑いながら、この悪魔的な先生に口答えして、窓べへゆくのがおちだった。おれは、奇妙な楽隊のよぎってゆく野の彼方に、未来の豪奢な夜のまぼろしを想い描いていた。
こんなわずかに衛生的な気晴らしのあと、おれは藁ぶとんの上に横になった。すると、ほとんど毎晩のように、眠ったかと思えば、哀れな兄きは起きあがり、腐ったようなくさい口で、眼をむきだし──まるで自分の夢でも見ていたように──おれを部屋のなかに引きずり出すのだった。白痴のばかげた悲しいたわごとをわめきながら。」
(つづく)

(新日本新書『ランボオ』)

大水



 しかしこんにち情勢は逆転する。その劣等人種が、「すべてを奪い返」したのである。
  「……劣等人種はすべてを蔽った──いわゆる人民を、理性を、国家を、そして科学を!おお、科学!すべてが奪い返された。……
  科学、新しい貴族!進歩。世界は進む。なぜ逆廻りしないのか」
 ここにふたたびコミューヌの頃のランボオの言葉、思想が顔をのぞかせている。「なぜ逆廻りしないのか」という言葉は、ガリレオの「けれども地球は廻っている」という言葉にたいする皮肉なのである。
  「おれはヨーロッパから出て行くのだ。海の潮風がおれの肺を灼くだろう。ひどい気候がおれの肌を褐色になめすだろう。……
  『おれは帰ってくるだろう、鉄のような手足をして、暗くくすんだ肌で、眼をぎょろつかせて。おれのつら構えを見て、ひとは強い逞しい人種だと思うだろう。おれは金をため、ぶらぶら遊び暮らし、狂暴にふるまうだろう。熱帯をかけめぐって帰ってきた、この凶暴な病人を、女たちは介抱してくれるだろう。おれは政治問題に巻きこまれるだろう。そうしてやっと救われるのだ」
 ここでランボオは、またしてもおのれの将来を──その後に実際に送ることになる、エチオピアの砂漠での生活を予言的に描いている。まるで熱帯をかけめぐれば、「劣等人種」も「強い逞しい人種」になれるものと信じこんでいたように。
 そしてまた子供の頃や過去の思い出が現われる。
  「まだほんの子供の頃、いつも徒刑場に閉じこめられている、手のつけられぬ徒刑囚に、おれはうっとりと見とれたものだ。徒刑囚が泊って、祝福した宿屋や木賃宿をものめずらしそうに見に行った。おれは徒刑囚の気持ちになって青空を見あげたり、田舎の生き生きとした野良仕事を眺めたりした……。
  ……おれは激昂した群衆の前で、死刑執行班に面とむかって立っていたこともある。彼らの理解することのできぬ不幸に泣きながら、しかもゆるしながら!──まるでジャンヌ・ダルクのように……」
 「手のつけられぬ徒刑囚」というのは、子供の頃によんだユゴーの『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンを指すといわれる。この章には、ふたたび反抗にたいするランボオの讃美がみられる。「おれは激昂した群衆の前で、死刑執行班に面とむかって立っていたこともある」というイメージは、死刑執行班の前に立ったコミューヌ戦士のイメージに重ならずにはいないだろう。ランボオの反抗は根深く、根本的だったのである。

 さて、一八七三年五月二十五日、ランボオはヴェルレーヌと連れ立って、リエージュとアントワープを通って、ふたたびロンドンへと向かう。ロッシュにはおよそひと月滞在したに過ぎない。くされ縁とも見える二人の詩人の関係も、こうして破局へと向かう。
(この項おわり)

(新日本新書『ランボオ』)

森



 ここに言われている三つの物語のうちのひとつは、後に『地獄の季節』に収められる「悪い血」であるといわれる。それはランボオが抱いていた多くの矛盾、対立から成る散文詩である。「悪い血」の前半の部分にはミシュレの思想の影響がみられる。ランボオは、フランスの大地に深くむすびついたゴール族──あの征服された民族のなかに自分の祖先をみいだし、自分の資質の説明をもそこに見いだしている。(古代ゴール族は紀元前五〇年頃シーザーによって征服された。三世紀には、ゲルマン、西ゴート、ブルグント、フランクなど、諸族の侵略をうけた。)彼は自分の青い眼も、身についた悪徳もゴールから受けついだと考える。また絶えず街道を歩いて行きたいという欲求もゴールに負うていた。彼はあの中世の人びとがおのれのなかに生きているのを感じる……。
 「おれはゴール人の祖先から受けついだ、白みがかった青い眼を、狭量な脳味噌を、不器用な闘いぶりを。おれの身なりも彼らのと同様に野蛮だ。しかし、おれは髪にバターなど塗りはしない。
 ゴール人は獣の皮を剥ぎ、草を燃やし、当時もっとも無能な人種だった。」
「悪い血」の始めの部分は、ランボオ個人の叙述と見なすよりは、彼が歴史的展望のなかにおのれを位置づけて見ようとした試みと見なすことができる。ランボオは、いままでの自分の生きざまを、たんに彼ひとりだけのものとは考えずに、ひとつの種族から受けついだものだと考える。M・A・リュフの指摘によれば、この始めの部分は、ミシュレの『フランス史』を読んだ思い出によって書かれている。「異教徒の書」という初めの題名や、悪魔(サタン)の喚起も、ミシュレの「魔法使」に負うているという。ミシュレは、ある民族が汎神論と悪魔を手段としてキリスト教とたたかったことを描いている。「おれは林のなかの赤い空地で魔法使の夜宴(サバト)を踊っている。老婆や子供たちといっしょに。」という部分などは、直接ミシュレから借りているようである。ミシュレは「夜宴(サバト)」の章で、「悪魔(サタン)の女司祭はつねに老婆である」と書き「赤い焚き火」で照らされていたといい、「そこには子供たちもいた」と書き加えている。
 むろん問題は、この部分の源流をさぐることにはない。問題は、ランボオがここで自分をゴールの祖先にむすびつけていることである。ランボオの生きざまは、「おれはいつも劣等人種だった」という想いに支配されていた。「それはほとんど、ランボオが、その詩的な形式で、自分自身について示したマルクス主義的解明であると言えよう」とM・A・リュフは書いている。
(つづく)

(新日本新書『ランボオ』)

森


 その時、ランボオの健康状態はよくなかった。放浪生活ですっかり消耗していた。生きいきとして光りを放っていた青い眼もいまは光りを失っていた。何時間もベッドにひっくりかえって、眼をつむってじっとしていた。妹たちが食事に呼んでも食べようとしない。妹のイザベルの語るところによれば、彼は夜も眠れずに、納屋には夜明けまで灯がともっていて、悪魔と闘っているような呻き声がきこえたという。

 ときどき野や森を、彼が絶望に沈んだ姿でさまようのが見られた。このとき彼の内部には烈しい危機が見舞っていた。彼は自分の過去をふり返り、自分のあやまちを反省し、自分の挫折を噛みしめていたのだ。ロッシュに着いてからまもなく、彼は『異教徒の書』あるいは『黒ん坊の書』を書き始める。ロッシュから書き送った一八七三年五月のドゥラエ宛の手紙は、その頃のランボオの状況をよく物語っている。
 「……夕ぐれ、一杯飲みにゆくにも二里も行かなければならない。おふくろはこの悲しい穴倉にぼくを閉じこめてしまった。どうやってここから脱けだすかわからないが、とにかくそのうち脱けだすだろう。あの怖るべきシャルルヴィル、カフェ・ル・ニヴェール、図書館などがなつかしい……けれどもぼくは規則正しく仕事をしている。『異教徒の書』あるいは『黒ん坊の書』という題目で、いくつかの小さな散文の物語をかいている。……ぼくはとても気づまりだ。一冊の本もない。ぼくの行けるような酒場もない。路上には事件ひとつ起こらない。フランスのこの田舎のなんとおぞましいことか。ぼくの運命はこの書にかかっている。そのためには、もう半ダースほど残酷な物語をつくらなければならない。だが、こんなところで、どうしてそんな残酷を考えだせよう?きみに物語を送らないが、すでに三つばかり書いた……」
(つづく)

(新日本新書『ランボオ』)

樹々

ロッシュの農場──「悪い血」



 ランボオとヴェルレーヌの同棲生活は、結局うまくゆかない。「気狂い娘」は「錯乱1」のなかで言う。
 「幾夜も幾夜も、あの人の悪魔がわたしをひっとらえ、わたしたち二人は転げまわり、わたしはあの人と闘ったものです……」
 二人の取っ組みあい、修羅場は、かれらの酒浸りの結果によるだけではなく、ランボオが「哀れな兄き」に抱いていた恨み、侮蔑によるものでもあった。激しいいさかいの後に仲なおりや優しさがもどってきても、もう二人ともこの耐えがたい生活をつづけることにどんな幻想を抱くこともできなかったにちがいない。それにまた経済的な切迫という問題も加わったであろう。

 一八七三年四月十一日聖金曜日、ランボオは予告もなしにロッシュの農場に帰ってくる。ちょうどランボオ一家が月初めから農場にきていた。妹ヴィタリは日記に書く。
 「みんなでいつものように部屋で片づけものなどしていた。妹と兄と母がわたしのそばにいた。そのとき遠慮がちに戸を叩く音がした。わたしが開けにゆくと……なんとびっくりしたことに、眼のまえにアルチュル兄さんが立っていた!」
 ロッシュはシャルルヴィルの南方四〇キロほどにある小さな農村で、アティニの駅から四キロのところにある。アルデンヌのこの地方は収穫の少い土地で、スレートぶきの家の小さな部落がそこここにあって、地平には伝説的な森がつらなっていた。睡蓮や葦におおわれたエーヌ川が青緑色に流れている……ランボオの母親はそこに親譲りの農場をもっていた。農場の家は十八世紀に建てられたもので、大きな入口は養鶏場に面していた。農場の家の一部分と附属家屋の大部分は普仏戦争で破壊されたままであった。その頃、一家は農作業の時だけシャルルヴィルからやってきて、その廃屋のなかに住んでいた。四月、五月は農場では猫の手も借りたい時である。しかしランボオは何ひとつ家族の手助けをしない。畑を鋤(す)くのは兄のフレデリックで、養鶏場の仕事は妹たちが受けもっていた。ランボオは畑仕事を手伝わずに、納屋にひとりこもって過した。働くのがいやだったのだ。『地獄の季節』の「悪い血」のなかに彼は書く。
 「おれはあらゆる職業が大嫌いだ。親方も労働者もすべての百姓もいやらしい。」
(つづく)

農場
ロッシュの農場


(新日本新書『ランボオ』)

「母たちの手 ~1955年9月4日」

大島博光記念館での上演に寄せて
      二瓶龍彦

 いつでも遠く、にもかかわらずいつでも私たちの潜在的な問題を露見させる沖縄。
 舞台「母たちの手~1955年9月4日」は、戦後10年を経て起きた米兵による6歳の幼女に対するレイプ殺人「由美子ちゃん事件」をめぐるものです。
 昨年、沖縄に住むある編集者の方から、沖縄の人たちにとって今も口にすることができず、開いたままの乾かない傷として、この事件のことを教えていただいた。そして、舞台として形にできないかと宿題とともに。
 はたして、この究極の絶望を描き、しかも希望の糸を見出すことができるのか。この事件は、たまたま一度だけ起きたものではなく、以前にも起き、その後もつづく私たち人間が抱える乗り越えなければならない負の普遍性を示している。
 詩人大島博光も愛した南米チリには、「アンヘリート」という祭事がある。これは、幼くして逝ってしまった子どもを送る一晩中つづく葬儀。このなかに、絶望からのひとつの扉を見つけられるかもしれない。母たちの絶望にこたえる、失われたその子の声に耳を澄ますことから。
 沖縄と距離は隔たっているがとても似ているといわれるアイヌ。この舞台を制作していくなかで、アイヌの人たちに出会った。彼らの寛容の音楽に出会った。
 命は、慈しむためにある。ただただ、慈しむためだけに。どんな思想、大義も、命の尊厳に先立つものなど存在しない。
ひとつの失われる命をめぐり、様々な人々の教えのなかで学び、制作されたのがこの舞台です。
 大島博光記念館での舞台公演は2011年以来8年ぶりとなります。この新作を、愛と抵抗の詩人の魂が息づく場で上演できること、受け止めていただけたこと、ほんとうにうれしく思います。
(「大島博光記念館ニュース」51号)

二瓶

二瓶龍彦
83年 “total theatre 二瓶館” 設立。
91年 “カイロ国際実験演劇祭” 日本より初招待。
その後、チュニジア、エジプトのピラミッド前、フランス、ベルギー等をまわる。
01年 組織形態をとらない芸術運動体 “PHILLIA project” を展開。
14年 ワード・プレイ・カンパニー「バッタの学校」設立。
砂漠の音楽隊 Guelb er Richat ensemble、弦楽器担当。
15年より、芸術のサーカス小屋「caravan La Barraca を全国展開。
19年より、あらゆるジャンルの表現者による戦わない抵抗の手段として、「全国同時多発式バルラッカ大サーカス2020」を発進。


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