千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


きみは朝の光となった
                        大島博光

きみは 朝の光となった
ほかのひとが眼を覚ますように

きみは荒地に道をひらいた
ほかのひとが歩いてゆくように

きみは 耕して種を蒔いた
ほかのひとが苅り入れるように

きみは ひとに酒を差し出した
ほかのひとが酔って歌うように

    *

そのきみも もう死んでしまったと
ひとびとは 騒ぎたてているが

きみの光に眼ざめたひとは
この世の闇を見通している

きみの道を歩いてるひとは
いまも希望の町をめざしている

きみの穀物を取り入れたひとは
きみを忘れることはないだろう

きみの酒をのんで酔ったひとは
あの夜の虹を忘れないだろう

             一九九五年一月
(自筆原稿)

<「大島博光詩集1995〜2003」>

鳩

きみもきのうは
                大島博光

きみもきのうは 若者だった 
もやもやした胸を抱いて
夢みる眼をした 若者だった

きみは飢えていた 渇いていた
泉や塩を さがしもとめて
獣のように うろついていた

きみも 禅寺で 座禅を組んだ
教会に行って 説教も聞いた
だが もやもやは はれなかった

きみは 吹きっさらしの荒地に
癒しをもとめ 救いを叫んだ
こたえてくれる こだまはなかった

きみは 道をさがしあぐねて
泥んこ道にはまりこんだり
意地わるな石につまずいたり

この世の中の仕組も見えず
善と悪との見分けもつかず
霧のなかをさまよっていた

生きる道も目的も見いだせず
海のものとも 山のものとも
つかないままに 漂っていた

すとん狂なこと 突飛なことを
口にもしたり やってものけた
それが 詩人のあかしのように

アナーキーな反抗に酔って
子供じみた愚行も演じた
靴でビールをあふって飲んだ

愛する女(ひと)にもめぐり会わず
ひとを愛する意味も知らず
愛の砂漠をほっつき歩いた

夜ごと新宿裏をぶらついて
酒場の灯かげに 酔いくずれて
きみは青春をむた使いした

きみもきのうは 若者だった
やぶれかぶれの やけっぱちな
明日をもたない 若者だった

                一九九五年

(自筆原稿)
<「大島博光詩集1995〜2003」>

子ども


5)「苦しみの武器」──ガブリエル・ペリ

 一九四一年十二月十五日、ガブリエル・ペリがモン・ヴァレリアンにおいて人質として銃殺された。──彼はフランス共産党中央委員で、代議士で、下院の外交委員会の副委員長として、ファシズム体制に投降する政策に反対し、ファシズムにたいする仮借なき批判者であった。処刑の前夜、ペリはのちに有名になる遺書を書く。

 「わたしは最後にもう一度、じぶんの良心をふりかえってみた。少しもやましいことはない。もしも、もう一度人生をやりなおさねばならぬなら、わたしは同じ道を行くだろう。わたしはやはり今夜も信じている、『共産主義は世界の青春であり』『それは歌うたう明日の日を準備する』と言った、親愛なるポール・ヴァイヤン・クーチュリエの言葉の正しかったことを。わたしはまもなく『歌うたう明日の日』を準備するだろう。さようなら。フランス万歳!」

 その英雄的な死を讃えて、アラゴンは「責苦のなかで歌ったもののバラード」「ガブリエル・ペリの伝説」を書いたが、エリュアールもまた簡潔で感動的なペリ像を描いている。

  身を守るために生にむかって開いた
  二本の腕しか持たなかった男が死んだ
  鉄砲を憎むという道以外の
  ほかの道をもたなかった男が死んだ
  男は死んだが死に抗し忘却に抗して
  彼はいまもたたかいつづけている
  ……

  ひとを生きさせるような言葉がある
  それは無拓な言葉たちだ
  温かさという言葉 信頼という言葉
  愛 正義 そして自由という言葉
  子供という言葉や思いやりという言葉
  そしてある花々の名前や果物の名前
  勇気という言葉や見つけるという言葉
  兄弟という言葉や同志という言葉
  そしてある国や村むらの名前
  そしてある女たちや友だちたちの名前
  そこにペリの名を加えよう
  ベリはおれたちを生きさせるために死んだ
  彼とおれおまえたちで話そう 彼の胸は射(ぶ)ち抜かれた

  だが彼のおかげでおれたちは互いをよく知る
  おれたちはおれおまえで話そう 彼の希望は生きている
        (『苦しみの武器』──「ガブリエル・ペリ」)

 ここでは、選ばれた言葉、固有名詞、イメージが、状況を的確に反映している。
(つづく)

(新日本新書『エリュアール』)

赤バラ


4)「苦しみの武器」

 一九四二年四月、十七歳の高校生リュシアン・ルグロは、ビュッフォン高校のデモに参加して逮捕された。リュシアンはエリュアールの旧友の長男だった。六月、彼はヴィシイの法廷によって終身労働刑を宣告された後、ゲシュタポに引渡された。ゲシュタポは彼に肉体的にも精神的にも拷問を加える。エリュアールは書く。
 「なんとドイツは寛大だったことか。ゲーリングは彼に特赦を与えた……そしてなんとドイツは冷酷だったことか。おなじゲーリングが数日後に彼を人質として処刑したのである……彼は四人の級友とともにイヴリに葬られた……」

 数ヶ月後、エリュアールは銃殺されたこの少年を記念して「苦しみの武器」と題する一連の 詩を書く。

  あの子は嘘をつくことも
  そして助かることもできたろう
  越えられぬ柔かい平野
  あの子は嘘をつくことを好まなかった
  彼は声高く自分の罪を叫んだ
  彼は自分の真実を述べたてた
  真実を
  死刑執行人にむけて剣のように
  自分の最高の法を剣のように

  そこで死刑執行人どもは復讐した
  やつらは並べてみせた
  死 希望 死 希望 死と
  やつらは彼に特赦を与えてそれから殺した

  やつらはあの子をひどい目に会わせた
  彼の足 彼の手は踏みつぶされていた
  墓地の番人がそう言った
(つづく)

(新日本新書『エリュアール』)

白バラ

3)詩の批評(Ⅱ)

 すでに書いたように、エリュアールがレジスタンスのなかで書いたものは、レジスタンスの歴史と重なり、ひとつとなる。
 一九四○年六月、老詩人サン・ポル・ルーが隠棲の地ブルターニュのカマレにおいて、ドイツ兵の暴行の犠牲となった。眼の前で愛娘はドイツ兵に凌辱されて殺された。
 一九四二年五月、「レットル・フランセーズ」紙の創刊者ジャック・ドゥクールがパリで銃殺された。彼はあの有名な手紙をのこして死んだ。
 「……わたしは自分をあの木から落ちて腐葉土となる一枚の木の葉のように考える。腐葉土の質は木の葉たちの質に依るだろう。わたしはフランスの若者たちのことを言っているのだ。彼らにわたしは希望のすべてをかけている……」
 エリュアールはこの二人のために「詩の批評(Ⅱ)」を書き、そこに一九三六年にファシストに銃殺されたガルシア・ロルカをあわせて追悼する。

  火は森をよび覚ます
  幹を心臓を手を木の葉たちを
  軽やかにまじりあい甘く溶けて
  ひとつの花束となった幸福
  それはすばらしい太陽や燃える森の
  緑の泉に集まる
  友だちたちの森だ

  ガルシア・ロルカは殺された
  ただひとつの言葉と
  生きるために結びあわされた唇たちの家よ
  涸れた瞳のなかに
  涙もないほんの小さなひとりの子供
  未来の光は
  一滴また一滴と人間を満たす
  まぶたの透きとおるまで

  サン・ポル・ルーは殺された
  彼の娘は踏みにじられた

  似たような街角のある凍(い)てついた町よ
  おれは夢みる 花のなかに果実を
  まるごとの空や大地を
  終りのない遊びのなかで
  見つけられた処女のような
  色あせた石よこだまのない壁よ
  おれはきみたちに微笑みを無理強いしない

  ドゥクールは殺された

(つづく)

(新日本新書『エリュアール』)

バラ


2)戦争中の七つの愛の詩

 一九四三年十一月、敵の追及がさらにきびしくなったので、エリュアールはパリを離れ、ロゼール県サン・タルバンの精神病院に身をかくす。そこは南仏、中央山塊の東南部に位置する僻地である。院長のリュシアン・ボナフェはトゥルーズ大学の学生時代からの共産党員であった。このサン・タルバンに、エリュアールとニューシュは一九四三年十一月から一九四四年二月まで滞在する。彼は隣りの県のサン・フルールにアマルジェという印刷屋をみつけ、そこに非合法出版の印刷を託すようになる。「戦争中の七つの愛の詩」がジャン・デュ・オーのペン・ネームで印刷されたのも、このサン・フルールにおいてである。また三ヶ月におよぶこの滞在中に、彼はのちに「狂人病院の思い出」として出版される文章を書く。

 「戦争中の七つの愛の詩」には、つぎのような忘れがたい有名な詩がある。

   戦争中の七つの愛の詩
      わたしは書くのだ 人びとが汚物と渇きのなかに
      沈黙と飢えのなかに 閉じこめられているこの国で…… 
               怒れるフランス人「グレヴァン蠟人形館」


  きみの眼のなかで 一艘の舟が
  風を自由にあやつっていた
  きみの眼は祖国だった
  ひとはたちまちその祖国を見つけだす

  辛棒づよいきみの眼はぼくらを待っていた

  森の木かげで
  雨のなかで 嵐のなかで
  山の峯の雪のうえで
  子供たちの眼と遊びのなかで

  辛棒づよいきみの眼はぼくらを待っていた

  その眼は 芽生えたばかりの
  草の芽よりも柔かい谷間だった
  その太陽はずっしりとした重みを与えた
  人間たちのわずかな収穫に

  ぼくらに会うためにぼくらを待っていた
  いつも
  なぜなら ぼくらは愛を持っていたから
  愛の若さを
  愛の理由を
  愛の知恵を
  そうして不滅を

     *

  ……
  おれたちはいつも愛し合ってきた
  そしておれたちは愛し合っているから
  おれたちは願う 凍るような孤独から
  ほかの人たちを解き放ってやりたいと

  おれたちは願う というのはおれが願い
  きみが願うということ つまりおれたちは願う
  光が永くもちこたえさせてくれるように
  勇気に輝く夫婦たちを
  大胆さで武装した夫婦たちを
  なぜなら彼らはじっと眼を向き合わせているから

  そして彼らの目的は ほかの人びとの生のなかにあるのだから

 ここに歌われているのはまさに新しい愛である。──夫婦愛から万人愛への移行・前進が、ここで詩的表現を与えられたのである。
(つづく)

(新日本新書『エリュアール』)

バラ

英雄・殉難者・詩人たちの名誉

 一九四三年七月十四日、この革命記念日に『詩人たちの名誉』が「深夜業書」から刊行された。匿名の二十二名の詩人たちの作品が集められていた。無署名の序文はエリュアールの書いたものだった。
 「アメリカ人民に鼓舞されたホイットマン、武器を執れと呼びかけたユゴー、パリ・コミューヌから霊感を与えられたランボオ、みずからも奮いたち、ひとをも奮いたたせたマヤコフスキー──いつかある日広大な見地に立った詩人たちは行動へとみちびかれたのだ……、闘争こそが詩人たちに力を与えることができる……」
 この詩選集にはまたアラゴンの「責苦のなかで歌ったもののバラード」がジャック・デスタンの変名で収められていて、たちまち数版を重ねるという大きな反響を呼んだ。ついで一九四四年五月に刊行された『詩人たちの名誉』第二号には、フランスの国外から送られてきた詩篇も収められていて、そのために「ウーロップ」という名をつけられた。
 この『詩人たちの名誉』は非合法出版のなかでも、「レットル・フランセーズ」とともに、もっとも有名なものとなる。
(つづく)

(新日本新書『エリュアール』)

バラ


 アラゴンは、以前にも、詩のかたちでヴァレリイ主義を批判している。詩集『エルザの眼』に収められているその詩を、ここに引用しておこう。

      純粋詩に反対する

鳥どもの 群がり集まる泉 深い泉に
愛のない水のように 冷めたい泉に
鳥どもは 世界の四方から飛んできて
軽やかな水と朽葉色の光の中で戯れる
  そしてこの世のことなど忘れてしまう

鳥どもの群がる泉 死のように虚偽のように
また蜜のようにすがすがしく 狂った泉に
サルビアの花が夢み 薄荷の匂いが漂い
翼ある空の巡礼どもは 陽を浴びて顔の隈も消え
  もろもろの苦悩や苛責も忘れてしまう

来るわ来るわ 孔雀 駒鳥 ごしきひわ
雀 つぐみ 四十雀 みんなが歌う合唱会
そこへ臆病な大鹿がやってきて まぜかえす
羽根にくるまった天使が ねたましげに
  この図を森の頂からじっと見ている

だが あの強情なやもめ鳥は けっして来ない
あの 明るい襟飾りをつけた 黒い燕は
みずから 嵐に囚われた アンドロマック(1)は
あの 優しい拒否の鳥は 泉から遠く離れ
  空とぶ影も映さぬのだ

「シッド(2)のいとしい愛する鳥 シメーヌ(3)よ
悦楽の冷たい水の中で 忘れはてるのが恐(こわ)いのか
おまえが いつも持って廻わる 空の喪を
わしになびこうともしなかった つれない燕め
  薄情な燕め わしはおまえをほめてやる

消え失せたものに 何故なおも忠義だてするのか
おまえの百姓のように わしにも羽根がある
白黒まだらのやもめ鳥め」」 しやぐま百合の茂みの奥で
鷲が 鴬の声音(こわね)をまねて 燕に歌いかける
  土蛍の飛び交う 長いながい夜のなか

鷲よ そんな変装をしても わたしはだまされぬ
わたしの望む悦びは わたしの不幸が変わること
緑の枝一つあれば わたしはゆっくりと休めるのだ
さて 一輪の薔薇をもとめて 野から飛び立とう
  敵にくらわす一撃こそは 一輪の花なのだ

どこであれ誰であれ 純粋な水など濁してやろう
おまえが火を差し出したら 吹き消してやる
心臓を差し出したら どぶに投げ捨ててやる
ああ なんと昼の痛ましく 夜のなんと長いことか
  幽霊たちの立ち上がる朝が 待ちどおしい

エクトール(4)だけがアンドロマックを また哀れなシッドがシメーヌを
そしてその運命の大きなざわめきを作ったのだ
わたしを あの芝居小屋の旅役者たちに似せた
できるものなら 湖に映った星を数えるがいい
  死者たちの空をこそ わたしは泣き悲しむのだ

死者たちの思い出も消えうせる 夢の泉に
みごとな鳥の世界の とりどりの色が渦巻く
おお 詩は鏡なのに おまえの水の甘美な作りごと
葦の間のおとぎ話 鳥どもはそこへ飲みにゆく
  黒白まだらの 鳥のほかは

もしも傷ついた鳥が 泉をさげすむなら
その燕こそは わたしの心 燕を射ち落そうと
石弓を構える者は わたしを狙うのだと知れ
わたしが まやかしよりは生活を選び
  栄誉よりは 血を選んだがゆえに
                    (『エルザの眼』)

(1)アンドロマック──ジャン・ラシーヌ(一六三九ー一六九九) の戯曲「アンドロマック」のヒロイン。
(2)シッド──ピエール・コルネイユ (一六○六ー一六八四) の戯曲「ル・シッド」の主人公ロドリーグのこと。
(3)シメーヌ──「ル・シッド」のヒロイン、ロドリーグの愛人。
(4)エクトール──前記アンドロマックの亡夫。
(この項おわり)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

和泉

深大寺のレストランのこと

 博光さんと深大寺にあるレストランに行ったことがある。「サンマルク」という手作りパンが売りのお店で神代植物公園の東にあった。ピアノの生演奏があり、かなり混んでいた。博光さんは仔牛のステーキを注文した。ところが、期待していた料理が出てくると「こんな固い肉、食えるか!」と怒りだした。「もう、この店には来ない」。私はなだめながら、「ステーキといっても、こんなこともあるだろう」と思い、あまり気にしなかった。
 博光さんの告別式で土井大助さんが「もう一緒にステーキでワインをのませていただくことも、ジャン卓を囲むこともできません」とお別れの言葉を述べていた。深大寺のステーキのことが思い出された。そんなにステーキが好きだったのに……。美味しいステーキを食べさせてやりたかった、と悔やまれた。

 関越自動車道の寄居にある星の王子様のレストランはいつもすいていて、優雅にフランス料理が楽しめる。今回は博光になり代わってステーキを頂くこととした。仔羊のステーキは柔らかくて肉の旨味がジワーっとひろがった。写真を撮っていた一組の夫婦が「写真を撮りましょう」と言ってくれた。ご主人がここのレストランが好きで、閉店時間に間に合うように来ると言っていた。
 このパーキングエリアがお客が少ないわけは、フランス風の店つくりへのこだわりがあるせいだ。案内掲示がフランス語で、料理もフランスにこだわっている。ここではラーメンもソバも丼ぶりものも食べられないし、カレーライスもない。売店も星の王子様に関連した本やグッズ、輸入もののお菓子、飲み物、食器などだけで、コンビニもないし、みやげ物もタバコもない。そこでこの店がいつまでも続いて欲しいと願っている私のようなファンは、通るときは必ず寄って、少し贅沢に食べたり、物を買ったりするようにしているのだ。

寄居
寄居
寄居
寄居
寄居
見学
上田市塩田中学校の同窓の4人が見学してくださいました。

見学
「アルピジェラを初めて知った、チリの軍事クーデター(1973.9.11)のことも知らなかった」

見学
取材に来ていた朝日新聞の記者が感想をうかがいました。
「説明があったので理解でき、良かった。説明がないと分からない」
「アルピジェラを縫うことで女性たちは悲しみを癒やしたのだと思います」
「普通の人の素朴な手芸だからこそ、心が伝わってきます」

見学
熱心に見てくださってありがとうございました。

(『グレヴァン博物館』と状況の詩)

 『グレヴァン博物館』は、ヒトラー、ムッソリーニ、ペタンらの、怖るべき醜怪な姿を、ロボット人形の影像で痛烈に風刺している。この人形どもの行先は、もはや歴史の博物館──グレヴァン博物館こそがふさわしい。
 この詩集の序文『黒い魚──あるいは詩の現実について』のなかで、「状況の詩」にふれてアラゴンは書いている。

 「わたしはいま『グレヴァン博物館』を読みかえしてみた。そうして

  ひとつの歌を わたしはつくった 死ぬばかりの悲しみで
  どうして どのようにして つくったかわからない
  なぜなら よるもひるも タぐれも朝がたも
  わたしは 自分の心も想いも 抑えられぬのだから

 とうたったペイル・ヴィダールのように、わたしもまた、じぶんの詩について語りたくなるのだ……
 ……わたしは、自分がつくったほかのどの詩にもまして、この『グレヴァン博物館』が、どうして、どのようにして書かれたか、語ることができない。その秘密は、わたしの秘密ではなく、あまりにも長くしかも過ぎさりやすい一時期、フランスの心臓が狂おしく高鳴っていた一時期の秘密なのである。それは一九四三年、せいかくに言えば一九四三年の夏である。四二年には、あるいは四四年にも、これらの詩句の一行も書かれ得なかっただろう。四二年には、あるいは四四年にも、この詩の表現は承認されがたく、不当なものだったろう。四二年の打撃はまだ充分ではなかったし、四四年には希望はちがった形をとっていた。そうだ、『グレヴァン博物館』は状況の詩である。そして未来の歴史家たちが、この詩にすこしばかり心をとめたとしても、あの(ヴァレリイの)『海べの墓地』や『蛇』がいつか彼らに与えるだろうあの困惑、あのとまどいを、この詩についてはもたぬだろう。『海べの墓』や『蛇』は、ひとのいうところによれば、永遠のひとかけらだということだ。その失われた日付けは、多くの議論の後にも、見つけだすことはむづかしかろう。……多くの若者たちがパルチザンにくわわった、あの一九四三年の夏に、叙事詩的感情がよみがえるのである。その根は、数年来の土壌にねざしている。というのは、四二年には、ポリッツエル、ドクール、ソモロン、デュダック、フェルドマンたちが仆れ、四一年には不滅のペリイとシャトーブリアンの二七人が死んでいた。そして四○年、三九年には、あの虚偽不正をゆるさぬひとびとの英雄的な生活があり、三六年来のスペイン戦争があった……まさに、この流された血、これらの犠牲者たちから、フランスの歌はわきあがらずにはいなかったのだ」

 ここでアラゴンはまず、『グレヴァン博物館』の書かれた歴史的状況を述べ、状況の詩──叙事詩──フランスの歌、民族の歌がわきあがらないではいない歴史的条件を指摘している。それはほかならぬナチスの侵略とそのやばんな圧制によるフランスの危機、その危機に際してフランス人民の民族意識・民族感情がよみがえったことである。この民族意識のよみがえりは、一九三六年、フランス労働者階級における民族意識復活の序曲をなしたスペイン戦争以来、準備されてきたものだった。この民族感情は、フランス人民のなかに、叙事詩的感情となってみなぎり、叙事詩となって湧きあがらずにはいなかったのである。そうして叙事詩こそ、民族の詩の主要な側面となった。民族的な共同の感情があり、共同の行動があり、共同の闘いがあり、そうして新しい「武勲」があるとき、それは叙事詩として歌われずにはいないからである。

 アラゴンはさらに書いている。
 「叙事詩の本質は、叙事詩の長さにあるのではなくて、叙事詩的感情のはげしさにある。それは、たとえばつぎのような詩句に要約される。「おお 見ろ オーヴェルニュよ 敵がやって来たぞ!」おなじく、ユゴーのみじかい詩の、つぎのような結びの詩句「おーい友よ とギリシャの子供が言った 青い眼の子供が言った──おれは爆薬がほしい 弾丸がほしいんだ」これらの詩句は、あらゆる冷笑にもかかわらず、圧制の思い出がこの地上からぬぐいさられぬかぎり、壮重なものとして残るだろう。たとえ、フランスの生活状況が、叙事詩的であることをやめたときにも……」
 「詩を叙事詩たらしめるものは、状況である。ということは、明らかに、叙事詩はつねに状況の詩であることを意味する、このことは、恐らく、最初の原型では意味していないことだが、奇妙なことを強調することになっている。つまり、叙事詩は、こんにちの通用語では、詩の「高貴な」一形式とされているが、それなのに、「状況の詩」ということばは、下等なジャンルの詩にたいする言い分として、ある種の侮蔑をもって用いる表現なのである…… 叙事詩的感情とは、民族感情の詩における名まえ以外のものではない……」

 アラゴンは、このように状況の詩、叙事詩を擁護しながら、ふたたび、ヴァレリイ風な「永遠の詩」や「詩的な神秘」の愛好者たちに批判を向けている。「永遠のひとかけら」と言われるヴァレリイの純粋詩、あの「いやはてのダイヤモンド」や、あるいは「リルケ風」は、現実の状況を侮蔑する。だが、これらの架空のオペラは、「子供が死のうとしている時には、黙りこんでしまう」のだ。
(つづく)
(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

池

   わたしは書くのだ……

わたしは書くのだ 黒死病(ペスト)に喰い荒された国で
あのゴヤの悪夢の 再来したような国で
犬どもが 「精神の糧(かて)」ばかりをつけねらい
白い骸骨が 大豆畑をたがやしている国で

人相のわるい大男が あたりをうろつきまわり
鞭(むち)をふるって 家畜を追いたててゆく国で
怖るべきわざわいの日々の 非情の空の下
野獣や猛禽(もうきん)どもが 爪で獲物を奪いあう国で

傀儡(かいらい)どもの足に踏みつけられて 息もつけず
車の轍(わだち)で 国の奥まで掘られ抉(えぐ)られ
ペトーシュ王の名で しぼりとられる国で
人間面(づら)した狼どもの餌食となる 恐怖の国で

わたしは書くのだ 人びとが汚物と渇きの中に
沈黙と飢えの中に 閉じこめられている国で
ラバールの統治下 まるでヘロデ王の治世のように
母親の目の前で 息子がひったてられてゆく国で

わたしは書くのだ 流れる血で顔かたちもゆがみ
傷だらけ痛みだらけで 呻めいている国で
押し入るにまかせ 雹にうたれる市場のような国で
死神が 骨のかけらでお手玉をする 廃墟の国で

わたしは書くのだ 警官が 夜(よる)の夜ふけに
家々に踏みこんできて 人びとをひっ捕え
刑事どもが 愛国者たちに口を割らせようと
その傷(いた)めつけた手足に くさび打ちこむ国で

わたしは書くのだ 山なす死者たちにじっと耐え
その赤紫いろの傷口を 人眼にさらしている国で
猟犬の群が むらがってその上に咬みつき
下僕が角笛吹いて 獲物の分け前を分けあたえる国で

わたしは書くのだ 屠殺者どもに皮剥(は)ぎとられる国で
そのむき出しになった神経 臓腑 骨が見える
またわたしは見る 松明(たいまつ)のように燃えあがる森を
燃える麦畑のうえを 逃げまどう小鳥たちを

わたしは書くのだ 身の毛もよだつ非道が横行し
外国の兵隊たちの 寝息がきこえる深夜のなかで
遠いトンネルのなかで 列車が悲鳴をあげる
抜け出られるかどうかは だれにもわからぬ

わたしは書くのだ 二人の敵手が闘かう決闘場で
一方は 飾り馬にまたがり 鎧(よろい)かぶとに身を包み
片方は 敵の剣に 見るも無残に切りきざまれ
身にまとうものとては ただ勇気と正義だけ

わたしは書くのだ 予言者ばかりか国民ぜんぶが
獣(けもの)なみに つき落されている この穴のなかで
誰か叫んでくれ この辱しめを忘れるな
とうぜん食う権利のある肉を 奪い返えせと

わたしは書くのだ 俳優たちがその花道も幕間も
楽屋も失(な)くしてしまった 悲劇の書割のなかで
侵略者たちが わずかばかりの無知なやからに向って
大言壮語をもぐもぐと読み上げる 空(から)っぽの劇場で

わたしは書くのだ 怨嗟の声がおうおうとみなぎる
巨大な徒刑囚船(ガリー)の中で またわたしは書くのだ
拳(こぶし)で壁をうちたたく合図の音が 年獄じゅうにひびき
看守たちを面くらわせる タぐれの地下牢で

これでも君らは わたしに花を歌えと言うのか
もう 叫び声などを歌ってはならぬ というのか
あの七色の虹のうち 今わたしの愛するのは三つの色だけだ
しかもわたしの好きな歌を君らはもう禁じてしまったのだ

どうして我慢できよう 泡杓子(あわすくい)のように穴だらけのこの世界に
そこにのさばる不法と あの呪わしい怪物どもに
そして わたしは 消えた「楽園」の思い出を呼び起こし
そのしらべに わたしの歌を結びつけずにはいられぬのだ

わたしは歌おう 心なき がらくたの言葉で
こんこんと降る雪よりも もっとさり気なく
新聞で読むような ざらざらとした言葉で
そうして みんなの言い廻わしで 語るのだ

ふと アスファルトに落ちた 銅貨の音に
ひとが 歩きながらも 振り返えるように
不幸の噂は 誰いうとなしに 伝わってくる
それは降って湧いたような言葉 立ち去らぬ言葉だ

フランスの言葉は 二重の意味の希望をひめる
雨の降ったことを 忘れやらぬ牧場のように
もっとも単純な言葉が もっとも強い力をもち
その協和音で 長い余韻を残して ひびくのだ

鳥たちを歌おうと えびら萩の茂みのなかで
色あせてゆく八月の その移ろいを歌おうと
また風について歌い 薔薇について歌おうと
わたしの歌はちぎれて すすり泣きに変わるのだ

野に花が散るや わが人民は鎖につながれる
わたしの眼の中に べつの詩が燃えあがる
この空模様では なにもかも地獄の匂いがする
シレジアの塩坑にたちこめているあの匂いだ

おろかなことだ 口に出さずに黙っていようと
たれもかれも 知ってることを 詩に歌うとは
だが このドイツの牢獄を フランスの調べで歌うなら
かれらの悪事は 羽根が生(は)えて 忽ち知れわたろう

わたしがなお歌うのは 憎しみの太鼓をうち鳴らし
歌の調べのなかに その教訓をきざみこむためだ
ポーランドの国ざかいには 拷問地獄がある
その怖ろしい名を 口笛や指笛が吹き鳴らす

人間の力のぎりぎりの世界 ぎりぎりの飢え
キリストも こんな怖ろしい目には会わなかった
こんな果てしもない 胸えぐる非情の世界に
人間の魂が投げこまれるとは 知らなかった·

アウシュヴィッツ アウシュヴィッツ 血のしたたる音綴り(おんつづり)よ
ここにひとは生き 火の消えるように死んでゆく
ひとはこれを なぶり殺しの刑と呼んでいる
われらの同胞が ここで徐々に死んでゆくのだ

ここに繰りひろげられるのは 苦痛のオリンピックだ
恐怖が 死にもの狂いで 死とたたかうのだ
しかもそこに フランスの選手団がいるのだ
わが国の 百人の女たちが そこにいるのだ

見るがいい 栄光にみちた百の花たちが
この不幸な祖国の名誉を その血で守りぬいたのを
残酷無残な学校における その百の教訓から
われらは学びとろう 愛とは 憎むことだと

息子や 兄弟や 夫たちに 聞くもなつかしい
その百の名を いまは告げるわけにはゆかぬから
せめてこの不幸のどん底で あなたたちに挨拶を送ろう
マリー・クロードの名を呼んで マリーよと

そして『自由』の絵図で 最初の叫びをあげてる女のように
最初に夜(くらやみ)のなかへと逝き はるか墓の彼方で
光りと化したマリー・ルイズ・フルーリよ
わたしは あなたに挨拶をおくる マリーよ

  ああ 怖るべき種まきが
  この長い夏を 血で色どる
  あまりにひどすぎる 聞けば
  ダニエルもマイユも殺(や)られたという

  奴らは ひと切れひと切れ 切り刻むのか
  連れ去った わが優しいフランスを
  噂をきけば 悲惨なわれらの野に
  暗闇は いよいよ濃くなるばかり

  言葉は無力で うまく伝えてくれぬ
  マイユよ ダニエルよ わたしには自信がない
  わたしの胸と歌とを ひきちぎる
  この物語を どう語り終えるか

百の顔をもったフランスのマリーたちに 挨拶をおくる
あなたたちの或る者は 人質を殺した人殺しどもの
ぬぐいとれぬ悪名を 永久に 告発するのだ
愛した仲間たちのあとに ただ生き残ることで

生き残ってるあなたたちを 男たちは待ちこがれている
奴らのむごい仕打ちを知って 身ぶるいしている
様子を知ろうにも 手がかりは風の便りの噂ばかり
もう その怖ろしい重荷に うちひしがれているのだ

それでも彼らは 遠いあなたたちの真相がわかるような気がして
も一つのむごい不幸が降りかからぬかとおののくのだ
あなたたちが帰えってくれば 彼らは生れ変わる
だがどうしたら 奪い去られたあの人に会えよう

しかし 愛から生れるのにさえ 苦しみがあるのだ
帰ってきたら どんな暗い話をすることかと
彼らは 夜もねずに 昼はぼんやりと思いふける
あなたたちの徴笑みさえ見れば すべてはまた始まるのだが

あなたたちがめでたく帰ってくる その時には
おのぞみどおりの花々を飾って 迎えよう
かがやく 未来の色をした花々で 迎えよう
どうしても 帰ってくれなければならぬのだ

あなたたちの席は 優しい光に照されよう
子供たちは 拷問された手にくちづけしよう
あなたたちの疲れた足もとで すべては柔い苔となり
音楽があなたたちの心を慰め 部屋を和らげよう

夜がやってくると 庭は生きいきと 息づこう
夏の茂みはそよぎ 野は深(ふか)ぶかと広がろう
たちまち 燕が窓にやってきて 告げるだろう
マリーよ ようこそ お帰えり マリーよと

おお 怪物どもの手から奪い返えされ 平和にもどった
わがフランスよ 難破をまぬかれた船よ 換拶をおくる
オルレアンを ボージャンシーを ヴァンドームをほめ讃える祖国よ
鐘楼の鐘よ 鳥たちのために アンジェラスをうち鳴らせ

雉子鳩の眼をしたわがフランスよ 挨拶をおくる
わたしの苦しみも わたしの愛も むだではなかった
わが古くて新しい葛藤の国 わがフランスよ
英雄たちの眠っている大地よ 雀のむれとぶ空よ

嵐もさって 風も凪(な)いだわがフランスよ
地図を見れば 海風に向って掌(てのひら)のように開き
遠い沖の鳥たちが飛んできて 羽根をやすめる
わが永遠のフランスよ あなたに挨拶をおくる

リールからロンスボーへ ブレストからモン・スニへと
渡り鳥は 飛びまわって 初めて学びとったのだ
自分の巣を棄てて 飛びまわるに 価いするものを
わがフランスよ わたしはあなたに挨拶をおくる

鳩の祖国であるとともに 鷲の祖国でもある祖国よ
ごり押しの厚顔と 湧き起る歌声とが 同居している祖国よ
小麦と 毒麦とが 気まぐれな太陽のひかりで
ともに実(みの)るわがフランスよ あなたに挨拶をおくる

あの驚嘆すべき日日 民衆がめざましい働きぶりを
発揮した わがフランスよ あなたに挨拶をおく
人びとは歓呼の声をあげて はるばる首都にやってくる
パリ 三年の蹂躙(じゅうりん)に耐えぬいた なつかしいパリよ

幸いなるかな 偉大なるかな 勝利の虹をかかげ飾るものは
虹がかかったからには もう雷鳴はとどろかぬだろう
かちとった自由に 鳴りをひそめていた竪琴(ハープ)もまた鳴り出す
おお 栄えあれ 大洪水をくぐりぬけた わがフランスよ
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

池



5)グレヴァン博物館

    われらの黙示録が始まって……

われらの黙示録が始まって 四度めの夏
ふしぎな うすら明りが地平線に現われた

いまや くらい日蝕も 終りに近づいたのか
あかるい希望が 牢獄の藁のなかにも脈うつ

きくがいい 風にきしむ戸のように呻く夜を
あけぼのが 人殺しどもを青ざめさせるのだ

おびえた王侯たちが護衛をつれてご帰館になる
血まみれの服を洗っている 奥方のところへ

いままでの彼らの領地 恐怖の帝国に
せきをきったように ちがった話声が流れる

はじめて 殺すためでない 人間らしい言葉が
暴君どもの くちびるを ひらかせる

彼らは免罪権を云々し 気が狂っていたんだという
きょうもどこかで 子どもが死んでゆくときに

これからは 恋の歌を甘くささやくがいい
その偉大な胸ははり裂けると 世に証(あか)すがいい

だがついに 隈(くま)どりをした道化顔の下に 素顔はのぞく
彼らの人殺しは数えられ 帳簿は閉ぢられたのだ

彼らは 犯罪をもって犯罪の口実としながら
ひとびとの呻き怨む声に うち興じていたのだ

かつてわれらは 彼らの馬どもの秣(まぐさ)集め隊だったが
彼らの戦車隊や陰惨な仕打ちにも毅然として立っていた

権力は掟となって 精神を辱しめふみにじった
彼らはおのれの法律を拒むものを気違いだと笑った

彼らの形面上学では すべてが変るためには
見せかけの光りが作られるだけで 十分だった

彼らの哲学では すべてが変るためには
音楽をちょっと変えるだけで 十分だった

なんと奇妙な時代の 奇妙な季節だろう 
狼が森の中を 説教してまわりたいというのだ

まるでぼろぼろに裂けて 綿のはみでた座布団だ
誰の眼にも その腹と秘密がまる見えなのだ

ヨーロッパの四辻で 演説をぶってる男たち
だが 事業をしくじった絶望はかくしきれない

博愛家の燕尾服をきた 案山子(かがし)たちも
夜明けには 首を吊ったようなふりをしている

敗北は彼らの頭上にあるのに 信じようともせず
彼らは 折れた剣を 風に向かってふりまわす

しかし、彼らをとりまいた群衆は 生きた鏡だ 
彼はもう首を切り落とされた姿で映っているのだ

むだなことだ 大言壮語でひとをあざむこうと
夜明けは 恐(おそ)ろしいものだと言いふらそうと

むだなことだ いまさらいつくしみの手袋をはめようと
天命をうけてやってきたなどと 言いはろうと

むだなことだ 無知を美徳の列に祭りあげようと
くらやみを 光りだなどと 言いくるめようと

おのれの葬式の重い足どりをわれらにおしつけようと
異国の神々を われらの銅像にとって代えようと

臆病であれと教えようと 奴隷根性を吹きこもうと
いたるところに 恐怖の風をあふりたてようと

男を牢獄に 女をやもめ暮らしに おとしいれようと
すべてを汚し 台なしにし 辱しめようと

むだなことだ いまなおおのれの憲兵に命令しようと
むだなことだ 戦利品に腰かけて眠りこけようと

彼らは じぶんの涙の色をかくすことができない
まちがいなく 夜のあとには朝がやってくる

あけぼのはその赤銅の手をさしこんで焼きつくすのだ
あのくらやみの王どもと その腐った合唱隊とを

あのにせの十字軍 妖怪変化のぺてん師どもから
怒りに燃える大地は 解き放たれねばならない

彼らには恐ろしいのだ 息づくすべてのものが
ゆりかごのほとりの子守り歌が 夏の小鳥さえが

脈うつ心臓の音にもおびえて 身をかくす
すべてが物の化に 鎖に 幽霊屋敷に見えるのだ

眠りの中できく足音も 見張りにやってくるようだ
いったいどんな夢をみて あんなに寝がえりをうつのか

彼らの思い出は火の中 こころには棘(とげ)だらけ
こんどは彼らの番だ 誰かが彼らを責め殺すのだ

誰の眼にも見える 白い鳥について語っている
その地獄の口から 毒蛇が這いだしてゆくのが

誰の眼にも見える 彼らのうしろで殉難者たちが
親指をそらして 血まみれの合図をしているのが

誰の眼にも見える 裏切者たちの暗い眼ざめが
太陽にあばき出されて あわてふためくその姿が

誰の眼にも見える 牧師が彼らのわきで悲劇的に
くちづけするようにと 十字架をさしだす姿が

誰の眼にも見える 未来におびえおののく彼らの姿が
誰の眼にも見える 刑車(くるま)が彼らの上をまわるのが

誰の眼にも見える これら死刑囚どもの姿が
そして弾丸(たま)にぶちぬかれて 黒い血の吹き出すのが

彼らは やがてやってくる判決の 恐ろしい焼印を
その肉に焼きつけられて もう塗りかくすこともできぬ

ロボットたちの額を照らす 蠟燭明りのなか
彼らはもう集合しているのだ グレヴァン博物館に向かって

☆グレヴァン博物館 一八八二年に漫画家アルフレッド・グレヴァンによってパリのモンマルトルに設立された蠟人形の陳列館。アラゴンはこの詩集で、ナチスの協力者たちを蠟人形館行きのロボットとして痛烈に風刺している。
(つづく)
(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

池

4)サン・ドナの村へ

 ところで、このリヨンのモンシャの隠れ家も安全ではなくなったので、一九四三年七月には、ドローム県の寒村サン・ドナに移る。その頃の一枚の写真をみると、ちょうど日本の農村の、壁のはげ落ちた土蔵のような家から、アラゴンが降りてくる。下には、村の子供がなかば裸かで立っているところが写されていて、地下生活のきびしさが思いやられるのである。サン・ドナの思い出をエルザはこう書いている。
 「わたしたちにとっても、活動にとっても、リヨンはいたずらに危険の多いことが分った。そこで、必要な外出のできる静かな場所に、わたしたちはかくまわれることになった。こんどは信用できる偽証明書をもって、わたしたちはドローム県のサン・ドナへ向った。むろんそこでは「北部地帯」からの多くの避難者のように、おとなしく、仕事のない閑人らしく装って暮らさねばならなかった。よく組織された非合法活動のきびしさが、すべてについてまわった。
 わたしたちは、「解放」の日までそこにとどまった。ヴァランスやリヨンやパリへしげしげと旅行をしながら。(リヨンのブロンに、わたしたちはついに月ぎめの部屋を借りることにした)村のひとたちは、ひんぴんと行ったり来たりするわたしたちをよく見ていたが、見て見ぬふりをしていた。まもなくわたしたちは、村びとのなかに、口の堅い協力者を見つけだした。その人たちは、口には出さなかったが、この地域に避難していたパリっ子たちをとおして、わたしたちが何者なのか知っていた。またある村びとたちはわたしたちの素性を知らぬながらも、「感づいて」いたし、ほかの村びとたちは、わたしたちを何かうさんくさいと思っていた。わたしたちは、サン・ドナにとどまることに決めた。結局、運は天にまかせるよりほかなかった。私たちにとって、安全であるような場所はどこにもなかったのである」
(『交錯小説集第五卷序文』)

 ラヴァル、ペタン、アウシュヴィッツなどの名まえを公然と挙げているような詩は、一九四三年〜四四年頃に合法的に発表することはとてもできなかった。アラゴンの詩にとって、いつそうきびしい非合法の時代がやってくる。こうして非合法出版が始められる。
 その頃、知識人の抵抗組織は大きくなっていた。知識人は五人で一つの地下細胞をつくり、それは「星」と名づけられ、非合法活動の規律にしたがって、他の地下細胞とは厳格に区切られていた。この組織を通じて「星」と題するタイプ刷りの小冊子がひろめられることになる。五人組から、この小冊子をうけとった読者は、この小冊子を四枚のカーボン紙で複写して、新しい五部を流布する。こうして「雪だるま」の方法でつづけてゆくのである。
 アラゴンの仲間はまた「フランス書房」Bibliothèque Française の名義で地下出版を始める。この出版所名で最初に出版されたのが『グレヴァン博物館』であった。この詩は、「怒れるフランス人」という名前で出版され、まもなくパリの「深夜厳書」によって再版される。
 この詩は、リヨンで書き始められて、サン・ドナの村で書きあげられた。

  われらの黙示録が始まって 四度めの夏
  ふしぎな うすら明りが地平線に現われた

  いまや 暗い日蝕も 終りに近づいたのか
  あかるい希望が 牛獄の藁のなかにも脈うつ

 という詩句で、この五五六行の大きな詩は始まっている。ナチスの侵略がはじまって、すでに四年めの夏を迎えていた。この年の二月二日、ドイツ軍九万がスターリングラードで降服し、ナチス・ドイツの敗北は早くも避けられぬものと見られていた。しかし、フランスを占領していたドイツ軍は、いよいよファシストとしての野蛮な虐殺、略奪、弾圧をふるっていた。この詩は、その血なまぐさい状況のなかで、その血なまぐさい状況そのものを書いた叙事詩(エピック)であり、ファシストたちにたいする痛烈な調刺詩である。
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

地下抵抗の時代のアラゴン 1944年

地下抵抗の時代のアラゴン 1944年

3)ドロームの隠れ家「天国」とリヨンの別荘

     *
 一九四二年十一月十一日、イタリア軍がニースに侵入してきたため、エルザとアラゴンは、最後の列車でニースを離れて、地下にもぐることになる。かれらはディニュで下車し、そこから自動車でアヴィニョンに行き、ピエール・セゲールスに会う。そこから、前もって借りてあったドロームの家へ行って、そこで二カ月を過す。このドロームの家について、エルザはこう書いている。
 「隠れ家は、ディウルフィの上方の、山の中にあって、そこへ辿りつくには、歩いてゆくよりほかなかった。わたしたちはこの隠れ家を、陰謀めかしく「天国」と呼んだ。それは、三つの村をむすぶ四つ辻に、ぽつんと立った廃屋(あばらや)だった。だから、三つの村のどれに属するのか、はっきりとはわからなかった。まるで、だれも気にとめないような家だった。
 一九四二年の、冬の雪のなかに埋まって、世間から切り離されて、誰にも見つからず、どんな連絡もじっさいに不可能だった……だが、こんな状態をつづけるわけにはいかなかった。早急に、このうつろで奇妙な天国から降りて公然とは生きられないにもせよ、占領された下界を見つけねばならなかった。偽の身分証明書を手に入れるために、わたしはリヨンへ向った。
 書類をつくるに必要な時間(とき)をすごしたのち、わたしは、歩いたり、自動車(くるま)に乗ったり、汽車に乗ったり、ホテルや駅で夜を過ごしたり、骨の折れる辛(つら)い旅をして、白い孤独のなかへもどってきた。あなたは天国のふもとでわたしを待っていた。クリスマスの夜のなかを、長いこと、よじ登って、やっと辿りついたのは、三本の大きなポプラに守られたこのあばら家だった。あなたは、炉のなかで杜松(ねず)の薪を燃やした」

 この「天国」は、安全な隠れ家ではあっても、山の中にあったために地下活動をつづけるには不便でもあり、不可能でもあった。そこでかれらは、リヨンのモンシャにある「confluences」誌の編集者ルネ・タヴェルニェの家の屋根裏部屋を借りて住むことになる。そこに、一九四三年一月の始めから、七月末まで滞在する。この頃の思い出を、サドゥールはこう書いている。

 「わたしは連絡のためにしばしばリヨンへ行って、このモンシャの別荘の屋根裏部屋を訪れた。そこでエルザは、『白い馬』や『アヴィニョンの恋びとたち』の原稿をよんでくれた。アラゴンは、その頃マキ団(パルチザン)を組織した人たちを讃えて、『百の村の壮丁』をそこで書いた。
 リヨンの町を見おろすモンシャの小さな辻公園で、かれはわたしに、「しあわせな愛はどこにもない」を読んでくれ、それを聞いてわたしは泣いてしまった。この詩がひどく絶望的に思えて、わたしはかれに、この詩を発表しないように頼んだ。(その頼みはむだでもあり、まちがってもいた)
 わたしたちが、アウシュヴィッツの存在を知り、この収容所で友人のダニエル・カザノヴァとマイユ・ボリッツェルが死んだことを知ったのも、またこの町においてであった。八月の始めで、アラゴンとエルザが非合法にパリへ向って出発する時だった。列車のなかで、ルイ(アラゴン)は膝のうえで、もう書き終えたと思っていた長詩(「グレヴァン博物館」)に、つぎの八行の詩句を書き加えたのである。

  ああ 怖るべき種子(たね)まきが
  この長い夏を 血で色どる
  あまりにひどすぎる 聞けば
  ダニエルもマイユも殺(や)られたという

  奴らはひと切れひと切れ 切り刻むのか
  連れ去った わが優しいフランスを

  噂をきけば 悲惨なわれらの野に
  暗闇は 濃くなるばかり
                    (サドゥール『アラゴン』)

 つまり、のちに『フランスの起床ラッパ』に収められる詩のいくつかが書かれ、『グレヴァン博物館』が書かれたのは、この頃である。
(つづく)

(『アラゴンとエルザ 抵抗と愛の讃歌』)

カサノヴァ
Danielle Casanova
ダニエル・カサノヴァ、その顔は、人間の兄弟愛を永遠に象徴しています。
アウシュヴィッツの収容所で仲間を介抱した後、チフスで亡くなりました。
(マックス・ポル・フーシェ「レジスタンス」)