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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。





   
                          長田三郎
つばくろよ
遠い南の国から 今年も還ってきたつばくろよ
きかせておくれ
南十字星のかがやく異邦の便りを

かつて いくさの日
一兵として駆りだされた戦場は
虜因として過ごした彼の地は
今はどうなっているのだろうか

つばくろよ きかせておくれ
羽斑蚊(はまだらか)に襲われ流れこむ雨水につかり
疲れはてて泥のように眠った
洞窟の跡はどうなっているのだろうか
今は訪れる人もなく
雑草にうずもれてしまったのだろうか

輸送船の 蚕棚さながらに仕切られた船艙にこもる
 保革油と汗の酸(す)えたにおい
遠雷のようにとどろく砲声
眼下の水面すれすれに迫りくる双胴の敵機
肌につけた真鍮の認識票に刻まれた数字だけが
生きていることの証(あかし)だった虚しい日日――

雛を孵(かえ)し育てるために 遠い南の国から
今年も還ってきたつばくろよ
平和の巡礼よ
おまえたちは 聞かなかったろうか
牡蠣のついた岸壁に打ちよせる波のざわめきを
おまえたちは見なかったろうか
気が遠くなるほど澄みわたった南国の蒼穹(あおぞら)を
入江を見おろす丘の斜面に遺してきた青春の墓標を……

海


『原爆の子』は広島で被爆した少年少女たちの体験記集で、1951年に刊行されました。自らも被爆した広島大学教授で教育学者だった長田新は平和教育の資料にする目的で被爆体験の手記を集める計画をたて、学校をまわって執筆を依頼、多数の手記が集められました。これを編集して出版すると国際的にも反響を呼び、多国語で翻訳出版され、国内では映画『原爆の子』や『ひろしま』が制作されました。

長田新の息子の長田三郎が『原爆の子』出版の原動力となって働いたことを増岡さんが本人から聞き取り、書き記しています。

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(『稜線』51号 長田三郎追悼 1994.7)

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長田三郎は1942年、松本連隊に入隊するとき、一高は自動的に卒業になると言われたが、「一高の在学生として戦死したいので籍を残しておいてほしい」と希望しました。エッセイ「奴隷兵士」にそのことを書いています。


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( 『稜線』46号 1993年4月)

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ブブノワ女史は戦前と戦後、早稲田大学文学部でロシア語を教えた名物講師で、たとえばロシア文学者の上田進も多くの影響を受けたといいます。(<人間上田進について> 短かい生涯 秋田雨雀)
 長田三郎も戦後、ブブノワ女史の講義をうけて影響を受けたことを長谷川七郎が「長田三郎をいたむ」で書いています。なお、長田は一高在学中に出征したが、通常一高では繰上げ卒業の扱いをしたが「長田さんは必らず復学するから在籍のまま兵役に服したいと云って、戦後に予定通り一高に復学された。これは異例のことで長田さんの自慢の一つであったようだ」(内田貞夫「長田三郎氏を悼む」)

    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

 長田が敗戦後復員し私大のロ文科に入学し「デカブリストの妻」を訳した谷耕平や同じロシア語の講師ブブノワからプーシキンの「オネーギン」の朗読の指導をうけその美しいロシア語の発音を通じて、はじめて詩のリズムとハーモニーに触れたと述懐している。
 ローマン的な傾向をこのむわたしは、アナトール・フランスやメリメとともにプーシキンの小説は愛読してきたが、「オネーギン」や「ルスランとリュドミーラ」の物語り詩をすじを追う読物としてたのしむことはあっても厳格な韻を踏む詩として取り組んだことはなかった、「オネーギン」の本文だけでも五千三百行余の大部である。プーシキンの詩をいく分か読み返した動機は、長田にならったわけではなく、わたしの友人の詩人で、長田と同じ学校でロシア語を学んだ、草鹿外吉のプーシキン詩集の訳業によるものである。(プーシキン全集全六巻中、一巻、六三〇頁を占める、抒情時、物語詩<河出書房新社>)草鹿も近年死んだ。
 長田の詩を形成している方法の特性には韻文的なものと朗読性が色濃い、語学の修得を主とした戦前の旧制高校時代、ドイツ人講師ベッオルトから、ハイネの詩の朗読を、復員後の大学では、ロシア人、ブブノワからのプーシキンの詩の朗読をと、感受性の強い時期での長田が受けた影響は当然であったろう。
 各人の資質によるものであったろうが、長田より十年年上のわたしが詩にかかわった時期は与謝野鉄幹らの朗詠調の韻律詩から、すでにフリーヴァースの自由詩の時代に入っていた。

 一九六四年の夏、北コーカサス以来二〇年の友人であるオデッサ大学のガッカエフ夫妻からの招待でわたしども夫婦は黒海周遊の旅をした、ヤルタでモスクワに向うガッカエフ夫妻と別れ、わたしどもは黒海航路の終点に近い、いま民族独立問題でゆれているアブハジア自治共和国のスフミに向った。スフミで数日をすごし、バルト三国に行く予定であったが、悪名高い政府機関のトラブルにあいスフミにしばらく足止めされ、その後モスクワ経由で日本に直送されるように措置された。
 日本で三十六年間も暮らし、老後を黒海の保養地のここスフミで隠世している程度のブブノワ姉妹の消息は知っていたので、無聊の一日を割いて訪ねることを思いついたが、昼は海水浴、夜はバーでのグルジアワインにかまけて、ついに果さなかった、ブブノワは死ぬ三年前に生地のレニングラードに帰り九十七才の長寿を全うした、その後ブブノワの日本の風物を素材にした水彩画を特集したソビエトの代表的月刊美術雑誌がとどいた。
(以下略)

(『稜線』51号 長田三郎追悼 1994.7)

少女

長田三郎は戦争に反対する詩人の会の世話人として熱心に活動し、毎年2回全国各地で開かれる「反戦詩人と市民の集い」には欠かさず参加して反核の詩を朗読していました。体力の限界を越えて活動した、と松本の詩人・池田錬二さん(故人)が書いています。
    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇
追悼

(『稜線』51号 長田三郎追悼 1994.7)

太郎山


鈴木初江が主宰した詩誌『稜線』の51号(1994年7月)で、同人だった長田三郎の追悼特集をしています。同年2月に亡くなった長田さんへの追悼の文章を池田錬二、増岡敏和、山岡和範、安在孝夫、長谷川七郎ら10名の方が寄せています。
中正敏さんの「羽斑蚊(はまだらか)に襲われ」は、長田さんの詩「燕」の由来について書いています。
   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

羽斑蚊(はまだらか)に襲われ      中正敏

 岩波の『原爆の子』の編集に協力したヒロシマ生まれの詩人長田三郎さんに、初めて神楽坂上の都教育会館でお会いすることができたのは、忘れられぬ出来ごとであった。
 『反戦・詩人のつどい』が開かれるので、金子光晴が名古屋から移ってきて卒業した津久戸小学校の向かいのマンションに住んでいる私は、赤城神社横の会館が近いせいもあって、会場に出かけて行ったところ、長田さんがご自身の作品、「燕」を朗読された。

  つばくろよ
  遠い南の国から 今年も巡ってきたつばくろよ
  きかせておくれ
  南十字星のかがやく異邦(くに)の便りを

 この第一連に始まる作品は、長田さんが一兵士として駆りだされ、また捕虜となったバイアス湾沿岸の戦場の想いでの詩篇である。それは、入江を見おろす丘の斜面に長田さんが遺してきた、青春の墓標でもあるのだろう。
 十五年戦争で、多くの若い人命が失われた。長田さんは辛じて生き帰ることはできたものの、兵営で一緒に労苦を共にしたのにサイパン島に不帰の命を落した人たちへの痛い思いは、拭い去ることができないのが感じられる。

 私のエッセイ集「詩とともに」を読んでおられたのか、表紙に本郷新の「鶏を抱く女」の写真をあしらっていることに触れ、長田さんは「わだつみの会」の会員である旨を告げられた。
 わだつみの像は本郷新が作成したものであり、それを末川博教授が立命のキャンパスに誘致して建立されたものであった。
 「末川博と愛」について私が書いていることも知っておられ、実は長田さんのご尊父長田新さんは末川博と親交のあったことなども、お話くださったのであった。
 それいらい、山本宣治の碑が信州上田の人たちによって守られ再建されたことや、太郎山のある上田が長田さんの、<南風と共に千曲川に渡ってきた燕の声を聞くと、バイアス湾の洞窟で聞いた忘れ得ぬ燕の声を思い出す>日びとなったことなど、上田平和音楽祭のお知らせと共にいただくこととなったのである。
 真に人間の尊さを知った長田さんであった。川口の病院にお見舞いしたとき、声帯を切除されていて、筆談により末川博の思想、言論、表現の自由の闘いを称賛されたのが、強く印象に残っている。

(『稜線』51号 長田三郎追悼 1994.7)

稜線




燕


(『反戦のこえ』1995年11月)

浜



扉

(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

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象山神社から数百メートル歩くと山寺常山邸。
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ゆったりした道を松代大本営地下壕に向かう人々。
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佐久間象山の友人でもあった傑物・山寺常山の屋敷跡を公園・無料休憩所にしたもの。
地下壕見学の帰りに休憩するのが決まったコースです。
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すぐ裏の疎水を挟んで、象山(標高475.8m)の山裾になります。
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疎水に沿った道も気持ちのいいプロムナードになっています。
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少し行くと橋がかかっていて、渡ると象山登山口の道標。
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簡単に登れそうです。
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橋を戻るとすぐ象山神社になります。


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松代は紅葉が見頃の時期ですが
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象山神社の境内は平日のためか人っ子一人いませんでした。

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「松代藩8代藩主真田幸貫公、佐久間象山先生並びに象山先生門下生の銅像」 昨年11月に建てられたそうです。
門下生として勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰、橋本左内、小林虎三郎、高杉晋作、中岡慎太郎、久坂玄瑞をあげてい
ますが興味をひくものは何もなく、民間企業と神社が客寄せのために作った造り物だとしか思えません。
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急に暗くなって雨が落ちてきました。
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紅葉がボケて見えるのは強い風に揺れるため(イイワケ)
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すぐ近くの山寺定山邸にも行きましょう


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元信越放送アナウンサーの岩崎信子さん。冒頭「千曲川その水に」を朗読し、ついで大島博光にインタビューしたときの思い出話。「三鷹の家について座るなり、缶ビールをぽんと置いてお茶代わりにどうですか。お断りしました。」
「戦争中、軽井沢の女学校に就職できずに松代に帰って良かったと言っていました。健康をとりもどしたことと、静江さんとであって結婚生活をはじめたことではないでしょうか」「静江さんは明るい性格で経済力があっただけでなく、詩もわかり、博光の詩集つくりに協力した。パーキンソン病の静江さんを10年間みて見送ったことについて聞くと、<みましたよ>とさっぱりした言い方。同じ道を歩いているという意識を感じました」
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<松本隆晴について>
詩人の松本隆晴さんをインタビューしたときのテープがありますので、聴いてください。「男の介護」という番組で、博光インタビューの4年後。松本隆晴さんは重症筋無力症で寝たきりの奥様を40年間介護しました。料理が得意だったことが介護につながりました。
詩「ワイン」朗読。妻の介護しながらワインを飲むときのことを歌っています。
大島博光と長い交流があったことをあとになって知りました。
博光から松本隆晴にあてた「はがき詩」、松本隆晴詩集から「野ぶどう」(博光がいいといった愛の詩)と「松本隆晴よ 古いむかしの友よ」(詩集解説)を朗読。
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<長田三郎について>
詩人の長田三郎さんは健康管理のために上田の太郎山に登った。六年間毎日登りました。そのことを詩に書きました。「太郎山のお地蔵さん」を朗読。
1984年、上田市民会館で「戦争に反対する詩人と市民のつどい」を開催しました。「原爆の子」を書いた長田新の三男で、反戦詩人の会で活発に活動しました。
詩「燕(つばくろ)」を朗読。
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言葉は人間の発明した最高のもの。舌は大事な発音器官です。声を出すことは健康にとってとても大切です。皆さんも詩の朗読をしてください。
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美しい朗読と面白いお話でとても豊かな時を過ごしました。岩崎さん ありがとうございました。
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焚き火
枯れ枝の山を焼却するために
焚き火
早朝から山下さん夫妻と新村さんが出動
焚き火
はなやの垣根のレッドロビンの枝も山となっていました
焚き火
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高い山がずいぶんスッキリしました


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(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

浜辺






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(『歌ごえ』Ⅰ号 昭和23年3月)

浜




鍛冶屋2


(『歌ごえ』Ⅰ号 昭和23年3月)

ヨット