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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。





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 この詩のなかにある「女は男の未来だ」という言葉は、『エルザの狂人』の帯封にもしるされていて、いわばこの書の標語のようにも見なされている。しかしこの言葉は、ジャン・シュールも言うように、社会学的な意味でのスローガンではない。また、「原子力は産業の未来である」というような意味で読まれるべきものでもない。この言葉はひとつの詩的発見であり、詩的直観である。この言葉は、女の愛こそ男の未来を約束し、示すということを意味しているのではなかろうか。この言葉の背後にはむろん「人間は人間の未来である」という有名なマルクスの言葉が透けて見える。その点についてアラゴン自身もつぎのように語っている。
 「『エルザの狂人』の帯封には〈女は男の未来だ〉というこの本の一節がしるされている。ある批評家はこの言葉を〈人間は人間の未来である〉というカール・マルクスの思想の改作と見なそうとした。ドイツの哲学者(マルクス)は、DieZukunftdesMannes(男の未来)とは書かずに、男と女を包含する言葉、DieZukunftdesMenschen (人間の未来)と書いたのだ。こういうわけで、わたしはカール・マルクスの思想に違反しているとは思っていない。……」

 自分の蒔いた種子をほかの人たちが摘みとるためにひとは死をも辞さない
 ここにうたわれているのは、社会主義的な新しい愛であり、社会主義的ヒューマニズムである。
(新日本新書『アラゴン』)

彫像



 
エロイカ


*未来を考えると わたしは酔ってくる──詩集『エルザの狂人』の「未来の歌」のフレーズ
未来を考えると わたしは酔ってくる
未来はわたしのさかずき酒杯だ 愛人だ
わがさかさまのバビロンだ
わたしは その秘密をはぎとるのだ
くちびるから べに紅をはぎとるように
未来は 頭のなかに開いた眼だ
未来は わたしの子 わたしの獲得物だ
観念の神にささげた 礼讃だ
*この世にすねたり……ずっと偉大なのだ──詩集『エルザの狂人』の「」の一フレーズを援用。
わたしは 過ぎさった過去を 一挙に思い出す
絶望にさいなまれて さまよい歩いた日々を
この世にすねるよりも もっと偉大だった愛を
たのしかったこと 苦しかったことのすべてを
*いつかサンザシの花の散り敷く春がくるだろうと──「未来の歌」の結びのフレーズを援用。
わたしは君に言おう 男は女のために
生まれ 愛のために生まれてくるのだと
古い世界の すべてが 変わるだろう
はじめに生が つぎに死が 変わるだろう
そうしてすべてのものが 分けられよう
白いパンも 血まみれのくちづけも
そうして 夫婦たちの わが世の春が
オレンジの花のように 地上に散り敷くだろう

以上から、この詩はアラゴンを歌っていると思われます。
 
空


 

遠くからやってくるもの

海



パンフレット アジェンデは死なず ──チリ人民は勝利する

  目 次

 ベンセレーモス(楽譜と歌詞)
A. チリの風土と人民のあゆみ
  チリとはこんな国
  スペインの植民から独立まで
B. チリの夜明け
  人民戦線政府の樹立(一九三八年)
  かちとられた人民連合政府(一九七〇年) 
C. 不滅のチリ人民連合政府
  三年間の偉大な業績
  反革命クーデタ
  クーデタの背景
D. この反革命ファシズムの暴虐
  暴虐のかぎりをつくす反乱軍
  写真は告発する 上
E. アジェンデは生きている
  不屈のチリ人民
  世界に  ひろがる抗議と連帯
  日本での発展
  コルバラン書記長ほかすべてnの政治囚の釈放を
  連帯と統一の輪をいっそう強く
資 料
  アジェンデ大統領の最後の演説(全文)
  「民主チリ」の声明
  チリ人民連帯日本委員会のよびかけ..... 
  チリ人民連帯日本委員会の活動と組織についての要綱.

    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇
アジェンデ夫人の来日を記念して、チリ連は「アジェンデは死なず──チリ人民は勝利する」と題したパンフレットを発行しました。A5判、52頁、定価二百円。このパンフレットは、チリの風士と人民のあゆみ、チリ人民連合政府の樹立、反革命クーデターとその背景、ファシズムの暴虐、不屈のチリ人民と世界にひろがる抗議と連帯、などからなっています。「写真は告発する」としてクーデタ当時のなまなましい写真をふんだんに使っているのがこのパンフの特徴で、いまなおファッショ的テロを加えている軍事独裁政権の正体を事実にもとづいて告発しています。(「チリ人民連帯ニュース」第2号 1974年5月)

表紙

 ベンセレーモス

(パンフレット「アジェンデは死なず」チリ人民連帯日本委員会)
 
ビクトル・ハラ




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(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「ピノチェトを通すな」1980年3月)

[チリ人民のあゆみをふり返って(5) 三年間の偉大な業績]の続きを読む

 
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(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「ピノチェトを通すな」1980年3月)

[ チリ人民のあゆみをふり返って(4) かちとられた人民連合政府]の続きを読む
 
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チリ共産党の創立者、ルイス・エミリオ・レカバレン(左)
1907年トコピージャ刑務所にて

(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「ピノチェトを通すな」1980年3月)
[チリ人民のあゆみをふり返って(3)人民戦線政府の樹立(一九三八)]の続きを読む
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レストランはなやのアンズおこわの誕生は市川市民診療所健康友の会の八ッ場ダム─吾妻渓谷バス旅行がきっかけです。
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バス旅行は2010年10月、建設中止が決まった八ッ場ダム予定地を見学して吾妻渓谷の紅葉を見るコース。
関越道の横川サービスエリアで休憩して、軽井沢を越えて長野原町へ向かいます。
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とろが軽井沢に入ると急に吹雪になり、冬景色に。
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長野原の昼食の会場につく頃には雪はやんで秋に戻っていました。
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昼食は地元名産の花豆(べにばないんげん)を使った花豆おこわ。シンプルな美味しさに感動。
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浅間酒蔵観光センターから見た吾妻川周辺の村落。
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ここから吾妻川に沿って走る国道145号を渋川の方へ下っていきます。
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工事はそれなりに進んでいるようでした。
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紅葉映える秋晴れに。
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渓谷に沿って走る吾妻線。
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渋川、白井宿にでる前の休憩で記念撮影。
その後、工事が再開されて八ッ場ダムは2020年に完成しました。今は見られなくなった景観もあるでしょう。
この旅で出会った花豆おこわがレストランはなやのアンズおこわを生み出すヒントになりました。
 


 
チリあゆみ2


(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「ピノチェトを通すな」1980年3月)
 
トーテムポール


[チリ人民のあゆみをふり返って(2)スペイン植民から独立宣言まで]の続きを読む

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バラ作業デーはポカポカしたあたたかい日差しに恵まれました。
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西側フェンスのバラを剪定
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テラスの鉢バラの剪定
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お茶の時間は手作りのお菓子や漬物
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忙しい中、お疲れさまでした。
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あゆみ1


(チリ人民連帯日本委員会パンフレット「ピノチェトを通すな」1980年3月)
 
あゆみ

[チリ人民のあゆみをふり返って(1)──パンフレット「ピノチェトを通すな」より]の続きを読む

 
ネルーダへの悲歌

(「赤旗」1973年9月30日)
 
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[ネルーダへの悲歌]の続きを読む
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国立民族学博物館は大阪の万博博覧会記念公園の中にあります。
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ご招待いただいて開会式に出席しました。
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続いて明日からの公開に先立って内覧会へ。
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独特な形や色鮮やかな作品が満載です。
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生命の木(メキシコ)
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サルワの板絵(ペルー)
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パブロ・アマリンゴ「精霊の神話的変化」(ペルー)
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第4章 民衆芸術の拡大:記憶と抵抗の過程
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サルワの板絵「呪われた者たち」(ペルー)  軍によるゲリラ掃討作戦を描いている。
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アヨツィナパ文書(メキシコ) 2014年にアヨツィナパ師範学校の学生43人が警察と軍関係者によって拉致され行方不明となっている。コロンブス時代の絵文書のスタイルで権力による暴力を植民地政府がアステカ王国の先住民におよぼした暴力に例えて批判している。
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大島博光記念館所蔵のアルピジェラが展示されています。
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オアハカ刺繍(メキシコ)
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「新型コロナウイルスと良き政府」エディルベルト・ヒメネス・キスペ(ペルー) 政府のコロナ対策への不満を記録。
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4月15日に開催のゼミナールには酒井朋子先生も講師をします。
酒井先生は図録にも執筆されていて、今日の会にも参加されていました。
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巨大で色鮮やかなトーテムポール 


チリで軍事クーデターが起きたのは1973年9月11日ですが、同月30日の「赤旗」にクーデターの渦中にネルーダが書いた「腹黒い奴ら」の邦訳と大島博光の「ネルーダへの悲歌」が掲載されました。
 
解説

腹黒い奴ら

赤旗

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1965年  61歳
 この春、チリ大地震により、イスラ・ネグラの家が崩壊する。これを機会に、アラゴンは『パブロ・ネルーダヘの悲歌』を書く。
 1965年より69年に至るあいだ、キリスト教民主党は、銅山を「チリ化」し、農業を改革方をきめたが、ほんの一部で実施されたにすぎず、革命も自由をももたらしはしなかった。その政治は、エルサルバドルにおける銅山坑夫たちの虐殺(1967年)、プエルトモントにおける浮浪人たちの虐殺(1969年)等によって特徴づけられる。
 ネルーダは多くの作品を書いて、闘争に参加する。

1969年  65歳
 1970年に行なわれる大統領選挙の前哨戦が、危機をはらんだ情勢のなかで始まる。右翼は、反動的寡頭制と帝国主義の利益を代表する前大統領ホルヘ・アレサンドリを立候補させる。キリスト教民主党は、党内矛盾と分裂に足をとられている。左翼は「人民連合」を結成する。「人民連合」を構成する諸党はそれぞれ「予定候補」を指名することになり、共産党はパブロ・ネルーダを指名する。

1970年  66歳
 1月10日、ネルーダは立候補をとりさげ、サルバドル・アジェンデが人民連合の統一候補者となる。ネルーダはアジェンデを祝福して言う。「もしも人民連合が花咲くなら、国じゅうが花咲くだろう。乾ききった大地を雨がうるおすだろう。ぶどうは熟れて、秋のぶどう酒をかもすだろう。」
 9月4日、大統領選挙において、アジェンデは36.3パーセントの得票を獲得して当選する。
 10月22日、陸軍総司令官レネ・シュナイダー将軍が、ビオー将軍らファシストによって暗殺される。「マルクス主義に道を閉ざすために」軍を動かすことに反対したからである。
 10月24日、議会は圧倒的な多数で、アジェンデを大統領に選出する。
 ネルーダは『炎の剣』を9月に、『空の石』を12月に刊行する。

1971年  67歲
 人民連合政府は、帝国主義および寡頭制に反対し、社会的進歩を推進するきわめて改革的な綱領を断乎として実施する。
 7月11日、議会は、銅国有化のための憲法改正を全会一致で採択する。
 人民連合は、4月の地方選挙においても絶対多数を獲得する。
 この頃より、右翼反対党の挑発的攻撃が激化してくる。
 12月1日、フィデル・カストロが3週間におよぶチリ訪問が終わって帰国するやいなや、人民連合政府に反対する、いわゆる「からっぽのシチューなべ」運動といわれる大示威運動が展開される。これは、右翼ファシストが組織した最初の大示威運動であった。(本書『俗悪な物語』35頁参照)キリスト教民主党は、急速に、右翼に接近する。
 ネルーダは、アジェンデによって、駐仏大使に任命され、3月、パリに赴任する。
 10月には、ノーベル文学賞を受賞する。

1972 年  68歲
 人民連合政府にたいする帝国主義の反動的圧力は日ましに強まる。キリスト教民主党は右翼と決定的に同盟をむすぶ。右翼の攻撃は本格化し、内乱の危険が増大する。10月、右翼の「トラック・スト」「資本家スト」は激化する。
 ネルーダは病気のため、駐仏大使の任を解かれて、11月20日、マチルデ夫人とともにフランスに別れて帰国する。

1973年  69歲
 帰国したネルーダは、ふたたびチリ人民の闘争に参加し、『ニクソンサイドのすすめとチリ革命への賛歌』を刊行する。
 3月4日、上下両院議員選挙において、人民連合は、1970年の36.3パーセントを越えて、43.39パーセントを獲得。アジェンデ政権を合法的にうち倒すことのできないことが明らかとなり、右翼反対党は、必死になって暴動反乱をけしかける。そのために、人民連合政府に反対する一部の労働者をも利用する。5月〜6月にわたるエルテニエンテ銅山の職員、技師、一部労働者によるスト。
 6月29日には最初の軍事冒険──クーデターを企てるが失敗。
 5月20日、ネルーダはイスラ・ネグラから、チリの知識人および世界にむかって、チリ人民連合政府を防衛するよう訴える。
 7月26日、トラック・ストの再開を皮きりに、右翼の攻撃激化。
 9月4日、人民連合はアジェンデ選出三周年を記念して、百万人の大集会をひらき、その席上ネルーダは、内乱の脅威を遠ざけるよう、愛国者たちを激励するアッピールを行なう。それは、いわばかれの遺言となる。
 9月11日、三軍の司令官、国家警察長官は、「軍事政権」をつくり、アジェンデの辞職を要求し、モネダ宮を包囲し、爆撃する。アジェンデは忠実な部下とともに英雄的に戦って仆れる。
 血みどろのテロがチリ全土に襲いかかり、左翼の諸党、労働組合、進歩的諸団体が解散させられる。
 ネルーダの家は、9月11日以来、軍部の監視下におかれ、かれのイスラ・ネグラおよびサンティアゴの家は、数回にわたって家宅捜索をうけ、蔵書類はみな持ち去られる。
 9月24日、ネルーダは69歳の生涯を閉じる。死因は癌ということであるが、アジェンデ夫人の言うように、かれは「肉体の上と、精神の面と、二重に殺された」のである。
 2日後に行なわれた葬儀は、銃剣の監視下にもかかわらず、盛大に行なわれ、参加者の間から「インターナショナル」の歌ごえが湧きあがり、ファシズム反対の最初の大デモンストレーションとなる。
(『ネルーダ最後の詩集──チリ革命への賛歌』 1974年)
 
アジェンデと



1938年 34歳
 5月7日、テムコにて父親が死去。その夜、『大いなる歌』を書き始める。8月18日、義母トリニダッド・カンディア・マルベルデ死亡。バルパライソの南方40キロの、砂と岩の太平洋岸に土地と家を買う。イスラ・ネグラである。ここで思索にふけってペンを執るつもりであったが、スペイン戦争はそれをゆるさなかった。

1939年 35歳
 チリ人民戦線から立候補して選ばれた、新しい大統領ペドロ・アギーレ・セルダの命令によって、 ネルーダはパリに赴き、スペイン人民戦線の亡命者をチリに避難させる仕事に従事する。こうして、2500人のスペイン共和主義者がフランスからチリに到着する。

1940年 36歳
 バルパライソのイスラ・ネグラの家に帰る。8月、メキシコ駐在総領事となる。当時、メキシコ文化をリードしていた3人の壁画の巨匠、クレメンテ・オロスコ、ディエゴ・リベラ、ダヴィッド・アルファロ・シケイロスを識る。かれらの壁画にみられるスケールの巨大さは、のちにネルーダの『大いなる歌』の構成に影響を与えることになる。

1941年 37歳
 ケルナバカ(メキシコ)にて、ナチ隊員に襲撃される。

1942年 38歳
 娘マルヴァ・マリーナ死亡。9月、ネルーダの詩『スターリングラードにささげる歌』が、ビラに印刷されて、メキシコ市じゅうの璧に貼りめぐらされる。

1943年 39歳
  『スターリングラードにささげる新しい愛の歌』を書く。秋、チリに帰国。帰途、グアテマラにて、ノーベル文学賞受賞作家ミゲル・アストリアスと友情を結ぶ。10月、ペルーのリマから、 クスコ、およびインカの廃墟マチュ・ピチュを訪れる。その印象はのちに『マチュ・ピチュの頂き』のなかに書かれる。この年はじめて、マチルデ・ウルーティアに出会い、ひそかに数篇の詩をささげる。彼女はのちにネルーダの3番めの妻となる。

1945年 41歳
 3月、チリ北部のタラパカおよびアントファガスター地区より、チリ共産党公認候補として総選挙に出馬し、上院議員に当選する。7月8日、チリ共産党に入党。9月、『マチュ・ピチュの頂き』を書く。この詩は『大いなる歌』に収められる。

1946年 42歳
 ガブリエル・ゴンサーレス・ビデーラが、共産党をふくむチリ氏主勢力の支持をとりつけて大統領に選ばれる。

1947年 43歳
 ガブリエル・ゴンサーレスは、おのれの掲げた政策をくつがえし、祖国と人民をうらぎり、かれを権力につかせた共産党員の迫害を始める。ネルーダは『数百万の人たちに訴える手紙』(カラカスの「エル・ナシオナール」紙)を書いて、大統領にたいする怒りを表明する。そのために、国家叛逆罪に問われる。8月、チリ共産党は、『大いなる歌』を完成するよう、ネルーダに一年の休暇を与える。一2月、大統領ゴンサーレスは、ネルーダの国外追放を要求する。

1948年 44歳
 一月6日、ネルーダは上院にて大統嗣を弾劾する。2月5日、ネルーダにたいする逮捕令状が出されたので、かれは地下にもぐる。かくて一年と2か月のあいだ、隠れ家を転々として移り、そのあいだに 『大いなる歌』を書きつづける。

1949年 45歳
 2月、馬に乗ってアンデスを越え、チリを離れる。4月25日、パリで開かれていた第一回世界平和擁護大会に、国際警察の追及の眼をのがれて姿を現わし、詩を朗読し、熱烈な拍手を受ける。 この組織の委員に選ばれる。ポール・エリュアールと出会う。6月、ソヴェトへの最初の訪問。プーシキン誕生一50周年記念集会に出席。7月、 ポーランドとハンガリーを訪問。8月、平和擁護ラテンアメリカ大台に出席のため、エリュアールとともにメキシコに赴く。

1950年 46歳
 4月、『大いなる歌』第一巻、メキシコにて刊行。ヨーロッパおよびアジアへ旅行。10月、ボンベイで開かれた平和大会に参加。11月22日、 ワルシャワで開かれた第2回平和擁護世界大会に おいて、ピカソ、ロブソンとともに、国際平和賞を受賞する。

1951年 47歳
 イタリー、アメリカ、ソヴェト、ドイツ、中国を歴訪。ベルリンで開かれた全世界青年友好祭に、ナジム・ヒクメット、ニコラス・ギリエンらとともに参加する。8月、フランス当局より国外退去を命じられる。

1952年 48歳
 イタリーのカブリ島に滞在、『ぶどう柵と風』を書く。ミラノより、『船長の詩』を著者名なしに刊行。この詩集は、「南部のチリ女」マチルデ・ウルーティアとの出会いによって想をえたもの。8月12日、3年5か月に及ぶ亡命生活よりチリに帰国。イスラ・ネグラに落ちつく。ふたたびソヴエト旅行。『基本的なもののオード』を書き始める。

1953年 49歳
 サンチアゴで開かれた文化擁護大会に、メキシコの画家ディエゴ・リベラ、キューバの詩人ニコラス・ギリエン、ブラジルの詩人アマドーらとともに参加。スターリン平和賞受賞。

1954年 50歳
 詩集『ぶどう畑と風』および『基本的なもののオード』刊行。

1955年 51歳
 詩集『旅』刊行。デリア・デル・カリルと離婚し、マチルデ・ウルーティアと結婚する。フランス、イタリー、人民民主主義諸国、および中国を訪問。

1956年 52歳
 チリに帰国。『新・基本的なもののオード』刊行。
 
1957年 53歳
 チリ作家協会会長となる。 アルゼンチンを講演旅行中、陰謀の理由で逮捕され、ブエノスアイレスの拘置所にて一日半を過ごす。詩集『第三のオード』を刊行。

1959年 55歳
  『航海と帰還』を刊行。マチルデ・ウルーティアに捧げた『一〇〇の愛のソネット』を刊行。

1960年 56歳
 キューバ訪問。キューバ革命をたたえた『いさおしの歌』を書く。

1961年 57歳
 キューバ訪問。獄中の画家シケイロス救援連動のため、メキシコを訪問。詩集『チリの石』『儀式の歌』刊行。

1962年 58歳
 詩集『力の限り』刊行。

1964年 60歳
 誕生60周年記念に、詩集『イスラ・ネグラの回想』刊行される。
(つづく)

(『ネルーダ最後の詩集──チリ革命への賛歌』 1974年)
 
馬に乗ってアンデスを越えるネルーダ
馬に乗ってアンデスを越えるネルーダ


 パブロ・ネルーダ年譜

一九〇四年             〇歳
 七月十二日、チリ中部パラルに生れる。本名、ネフタリ・リカルド・レイス・イ・バゾアルト。父親ホセ・デル・カルメン・レイス・モラレスは鉄道員であり、母親ローザ・ネフタリ・バゾアルト・オペソは教師であった。八月末、母親は結核のために死亡。

一九〇五年             一歳
 一家は、南部の密林のなかの小さな町テムコに移る。この雨の多い密林地帯にあるテムコで、ネルーダは少年時代を送ることになるが、テムコの森は少年を詩人へと育てる。

一九〇六年             二歳
 父親はトリニダッド・カンディア・マルベルデと再婚する。この義母を、ネルーダはのちに「わが少年時代の守護神」と呼ぶ。

一九一〇年              六歳
 テムコの小学校に入学。

一九一七年            十三歳
 テムコの新聞に初めて詩を投稿、掲載される。

一九二〇年            十六歳
 父親はネルーダの詩作をよろこばなかったので、父親の眼をかすめるためにパブロ・ネルーダのペンネームを採用する。この名まえは、チェコの作家ヤン・ネルーダにあやかったものである。

一九二一年            十七歳
 三月、サンティアゴの学生寮に移り、大学でフランス語を学ぶ。モダニズムの詩人のルベン・ダリーオの他、フランスの詩人、ボードレール、ランボー、サマンなどを耽読する。十月、『祭りの歌』によって学生連合の詩コンクールにおいて一等賞を獲得する。
 フランスの「クラルテ」運動のチリ版である「クラリダッド」に協力する。革命的な示威運動などにも参加。「この頃から、政治はわたしの詩と人生にはいってきた。若い詩人の心は、愛、生、悦び、悲しみに、扉を閉ざしているわけにはいかなかった。」

一九二三年         十九歳
 詩集『たそがれの書』を刊行。詩集をだすために、自分の家財道具や懐中時計を売る。

一九二四年         二十哉
 詩集『二○の愛の詩と一つの絶望の歌』を刊行。詩人としての名声を獲得する。「これはわたしの愛する詩集だ。強烈な憂鬱にもかかわらず、そこには生きる悦びが見いだされるからだ……」

一九二六年         二十二歳
 詩集『無限なる人間の試み』、散文詩集『指輪』(トーマス・ラーゴとの共著)、散文詩集『居住者とその希望』を刊行。

一九二七年         二十三歳
 外交官生活にはいる。ビルマのラングーン駐在領事。孤独のなかで『地上の住みか』を書き始める。

一九二八年          二十四歳
 コロンボ(セイロン)駐在領事。

一九三〇年          二十六歳
 バタビヤ駐在領事。ジャバ在住の若いオランダ女性、マリア・アントニエッタ・マルヴァと結婚。

一九三二年          二十八歳
 チリに帰国。

一九三三年          二十九歳
 詩集『地上の住みか』第一巻刊行。
 八月、ブエノスアイレス駐在領事。
 一〇月、フェデリコ・ガルシア・ロルカと出会い、友情を結ぶ。ロルカの芝居がブエノスアイレスで上演されていた。

一九三四年           三十歳
 バルセロナ駐在領事。
 一〇月四日、娘マルバ・マリーナ、マドリッドで生まれる。
 一二月六日、マドリッド大学で詩の朗読と講演。ガルシア・ロルカの推薦による。

一九三五年          三十一歳
 マドリッド駐在領事。ラファエル・アルベルティと友情を結ぶ。『地上の住みか』第二巻、マドリッドにて刊行。
 十月、ネルーダの編集による詩誌『詩のための緑の馬』創刊号マドリッドにて発刊。ミゲル・エルナンデスを識る。

一九三六年           三十二歳
 七月一八日、ファシスト・フランコは、ヒットラーとムソリーニの支援のもとに、スペイン共和国にたいする反乱を起こし、流血の内戦が始まる。
 八月一九日、親友ロルカは早くもファシストの手に落ちて、グラナダ郊外にて銃殺される。ファシズムの暴虐を眼のあたりに見て、ネルーダは最初のヒュマニズムの叫びをあげ、最初の政治詩『死んだ義勇兵の母親たちに捧げる歌』を書く。
ネルーダは領事職を解かれ、パリに移る。
この年、マリア・アントニエッタ・マルヴァと離婚し、デリア・デル・カリルと出会う。彼女はかれの二番めの妻となる。

一九三七年          三十三歳
 二月、パリで開かれたスペイン人民支援集会にて、『ガルシア・ロルカの思い出』を講演する。 四月、スペイン支援ラテンアメリカ委員会をパリに創設する。
 七月、バレンシアおよびマドリッドで開催された第二回文化擁護国際作家会議に参加。アラゴンとともに活動する。
十月十日、これらの行動のため本国に召還され、チリに帰国する。スペイン共和国の栄光をたたえた『心のなかのスペイン』刊行。
(つづく)

(『ネルーダ最後の詩集──チリ革命への賛歌』 1974年)
 
マドリードにて
アルベルティらとネルーダ(中央)、マドリードにて1935年





わたしといっしょに行こう
 


*「山と川(おいでいっしょに)」(詩集『船長の詩』 1952年)と同じく、闘いへの参加を呼びかける詩ですが、こちらのほうは具体的で説得力がありますね。1972年頃のチリの切迫した政治状況が背景にあります。

自転車
 


[わたしといっしょに行こう]の続きを読む


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(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

ネルーダ


[『ニクソンサイドのすすめとチリ革命への賛歌』(4)われら声をあわせて歌おう]の続きを読む


 
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(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)
 
マチュカ
映画「マチュカ──僕らと革命」 シチュー鍋デモのシーン



 
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(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)
 
アジェンデ



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ニクソンサイド1


(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)
 
ニクソンサイド



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ネルーダの詩にディナ・ロット(Dina Rot)が曲をつけた「山と川」(日本名「おいで一緒に」)は詩集『船長の詩(Los versos del capitán)』(1952年)の中の1篇です。この詩集はヨーロッパ亡命の最後にマチルデと過ごしたカプリ島で書き上げられ、匿名で刊行されました。新日本新書『パブロ・ネルーダ』には次のように記述してあります。「山と川」は苦しんでいる人々が待っている祖国に一緒に行って闘おう、という呼びかけの歌ですが、詩集『船長の詩』はマチルデに捧げられた愛の詩集なのです。
    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇
……事情はイタリアにおいても同じであった。チリ当局がネルーダの入国を拒否するように手をまわして要請していたからである。イタリアでもネルーダは国外追放を宣告されるが、イタリアの詩人、芸術家たちがこれに反対して、この命令を撤回させるにいたる。またカプリ島の歴史家エドウィン・チェリオがネルーダの滞在のためにその別荘を提供してくれる。こうしてネルーダはマチルデとともにカプリ島の滞在をたのしむことになる。

    カプリ島の恋人たち

  島はそのたたずまいのなかに
  時間と風に磨かれた金貨のような魂をもち
  手つかずのアーモンドのように
  野生のアーモンドのように
  生(き)のままだ
  そこでわたしたちの愛は眼に見えぬ塔だった
  煙りのなかで顫えていた
  ……
  なぜならカプリの恋人たちが眼を閉じると
  鋭い稲妻が ひゅうひゅうと鳴る周りの海のなかで
  恐怖を射しつらぬいた
  恐怖は死の深傷(ふかで)を負い血を流しながら逃げた……
  いまや蜜のような海のうえを
  舳(へさき)の女人像が裸かで漕いでゆく
  颱風(サイクロン)のような男にからまれてかきたてられて 
               (『イスラ・ネグラの思い出』)

 このマチルデとの愛には、まだこの詩にみられるように「恐怖」がつきまとっていた。妻デリア・デル・カリルの影が恋人たちから離れなかったからである。それにもかかわらず、マチルデへの愛を詩人はこの旅のあいだじゅう書きつづけた。それは『船長の詩』と名づけられて、匿名のまま、一九五二年ミラノにおいて刊行される。この詩集についてのネルーダじしんの弁明をきくことにしよう。
 「わたしはカプリ島で、情熱的で苦悩にみちた一冊の詩集を書きあげて、『船長の詩』と名づけた。
 これからこの詩集の由来について語ろう。これはわたしの書いた本のなかでもっとも物議をかもした一冊だった。それはずっと長いことひとつの秘密だった。ずっと長いことこの詩集の表紙にはわたしの名前がなかった。まるでわたしがこの詩集を自分のものと認めず、また詩集じたいもその父親が誰かを知らなかったかのように。私生児、自然の愛の子供が存在するように、『船長の詩』は自然の詩集だった。……
 ある疑い深い批評家たちは、この詩集の匿名を政治的理由によるものと見なした。(「党がそれに反対したのだ。党がそれを認めなかったのだ」と彼らは言った。幸いなことに、わが党は美の表現にはそれが何んであれ反対しない。
 真実は、それらの詩が別れたデリアを傷つけないように、ずっと長いことわたしが願っていたことにある。デリア・デル・カリルは過ぎさった過去の優しい女で、わたしの手にからみついた鋼と蜜の糸であり、一八年のあいだ模範的な伴侶であった。このとつぜんに燃えあがった情熱の詩集は、石のように彼女の柔らかい心を傷つける危険があった。そこにわたしがこの詩集を匿名にした深い個人的な理由──考慮すべき唯一の理由があったのだ……」(『回想録』)

 一九五二年、ネルーダは三年数ヶ月にわたる亡命を終える。詩人を乗せた旅客機がサンティアゴ空港に着いたとき、そこに迎えに出ていたのは、もはや逮捕状をもった警官ではなく、詩人を歓迎する群衆であった。詩人はヨーロッパの葡萄畑のなかをさまよい、プラハでは、なつかしいフチークの影と街歩きをし、ベルリンの世界青年友好祭では、全世界の若者たちの輪に拍手を送ってきた……彼はようやくなつかしい祖国に帰りついたのである。
(新日本新書『パブロ・ネルーダ』──「亡命 ヨーロッパで」)
 
カプリ島



 


私の国には 山がある おいで一緒に わたしたちと
私の国には 山がある おいで一緒に わたしたちと

山にのぼるのは 悲しいから おいで一緒に わたしたちと
川をくだるのは 淋しいから おいで一緒に わたしたちと
私の国には 山がある おいで一緒に わたしたちと

苦しみばかり 続くとも おいで一緒に わたしたちと
私と同じ あなたたち おいで一緒に わたしたちと
私の国には 山がある おいで一緒に わたしたちと

この闘いは きびしいだろう だけどあなたは 行くだろう
この生き方 きびしいだろう けれどあなたは 行くだろう
私の国には 山がある おいで一緒に わたしたちと

おいで一緒に わたしたちと

 作詞 パブロ・ネルーダ
 作曲 ディナ・ロット
 訳詞 笠木透

 
うたごえ1
うたごえ2
うたごえ3
うたごえ4



 
ああ人民の足もとに


(『アラゴン選集』 第Ⅲ巻 大島博光訳)
 
彫像


[ああ 人民(ひとびと)の足もとに流れるのは──アラゴン『パブロ・ネルーダへの悲歌』]の続きを読む


 そしてわたしがつぶやく


『アラゴン選集』 第Ⅲ巻 大島博光訳)

アラゴン

[そしてわたしがつぶやく──  アラゴン『パブロ・ネルーダへの悲歌』]の続きを読む

 
棘1

棘2


(自筆原稿)

*『告別詩集』(1982年)はアラゴンが生前に刊行した最後の詩集。「棘」は工ルザの死を嘆き悲しんだ歌になります。
工ルザの死・『告別詩集』
 
夕暮れ



[アラゴン  棘 (『告別詩集』)]の続きを読む
 

われらのいない


(自筆原稿)
*アラゴンは1963年、エルザ・トリオレとオランダ旅行をし、翌年に詩集『オランダの旅』を書きました。
その訳詩は『アラゴン選集Ⅲ』(飯塚書店)に嶋岡晨氏の訳で収められています。大島博光はアラゴンの訳詩集や評伝では『オランダの旅』に言及していませんが「わたしは わが人生を」 (「前のものと後のものに」より)と「われらのいない時代が」(「青と白の迷宮」より)を訳して原稿に残しています。
 
彫像


[ルイ・アラゴン  「われらのいない時代が」── 『オランダの旅』より]の続きを読む


 
わたしは わが人生を

(自筆原稿)
 
海

[ルイ・アラゴン  「わたしは わが人生を」 ]の続きを読む
 
書評 土井大助

(『詩人会議』1991年11月号)
 
土井大助
土井大助さん 007年6月、長野市松代にて、

 
書評 朝の風
(『赤旗』1991年6月28日)
色紙さいごまで




 
座談会5

出席者

(『赤旗』1993年10月5日)
 
行動
1973年10月21日、国際反戦デーのデモ行進にて




 
座談会4

(『赤旗』1993年10月5日)
 
弾圧

[軍事クーデターから三週間  座談会 チリの事態をめぐって(下) (4)軍の動き]の続きを読む


 
座談会3

(『赤旗』1993年10月5日)
 
チリの闘い

[軍事クーデターから三週間  座談会 チリの事態をめぐって(下) (3)挑発者集団の本領を発揮したMIR]の続きを読む


 
1
3

(『赤旗』1973年10月5日)
 
アジェンデ


[軍事クーデターから三週間  座談会 チリの事態をめぐって(下) (2)反動派、議会でも人民連合の施策妨害]の続きを読む



座談会

デモ 

(『赤旗』1973年10月5日)

 
赤旗物語人民のチリ1
赤旗物語人民のチリ2

アジェンデ

(『赤旗』1982年7月25日)




津森太郎
 


(『赤旗日曜版』1991年7月21日)

りんご
 



[剛直さと優しさ 大島博光詩集『冬の歌』   津森太郎]の続きを読む


 
冬の歌書評


(『赤旗』1991年6月28日)
『冬の歌』目次
 
冬の歌


[愛とたたかいを編む 大島博光詩集 冬の歌  小森香子]の続きを読む


 
木立夕子


(『冬の歌』刊行記念のつどい メッセージ・感想文集 1991年11月)





千曲川を


(『冬の歌』刊行記念のつどい メッセージ・感想文集 1991年11月)


 

戸隠に


(『冬の歌』刊行記念のつどい メッセージ・感想文集 1991年11月)
 
戸隠




[戸隠の水芭蕉を見に行った   小熊忠二]の続きを読む



大島さんはわたしの師
 

(『冬の歌』刊行記念のつどい メッセージ・感想文集 1991年11月)


[大島さんはわたしの師  日下新介]の続きを読む

 
吉岡


1991年11月、松代で開催された「大島博光『冬の歌』刊行記念のつどい」にあわせて、「メッセージ・感想文集」が発行されました。友人や詩人会議、長野詩人会議のメンバーら44名が文章を寄せています。

表紙
[夫婦愛の深さに心打たれた──吉岡よし  『冬の歌』感想文集]の続きを読む
詩集『冬の歌』初出一覧

1.愛について
  愛について   『詩人会議』1987年3月号
  恋する女   1991年1月 未発表
  炎を縛ることはできない  1988年6月 未発表
  ミラボオ橋  板橋詩人会『橋』 1990年
  詩を書かない詩人と女と  『反戦詩集』1990年6月

2.生きるのはむつかしい
  宮本百合子とマヤコフスキーと  『文化評論』1987年3月号
  死ぬのはやさしいが生きるのはむつかしい  『詩人会議』1986年9月号
  人生とボードレールの一行と  『詩人会議』1986年4月号
  清水のような流露  『赤旗』日曜版 1986年5月11日
  ミゲル・リティン監督は語る  『赤旗』 1987年9月30日
  ランボオ

3.冬の歌
  不幸は忍び足で  『民主文学』1989年8月号
  きみが地獄の岩に  『民主文学』1990年10月号
  もう思い出しかないのか  1991年 未発表
  きみはやってきた      〃
  きみがやってくると      〃
  きみはわたしを連れて行ってくれた      〃
  きみは 大地を      〃
  孤独な散歩者      〃
  わたしは眠ろう きみといっしょに      〃

4.鳩の歌
  鳩のねがい  『赤旗』1986年2月26日
  鶴と鳩と  『民主長野』1985年12月
  核戦争と平和と──核戦争が起きたら  1988年6月 初出紙誌不明
  戦争と平和と  『赤旗』 1988年1月17日
  いまは走るときだ  『赤旗』 1991年2月23日
  ヒロシマ・ナガサキから吹く風は  『赤旗』 1985年8月7日

5.風刺の季節
  うごめく亡霊  『赤旗』日曜版 1986年9月
  風刺の季節  『民主文学』1987年3月号  
  狼の憲法に改悪させてはならない  『いま声をあげるとき』第1集 月刊『憲法運動』165号1987年10月
  歴史の歯車を逆転させるな  『赤旗』 1988年11月16日
  夜のサヴァンナ  『赤旗』 1989年2月17日
  自由 平等 友愛  『東京革新懇ニュース』1989年1月

6.わたしは党をうた
  光をはこぶ党に  『赤旗』 1986年1月1日
  わたしは歌う この党を  『グラフ・こんにちは』1986年6月
  それは党のおかげだ  『赤旗』日曜版 1987年9月13日
  光をかかげて六十年  『グラフ・こんにちは』1988年1月17日
  ま夏の太陽    『赤旗』 1990年7月1日
  小林多喜二    『赤旗』1988年2月21日 
  おれたちの希望には  『赤旗』日曜版 1991年1月6日

7.風と雨のなかで
  千曲川 その水に  『狼煙』2号 1991年3月
  断片  1989年 未発表
  戦争前夜の街で  『NOVA』1988年8月
  早鐘が鳴ったら  板橋詩人会『橋』21号 1988年3月
  夢みる  『赤旗』1989年7月18日
  夕映え  1984年3月 未発表
  佐木秋夫先生への別れのことば  『文化評論』1988年8月
  八〇歳になった  1990年11月17日  未発表

 
冬の歌
<青磁社 1991.5.20>

 
1

2


(『民主文学」1989年8月号)
 色紙さいごまで

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 山本隆子さんがエッセイ「春になったら」(『詩人会議』特集──大島博光とわたし)の中で、「一九九〇年頃の夏、吉祥寺の喫茶店で大島先生からできたての詩「冬の歌」をみせてもらったが、翌年送られてきた詩集『冬の歌』には「冬の歌」という題の作品は見当たらない」と書いています。詩「冬の歌」はどういうものなのか、気になりましたが、「不幸は忍び足で」の最後のフレーズ
  最後まで希望を太陽を抱いてゆくことだ
  それが冬にうち勝つ きみの冬の歌だ
を思い出して、この詩のことかも知れないと思いました。
 この詩の初出とある『民主文学」1989年8月号を国会図書館オンラインで調べたら、「冬の歌」の題で載っていました。
内容は同一です。題だけを「不幸は忍び足で」に変えて詩集に載せたことがわかりました。

 
冬の歌
『民主文学」1989年8月号