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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。



神野さん宮林さんがモーツァルト「ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲」を演奏

二人
3輪


 上田進が1947年2月に39才の若さで亡くなったとき、『新日本文学』に谷耕平(元早稲田大学文学部教授)が追悼の文章「上田進の歩いた道」を書いています。そこでは、彼が早稲田大学露文の卒業論文でマヤコフスキーを書いて大きな一歩をしるしたこと、多数の翻訳を成し遂げて反動の時代にロシア文学紹介の第一人者であったことを讃えています。
◇    ◇    ◇    ◇    ◇    
 上田進の歩いた道
                 谷耕平

 上田進が早稲田の露文科を出たのは、昭和六年(一九三一年)だったが、その時の卒業論文は、「マヤコフスキー」だった。それまでは、その前の年に横田瑞穂が「エセーニン」を書いたのを除くと、ほとんど全部といってよいほど、十九世紀作家、批評家に関するものばかりだった。当時は(今でもなおそうだが)この国に入っているソヴィエト文学研究の資料がきわめて少く、誰もが新しいものへの食欲を感じたり、未開拓の分野へ踏み入ることに野心をもちながらも、卒業論文として取り組むことにはしりごみしているようなわけだったので、彼らより一、二年後の学生たちは、横田や上田の飛やく的な気組みに、すっかり圧とうされたかたちだった。十月革命といっしよに出て来た詩人マヤコフスキーの研究は、当時ソヴィエト・ロシヤにも少なかった頃だから、上田の「マヤコフスキー」が研究報告としてどの程度のものだったか、想像できるような気もするが、とにかくこの気組みは、その後の彼の口シヤ文学研究、紹介の方向を示したもののようにおもわれる。
 彼の仕事は、比較的短い生涯になされた多くのほん訳のどの一つを取って見ても、すべて進步的な線に沿ったものばかりだし、多くは、誰もまだ手をつけていなかったものばかりだった。今、手もとに遺作の全部は集っていないので、数え落しがあるかと思うが、その手に成ったほん訳をならべて見ると、十九世紀文学では=プーシキン──「プーシキン詩抄」(抒情詩)「コーカサスの俘虜」「盗賊の兄弟」「ポルタワ」(叙事詩)、ゴーゴリー──「死せる魂」(上巻)、ドストイェノスキー──「死の家の記録」、コロレンコ──「森はざわめく」、ゴーリキー──「イゼルギリ婆さん」「幼年時代」。ソヴィエト文学ではショーロホフ「開かれた処女地」「静かなドン」(第一部)、イリフ、ペトロフ──「黄金の仔牛」。芸術理論では=マルクス・エンゲルスの「芸術理論」に関するもの二冊(岩波、改造文庫)。なお阪井徳三氏によると、「社合主義的リアリズム」を一ばん先きに紹介したのは上田進であったという。
 ·上田が仕事をはじめた頃から、この国の反動の波が次第に高まって、支那事変以後はますますはげしく、ソヴィエト文学はもち論、十九世紀文学でも、ペリンスキーのいわゆる「解放者文學」のほん訳を出すことなど、容易にできなくなってしまった。こういう時代に、一方ジャーナリズムの要求にこたえながら、あくまで進歩的方向からはなれなかった、ほん訳者、紹介者としての上田の苦労はなみたいていのものでなかった。一歩ふみはずせば、牢ごくに投げこまれるか、さもなければ反動に落ちこむという、真にすれすれの稜線上を渡りながら、蔵原惟人以後、この国へ導き入れられたロシヤ文学紹介の科学的態度を上田はよくもちこたえた。そしてこの任務は、ほとんど彼一人が遂行したといってもよい。

 先きにあげたように、一人でいろいろ作家のほん訳をしなければならなかった上田が、一作家、一作品に深く沈潜することができなかったのは、やむを得ないことだった。単に語学的でない誤りが時たまそのほん訳の中に見出されるのは彼のために残念であると同時に、今の「ソ・研」のような組織をもたなかった、いやもてなかったわれわれ研究者全部の責任であり、不幸であった。
 上田のほん訳は、訳語の一つ一つについても、それまでにない新鮮さをもっていた。それは、文学の精神に徹することがでて彼自ら作家であり詩人だった才能にもよるが、大衆にわかりやすいことばで書くことを、常にこころがけていた努力の結果であった。彼が「静かなドン」の翻訳中ばで死んだことは残念でならない。
(『新日本文学』1947年9号)

裸婦像




懐かしい映画「街の灯」のテーマ音楽を演奏

1
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神野優子さん宮林陽子さんがドボルザーク「母の教えたまいし歌」をヴァイオリンとヴィオラのデュオで演奏

人
花


 それと同時にマヤコフスキイは、又一方では、新しい時代の社會の姿を全体的に描き出さうと志している。そのような作品として、まず代表的なものは「一五○、〇〇〇、〇〇〇」である。これは資本主義と社會主義との闘争を全面的に描き出そうとした、大規模な叙事詩である。それにつづいては、一九二四年に出た叙事詩「レーニン」があげられる。これはレーニンの單なる個人的な肖像画ではなく、彼を人類の歴史の流れを推し進める一つの環として描きだしているのだ。そういう點で、これはレーニンを歌った數多くの詩の中で最も意義のある作品とされている。革命十周年を記念してかかれた「ハラショー」という詩も、このカテゴリーに属するすぐれた作品である。これは十月革命以後十年間の闘争を歌いあげ、ソヴェートの新しい生活を稱へた叙事詩である。

 マヤコフスキイは、小ブルジョア的な、ボヘミャン的な氣分をもったインテリゲンチャとして出發した。彼は十月革命の洗礼をうけて、ソヴェート政権の側に移行した。彼はその世界観、人生觀を改造し、小ブルジョア的な意識と氣分とを清算しなければならなかった。彼の苦しい内面の闘争が進行する。社會主義建設の時代に入るとともに、彼は長い間の道づれであった「レフ」の一派と訣別してラップ(ロシヤ・プロレタリア作家同盟)に入った。これは彼がはっきりとプロレタリアートの立場にたった詩人としての進出を意味した。だが、過去の残滓の力はつよかった。彼の世界観における矛盾はついに完全には克服されなかつた。
 一九三〇年の四月、彼はピストルでおのれの額に弾丸をうちこんだ。直接の原因は戀愛の三角關係の破綻だといわれている。だが、それも結局は、世界觀の矛盾がもたらした自己分裂の結果に他ならない。
 自殺は敗北である。けれどそれにもかかわらず、マヤコフスキイは事実において、立派にプロレタリアートの世界観を把握しており、偉大なプロレタリア詩人であったということは、認めなければならない。
 マヤコフスキイの最も大きな意義は、彼がまったく新しい型の詩人であったという點にある。從來の詩人という概念をぶちこわし、まったく新しい詩人の型を創造したのだ。
 「マヤコフスキーは、われわれのソヴェートの時代の最もすぐれた才能豊かな詩人であったし、いまでもなおそうである。彼をおろそかにし、また彼の作品に冷淡であることは、罪悪である。」──これは一昨年スターリンが述べた言葉であるが、これが今日のソヴェートにおけるマヤコフスキイ評價の規準となっている。マヤコフスキイこそは、今日のソヴェート詩人たちがまず第一に手本としなければならない詩人とされているのだ。(つづく)

(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

マヤコフスキー
マヤコフスキー「仕事で組織しなさい」(「ロスタの窓」のポスター 1921年)


  Ⅲ−3 マヤコフスキイ(1)

 ソヴェート詩の史上におけるマヤコフスキイの存在は大きい。十月革命の当時から社會主義建設にいたるまでの各時代にわたって、彼はつねにソヴェートの第一線にたって活躍していた。だから、どの時代でも、まづ第一にマヤコフスキイの詩について述べるべきが當然なのだが、そうしては叙述が散漫になって、却ってマヤコフスキイの全貌をつかむことがむづかしくなるような惧れがあるので僕はちょうどこの辺が適当だと思うから、便宜上ここで一括して述べておくことにする。

 マヤコフスキイの活動は、未來派の頭將として、すでに革命前からはじめられていた。未來派は常時の小ブルジョア的なインテリゲンチャのアナーキスティックな、反抗的な気分を表現したものであった。その時代にはマヤコフスキイも、過去のあらゆる芸術を否定し新しい芸術を追求するあまり、形式的新奇に走り、かなり難解な詩ばかり書いたものである。
 だが多くの未來派の詩人たちと違い、マヤコフスキイにあって、ブルジョア芸術にたいする反抗が、やがてブルジョア社会にたいする反抗にまで發展した。世界大戦時代にかいた叙事詩「戦争と世界」には、すでに鋭い社會批判がみられる。
 彼は十月革命を何の文句もなしにうけいれ、ただちに全身をもってそれに奉仕した。その時代の彼の活動を語る一つのエピソードとして、「ロスタの窓」がある。彼はロスタ通信社ではたらいていた。新しい宣伝の方法が考案された。空屋になった大商店のショーウインドに、毎日大きなポスターをはりだして、戦線の状況やその他の電報通信を報告するのである。これを名づけて「ロスタの窓」──マヤコフスキイは、この「ロスタの窓」のポスターの絵を書いたり、文句を綴ったりしたのだ。彼は三千のボスターと六干の標語を作ったといわれている。そして、その主題の範囲はおそろしく広い──コミンテルンのアジ、ウランゲルに対する闘争、国債の宣傳、チブスと虱とにたいする闘い、古新聞の保存、電力の節約……
 これはマヤコフスキイの芸術の一つの基本的な特徴を示している。それは、政治的活動と芸術とを直接に結びつけることだ。生産と芸術とを直接に結びつけることだ。だから彼にとっては、自分の作品は一個の武器であった。そして詩人たちに向っては「芸術軍に與へる命令」をかくのであった。

 マヤコフスキイの芸術のもう一つの特徴は鋭い風刺である。彼は新しい時代の流れを邪魔するものに、片っぱしから痛烈な風刺のメスをふるったのであった。その風刺の対象となったのは、まず第一に小市民性である。小市民のカナリヤ的な生活だ。俗物性だ。「小市民性はウランゲルよりもおそろしい」といった彼の言葉は有名である。それからブルジョア政治家、官僚、ネップマン、西欧やアメリカの文明など、すべて彼の風刺の的となったのだ。レーニンに激賞された「會議に耽る人々」という詩では、常時のソヴェートの官僚主義を辛辣に皮肉っている。
(つづく)
(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

マヤコフスキー
マヤコフスキー「同志たちよ、労働組合活動週間に参加せよ!」(「ロスタの窓」のポスター 1921年)



懐かしいシューマンのトロイメライ

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ヴァイオリンとヴィオラのデュオで「夢のあとに」
左がヴァイオリンの神野さん、右がヴィオラの宮林さん

二人
白バラ



神野優子・宮林陽子ヴァイオリン・ヴィオラコンサート ~七夕に歌うヴァイオリンとヴィオラ~にて「星に願いを」「たなばたさま」、心に沁みる美しい演奏でした。

笹
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  Ⅲ−2「若き親衛隊」ジャーロフとウートキン

 ベズイミョンスキイとならんで「コムソモールの三羽烏」といわれていたのが、ジャーロフとウートキンである。ジャーロフの詩はペズイミョンスキイの詩よりも、またいっそう明るい。そこには光と歓喜が横溢している。太陽の光と工場の煙、それが彼の詩を織りだしている縦と横の糸である。ジャーロフの詩ほどたくさんに太陽のでてくる詩はない。そして工場の煙も、彼にあつては、太陽の光をさまたげるものではない。この二つの敵對的な要素は、平和に、自然に、綜合されて美しいハーモニイをかなでている。
 彼もベズイミョンスキイと同じように、日常の生活の中に、新しい世界の動きをみることを知っている。けれど彼の詩があまりに明るすぎるので、多くの人々は、そのためにソヴェートの現實の暗い否定的な面がおおいかくされ、闘争的な気分がにぶらされてしまいはしないかと心配したほどであった。だが、このジャーロフの樂観主義は、けっして現実からまいあがった、荒唐無稽な陽気さではなく、古い世界の桎梏から解放された新しい世界の新しい人間の現實の悦びであつたのである。彼はこの新しい歓喜の中に何の遠慮もなく、まっしぐらにとびこんでいったのである。

 これに比べると、ウートキンの詩には哀愁の色が濃い。ウートキンの詩の中で、深い物思いにしづんだり、自信なげに動揺したりしている。それだけに彼の詩はいつそう調子が高く、美しく、哀切な音色をおびている。ある批評家がウートキンを「プロレタリヤ的口マンスの詩人」を名づけたのは、適評であると思う。まったく彼の詩はほとんどすべて、音楽のロマンスのテキストとして役立つほどに、いい調子をもつているといえる。彼はロマンスのあらゆる特性を詩にとりいれているのだ──ゆたかな情緒の抒情的な流露、音楽的な美しい階調、哀切きわまりない悲歌の調子、歓喜にもえる愛のささやき……
 このウートキンの詩は、若い世代の人間の意識の多様性を表現したものとして意義があつたのである。

 經濟的復興の時代に活躍した若い詩人としては、いま述べた三人のほかに、スヴェトロフ、ゴロドヌイ、ヤースヌイなどがあげられる。スヴェトロフの詩には憂愁の影が濃い。この時代の青年たちが体験した悲劇的な面を、彼は主として歌つているのである。ゴロドヌイは、愛について多くの詩をかいている。そしてその愛には、過去の暗い思い出が、いつも静な影をなげている。しかし、その暗い影のうしろから、健康なひびきが脈うつているのが感じられる。ヤースヌイの詩も思い出にみたされているが、彼の場合にはそれがつよい復讐心でいろどられている。だが同時に彼の詩には、深い愛情の調子がこもっているのを見のがすことはできない。

 その他に、すぐれた叙事詩人のマラホフ、工場と農村の結びつきを主として歌つているドローニン、それからユーリン、コヴィニョフ、クズネツォフなどの名をあげておかなければならない。とにかく、「若き親衛隊」の詩人たちの詩は、実に多種多様な主題をとりあげ、その中には憂愁や回顧の色の濃いものもあるが、一般的にいっては、明るい歓喜とおさえることのできない激しい生活力とにみちあふれているのである。つまり、この時代の青年の氣分を一樣に反映しているのであるが、しかも同時に個々の詩人たちの個性もはっきりとあらわれてきているのだ。その点に詩としての大きな進歩があつたといえる。
(つづく)

(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

花



   Ⅲ−1「若き親衛隊」ロマンティズムからリアリズムへ

 ソヴェートは市民戦争の時代から新經済政策の時代にうつっていった。これは華やかな武力闘事の場面から、地味な經濟闘争への移行であった。うちつづく混乱によって破壊された生産部面の根本的な建てなおしの時代に入っていったのである。
 革命の蜜月のロマンティックな氣分の歌い手であつた「鍛冶屋」派の詩人たちは、この新しい段階を理解することができなかった。日常の闘争が主要な課題となったところの新しい情勢に、彼らはついてゆくことができなかったのだ。そして鍛冶屋派の詩人たちのあいだには、絶望的な、悲観的な、懐疑的な気分がうまれてきた。もはや彼らはプロレタリアの闘争の詩的表現者たるの意義を失ってきたのであった。
 この新しい社會情勢に応じて、ソヴェート文學一般の主要傾向は、ロマンティックな、ヒロイスティックな、プロレタリアの闘争の讃美から、市民戦争時代の經驗の藝術的統括へ、現實の諸事件のリアリスティックな表現へ、生きた人間の描写へとうつっていった。ロマンティズムからリアリズムへの發展である。そして、いままでとは反對に、散文藝術がずっと優勢になってきた。この時代の文學の基本的な主題となったのは市民戦争であつて、セラフィモウィチの「鐵の流れ」、リベヂンスキイの「一週間」、フルマノフの「チャパエフ」と「反乱」に、少しおくれてファディエフの「壊滅」等のすぐれた小説が輩出した。だがそれらについて書くのは僕の任務ではない。僕はもつぱら詩の方面の動きをみてゆくことになっているのだ。
 「一九二二年の十二月に、プロレタリヤ作家の群が、雑誌「若き親衛隊」の編輯室にあつまって、新しい団体「十月」を結成した。これは鍛冶屋派の終焉を意味すると同時に、新しい詩の出発を意味した。このグループは鍛冶屋派のロマシティズムや抽象的なヒロイズム、宇宙主義に反対して、日常の現實の生活と生きている人間、個性をもった人間の表現とを主張した。新しい段階に入ったソヴェートの社會は、この派の若い詩人たちによつて、はじめて正しい詩的表現をあたえられた。この派の詩は、新しい世界の建設のための闘争の中から生れてきた新しい人間の新しい世界観によって貫かれていた。

 「若き親衛隊」の代表的な詩人は、ベズイミョンスキイである。「鍛冶屋派の詩人たちに」といふ彼の詩は、彼および「若き親衛隊」の立場をはっきり示したものであった。──「空をすてろ! 抽象的な事物をなげすてろ! 
そして地球と、生きた人間とを與へよ!」といふ詩句は、大きな意義をもつている。
 この時代のベズイミョンスキイの詩は、いわば禁欲主義的な、殺伐な戦時狀態がすぎさつて、ふたたび人間の感情のあらゆる音階がにぎやかに歌いだし、怒りも愛も憎しみも、労働も生活の喜びも、すべてがいつせいに美しい花を咲かせたやうなものである。彼の詩には、征服者の喜ばしい感情がみなぎり、あたたかい愛情と明るさと歓喜と笑ひとがみちあふれてみる。
 この勝利感は、彼に、滅亡してゆく古い世界にたいしてさえも、寛仁な気持をいだかせる。だから彼は、滅んでゆく農村にむかつても、勝利者のめぐみぶかい寛容さをもつてのぞんでいる。あの恐ろしい革命の嵐の中で生みだされた多くの悲劇が、彼の手にかかるとたちまちやさしい牧歌にかわってしまう。
 彼はこの地上に生れてきた、香ばしい生活を歌い、新しい人間性を歌う。古い封建的社會とのあらゆる桎梏をなげすてて、新しい世界のなかで個性の自由な發展を約束された新しい人間――それがこの時代のベズイミョンスキイの詩の主人公であった。ベズイミョンスキイのことは、あとでもう一度書く。
(つづく)

(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

子供


    Ⅱ−2 デミヤン・ペドヌイ

 一九一七年以後は、率直な言葉で、自由にかたり、歌ふことができるやうになったので、いよいよ彼のめざましい活躍が展開された。彼は古い寓話詩やロマンスや民謡や俗謡などの手法をとり人れると同時に、一方では公式の單純さやポスターの力強さやスローガンの明瞭さをとりいれ、また公文書や新聞記事の抜き書を挿入したり、民衆の口語をそのまま使用したりして、時時刻刻におこつてくるいろんな社會的、政治的事件を歌ひあげた。彼は自分の詩を「煽動詩」と名づけ、ことさらに從來の「文學性」に反對した。彼は自分の詩を、大砲や機關銃と同様な武器であると考へた。彼は自分の心に靈感がうまれたときに詩をかくのではなく、なんらかの政治的な、あるひは文化的な課題があたえられたときに、ペンをとってその課題をはたすために、詩をかくのであった。だから彼はあらゆる題目について書く。──穀物徴発について、賄路について、帝政時代の大臣たちの捜索について、赤軍の功績について、文盲撲滅について、異民族の女性の解放について、トルクシブについて、労働規律について、飲酒反對について、反宗教について……
 さうして彼の詩は、ひろく大衆のあひだにはいりこんでいった。その中のいくつかのものは、ソヴェートの全民衆に愛唱された。
 おそらく市民戦争時代が、デミヤン・ペドヌイの一番はなばなしい時代であったと思はれる。けれどその後新經濟政策の時代をへて五ヶ年計畫の時代にいたるまでも、けっして彼の創作的活動は衰へをみせはしなかった。社會主義建設の諸課題や、その他いろんな時期のいろんな政治的問題にささげられた彼の時は、たヘず「プラウダ」や「イズヴェスチャ」の紙上にみられるのであつた。

 一九三四年の第一回全ソ作家大會の席上、ブハーリンがソヴェート詩に関する報告の中で、ペドヌイを過去の詩人としてあつかっているやうな口吻をもらした。それにたいして、ペドヌイは激しく抗議した。いまそのことをひょいと思ひだしたので書きつけておく。むろんペドメイの詩は今日でも、けっしてその直接的な積極的な意義を失ってはいない。けれど、デミヤン・ペドヌイという存在は、もう現役を去った退役の將軍といったやうな感じが、なんとなくするといふことも否めない。
 とにかくペドヌイは、ロシヤのクラシックの詩の傳統と古い民謡の傳統とをとりいれ、それに新しい内容をもりこんで、詩に全く新しい音色を賦与したといへる。彼は民謡の手法やメロデイを豊富に利用することによつて、重大な高級な政治的内容を、民衆に親しみやすい形式に、民衆が日常話している言葉にむすびつけ、そうして広汎な大衆のなかにゆきわたらせたのだ。ここに、デミヤン・ペドヌイの詩人としての功績がある。デミヤン・ペドヌイの詩は、たしかにソヴェート文学における一つの独特なジャンルであつた。
(つづく)

(『歌ごえ』2号 昭和23年4月)

*「上田進 作家解説」が青森県近代文学館のホームページにありました。

 本名は尾崎義一。東京市生まれ。郷里が長野県で、県立上田中学に入学したことから上田をペンネームにした。
 大正15年、早稲田大学露文科に進み、在学中から左翼文学者・プロレタリア作家同盟の一員として活躍した。黒石市出身の秋田雨雀の影響を受け、その長女千代と結婚したことの縁から、昭和19年に弘前に疎開し、敗戦後は民主化の追風を受けて日本共産党に入党、津川武一らと日本共産党県支部・新日本文学会青森県支部再建のために尽力した。戦後の物心両面にわたる混乱の中で、社会全体の民主化と新しい時代にふさわしい文学の創造のために献身した。
  しかし、不慣れな土地での心労から病を得て、昭和22年2月24日、わずか39年4か月の短い生涯を閉じた。
 22年、「月刊東奥」の3、4月号合併号に「人間上田進について」と題して追悼文集が編まれ、秋田雨雀・沙和宋一・津川武一らが稿を寄せた。
死後には未定稿「佐久間象山」(小説)が残された。
(「青森県近代文学館」青森県ゆかりの作家)
   ◇       ◇       ◇
上田進の遺稿にあたると思われる「ソヴェートの詩」が何故『歌ごえ』に掲載されたのかは不明ですが、大島博光も新日本文学会中央委員として長野支部結成のために働いたので、新日本文学会が上田進と大島博光との接点だったのかもしれません。

あじさい



        Ⅱ

 一九一八年にアレクセイ・ガスチョフの詩集「労働者の突撃の詩」がでた。これは革命後にでた最初のプロレタリヤ詩集であった。その年の七月に、文化団体「プロレットクリト」の機関誌「プロレタリヤ文化」の創刊號がでた。それからしばらく間をおいて、一九一〇年の五月に、そのブロレットクリトの流れを汲んだプロレタリヤ詩人のグループ「鍛冶屋」が組織され、雑誌「鍛冶屋」が發判された。かうして、プロレタリヤ詩が、社會の表面に姿をあらはしてきたのである。
 十月の嵐はまだ荒れつづけていた。内には内乱が続き、外からは外國の干渉がつづいていた。物情騒然とした、戦時狀態の継続であった。一般には戦時共産主義の時代、あるひは市民戦争時代といはれている時期である。
 鍛冶屋派は、この時代の詩を代表したものであった。否、詩を代表したといふよりも、文學一般を代表したものであったといった方がいい。といふのは、この時代はさういった慌ただしい時期であった関係上、散文芸術はほとんど發展せず、詩がソヴェート文学全体の圧倒的な部分を占めていたからである。
 鍛冶屋派の詩全体を通しての特徴は、一言をもっていうならば、ロマンティックであったといへる。それは、革命の初期のあのあわただしい、けれど華々しい時代、いはゆる「革命の蜜月」の、ロマンテイックな気分をよく表現しているのである。したがってその詩には、火のやうに激しい信念が横溢しているが、しかし同時に抽象的なものが多い。高いもの、遙かなもの、華やかなものに眼をうばはれていて、足もとの日々の生活はほとんど忘れられている。けれどやはりその詩には、多くの真実性があり、多くの美と崇高さとがあったのである。以下、この派の代表的な詩人數名をあげて、それらの人をとおして、この派の詩のいろんな特質を見てゆかう。

 サモブイトニクは、工場を歌っている。彼によれば、工場は人類の未来の幸福と自由とを保証するものである。工場とむすびつくことは、とりもなほさず闘争に参加することなのである。工場は、ブロレタリヤートの力の源泉であり、新しい世界の揺籃である。彼は工場をそのやうに見、賛美した。
 ゲラシモフも工場を歌っている。だが彼の工場はもつとロマンテイックな、そして回想的な色彩をおびている。モータァの響きも、サイレンの唸りも、彼にとっては楽しく、なつかしい山の松風の音にきこへるのだ。
 キリーロフの詩には労働の讃美がある。彼は現在の闘争や苦悩についてはあまり語らない。彼はいつも労働の喜ばしさを歌ひ、未來の世界の幸福を歌っている。
 このやうに、工場と労働の主題は、鍛冶屋派の詩人たちが最も好んで歌ったところのものである。しかし、その工場や労働は現実のものではなく、彼らの頭の中で美化された抽象的なものであった。
 ガスチョフの詩をみると、又もっと別な主題がうかがはれる。それは宇宙とでもいふべきものだ。彼は労働と科学の無限の力を信ずる。その結果、彼はもはや地上の世界では満足できなくなる。そこで彼の想念は地球の限界を突破し、とほく遊星の世界にまでとび、やがて全宇宙を征服しようとする。
 カージンの詩にも、この宇宙主薬的な気分がみなぎつてゐる。彼は、自分を「宇宙の永遠性」に結合させ、「はるかな世界」に透徹するエネルギーの源泉とならせようと欲している。
 この宇宙主義はもちろん象徴派の神秘的な逃避的な宇宙主義とは全く別なものである。鍛冶屋派の詩人たちにとっては字宙の無限に融合することは、プロレタリヤの力を全世界にひろげることであり、人間が自然を完全に征服することを意味しているのであった。

 銀冶屋派の詩のもう一つの特徴をなしていたのは、集団主義の思想である。これまでのブルジョア的な詩人がいつも一人稱の単数「私」で歌つてゐたのにたいして、彼らは多くの場合一人稱複數「われら」をもって歌つてゐるのだ。そして集団の威力を謳歌しているのである。キリーロフも歌ったし、ゲラシモフも歌った。しかも彼らは、空間的な集團の力、つまり同じ時代の同じ地上の集団の力ばかりでなく、時間的な集団の力、即ち歴史の線の上につながっている集団の威力をも、誇らかに歌つてゐるのである。
 
 前にも述べたように、この時代には詩人が圧倒的な多数を占め、散文作家は非常に影がうすかった。これは時代の性格である。この時代の生活・氣分は、まだ大規偵な散文芸術を生みだすまでに成熟し、おちついてはいなかつた。その気分は、調子の高い、ロマンティックな抒情的表現に適していたのだ。そしてその故にこそ、鍛冶屋派のあれだけの大きな華々しい活動がみられたのだ。

 だが、この時代に、鍛冶屋派とならんで、ソヴェート詩の中にもう一つ別の潮流を形づくっていた、特異な存在があった。──それはデミヤン・ペドメイである。彼はこのめまぐるしい時代の中にあって、単純な形式とわかりやすい言葉でもつて、つぎつぎにおこつてくる眠のまえのさまざまの事実を歌ひ、その意義を大衆に懇切に説いてやり、大衆を闘争に駆りたてたのであった。
 デミヤン・ペドメイは一九〇九年から文学的活動をはじめた。最初は主として人民派の雑誌「ロシヤの富」に詩を発表した。デミヤン・ペドメイというのはペンネームで、一九〇九年にかいた「危険な百姓デミヤン・ペドメイについて」からとったものである。一九一二年に、彼はボリシェヴィキーに近づいてゆき、その派の刊行物に政治的色彩のつよい作品をのせるようになった。それから一九一七年の革命にいたるまでの数年間は、彼は専ら寓話詩や諷刺詩をかいていた。これはむろん一種のカムフラージで、當時の峻厳な検閲制度のもとにあつては、そのやうな形でしか彼の思想や気分は表現できなかったのだ。だが、彼がクルイロフやシチェドリンの流れをひいた、古くから口シヤにあつたこのやうな形式を利用したことは、かへつて彼の詩を一般の大衆に親しみやすくさせたと見ることもできるのではないかと思ふ。
(つづく)

『歌ごえ』1号 昭和23年3月)

花

ソヴェートの詩  上田進

    

 ソヴェート詩の歴史はブロークの「十二」からはじまる、と僕は考へてゐる。十月の嵐が吹きさった直後の混乱した社會で、新しい芽はまだ姿をみせず、古い詩人たちは或は沈黙し、あるひは国外に逃亡して、新しい権力にたいして呪咀をたたきつけていたときに、ブロークはいちはやく革命をうけいれ、すばらしい叙事詩「十二」をかいたのであった。この詩は、ブルジョア社會にたいする峻烈な否定の色でつらぬかれている。資本家や僧侶や貴婦人や反ボリシェヴィキー的な作家なぞに鋭い嘲笑をあびせかけ、古い世界を「尻尾をまいた、疥癬かきの犬」のすがたで示している。そして、この古い世界に對立するものとして、彼は十二人の赤衛兵をだしている。
 かうして彼は古い世界にむかつて、はげしい憎悪をたたきつけた。そして狐疑逡巡しているインテリゲンチヤの先頭にたって、まっさきに新しい世界に人りこんでゆき、新しい権力に奉仕しようとしたのだ。そこに、この叙事詩の最も大きな意義がある。

 大体アレクサンドル・ブロークの詩は、つねに現実否定の概念につらぬかれているといへる。だが、その否定の性質が、初期と後期と・・・・所の否定は、象徴主義に特有の神秘的・・・・・現実の世界というのを認めないで、・・・・・しまっているのだ。これはいはば資・・・・孤判であった。だが、一九○五年の動・・・・んだんに現實の世界に向けられてき・・・・・族的批判が、民衆的な批判にかはってきた。プルジョア的退廃にたいする極度の嫌悪が、彼の心に固く根をはった。十月革命をうけいれる土台はできていたのである。
 しかしブロークは、十月革命の社会的、組織的性質を充分に理解していたとはいえない。彼にとっては、それは無秩序な自然現象であり、大吹雪であり彼が嫌悪していた古い世界を掃蕩する大旋風であるやうに思はれただけであった。ここにブロークの思想的限界があつたわけだ。結局ブロークは革命をロマンティックに理解しただけで、リアリスティックに理解することができなかったといはなければならない。革命と彼とのあひだの深いギャツブはつひに埋めることが出來ず、その結果、彼はまもなく沈黙してしまったのであった。けれど、とにかく彼は少くとも古い世界を否定したといふことだけで、すでに新しい世界の肯定の第一歩をふみだしていたのだともいへる。彼が今日、他の象徴派の詩人たちからぬきんでて高く評価されているのも、まったくその點においてなのである。・

 ブロークとほとんど同じやうな態度で革命をうけいれた詩人にアンドレイ・ペールイがある。その叙事詩「キリストは甦りたまへり」において、彼も矢張り十月革命を、嵐のやうな氣狂ひじみた一つの現現象としてうけいれているのである。だがペールイは、その後十數年間も動揺を続けたのち、社会主義建設の時代に入つて、やうやく確固たる思想的立場をかため、はっきりとソヴェート政府の側の詩人となるやうになった。もつとも彼は、それから間もなくこの世を去ってしまったけれど。革命前から活躍していた詩人のうちで、いちはやく新しい世界にとびこんでいた人がもう一人ある。それは、ブリューソフである。彼は前の二人にくらべると、ずっとはっきりした政治的意識をもっており、やがて党にも加盟し、文化的、教育的方面の活躍にしたがひ、また文学上でも大きな功績をのこした。

 農村に足場をもつていた詩人たちは、ブロークやベールイとはまた異った態度で十月革命をうけいれた。一般的にいうと、それらの詩人たちは、十月革命の社會主義的な使命を理解することができなかつたといへる。彼らは革命が封建的地主の権力をくつがえして、農村にブルジョア的デモクラシイの發展を保證してくれたと思ひこみ、それで革命を謳歌したのであった。
 そのやうなイデオロギーをもつとはっきりと表現しているのがクリュエフである。彼は農村の生活に幸福をもたらすものとして、十月革命を一応は歡迎している。けれど彼は、都會に對し、機械文明に對し、ブロレタリヤにたいしては、あくまでも敵對的な感情をすてることができない。彼は宗教的信仰にみちた古い口シヤの牧歌的な村落生活の勝利をもたらすやうな革命を期待したのである。だからクリュエフの手にかかると、レーニンの姿も古めかしい教會風な神秘的な相貌をおびてくるのだ。要するにクリュエフの詩は、十月革命の本質を古い農民的な立場から歪曲したものと断言することができる。
 クリュエフと大体おなじやうな立場をとつていた詩人に、クルイチコフとオレーシンとがある。
 これらの古い農民的イデオロギーを反映していた時人たちの群の中で、一人ずばぬけておおきな姿を示しているのが、セルゲイ・エセーニンである。彼は芸術的に最も豊かな天分をもっていたばかりでなく、新しい都會的、プロレタリア的文化と古い農村との相克を、最も鋭く、したがって最も悲劇的に体現しているのである。
 彼は、いはば騒々しい都會へ、古いロシヤの農村の民衆の信仰とは認と、村の寺院と牝牛の白ひと收人の歌とをもって入ってきたのだ。彼は農民のロシヤの自然と神話のなかからこそ、つきることのない量感をくみとり、美しい自の時を思ひあげたのであった。だが彼は、この牧歌的な農民のロシヤを愛すると同時に、農民一揆のロシヤを受してるた。彼は子供の頃から喧麻ずきな、おそろしい風基者であった。「反復する提民のロシヤ」の典をもってみたのだ。けれどその反題は組織的なものではなくて、まったく盲目的な、自然的なものであつた。エセーニンもやはり十月革命を一応はうけいれた。有名な時がある。

   空は鐘
   月は舌
   母は故郷
   おれはボリシェヴィク。
   全人類の幸福のために
   おれはお前の死を
   よろこび、歌う

 だが彼は革命を組機的に理解し、うけいれることはできなかったのだ。彼は古い農村と有機的にむすびついてしまっていた。だからプロレタリヤの都會的な面に反発してしまったのである。この都會的なものと農村的なものとの矛盾を、エセーニンはつひに克服することができなかった。これこそ彼に負はされた宿命的な悲劇であった。しかも彼は、自分の愛する農村の破滅すべき運命をはっきりと知ってみた。知っておりながら、それを棄てることができなかつた。「私は農村の最後の詩人」と歌った一行には、エセーニンの悲劇の深刻さが圧縮されている。そしてしかも彼は、自分とは相容れない都合的なものが、新しい世界が勝利を得ることを知っており、その世界においては自分は無用者であり、その世界の勝利は彼自身の死であることも知っていたのだ。この悲劇は、つひに彼エセーニンの自殺をもって終りをつげた。

 以上述べてきた時人たちは、結局十月革命を消極的にしかうけいれなかつた。それにたいし、革命を積極的にうけいれたものとしては未来派をあげることができる。
 未来派は、一九一二年にマヤコフスキイを中心として結成された、小ブルジョア的な反抗的な芸術家のグループである。過去のすべての芸術の否定が、その主要な眼目となつてゐた。十月革命はその反逆的な気分に合致した。彼らはすすんで新しい権力の傘下に馳せ参じた。
 この未来派の主張は、芸術は生産であるといふにあった。つまり芸術は、人生についての物語ではなく、人生そのものの建設なのであるといふのだ。したがって彼らは、生活の認識としての芸術を否定し、生活の建設としての芸術、行動としての芸術を主張した。そして大衆との直接的な結びつきの問題を提起した。──ここに未來派の肯定的な意義があった。
 しかし、その未來派の実際の活動をみると、彼らはその主張を現質の社会のなかにおいて実践せずに、書斎の中で実現しようとしたのであつた。その結果、彼らは現實から離反し、大衆からうきあがって、つひに単なる言葉の専門家になりおほせてしまったのである。
 はじめ未來派を主宰していたマヤコフスキイは、未來派が現實から離反してしまったとき、自分もそのグループと袂を別ち、やがてプロレタリヤ文學の陣営に入っていった。マヤコフスキイは、未來派のなかをさまつてゐるには、あまりに大きな存在でありすぎたのだ。マヤコフスキイのことについては、後でまた詳しく述べることにする。
(つづく)

(『歌ごえ』1号 昭和23年/1948年3月)

*上田 進(1907年10月24日 - 1947年2月24日)ロシア・ソビエト文学者。 早稲田大学露文科在学中に日本プロレタリア作家同盟に入る。本論考は没後の発表となるが、『歌ごえ』にその記載はない。

タチアオイ

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(「チリ人民連帯ニュース 第19号」1980年12月15日))

美女柳