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千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


(2)雑誌編集者として不滅の功績

 一八四三年から、ネクラーソフとベリンスキィの親密な関係が結ばれるようになった。ベリンスキィは、そのまわりにあつまる貴族の知識青年とはちがった、民衆的精神につらぬかれた素質をネクラーソフの中に見出して、熱心に年若い詩人を教育した。ベリンスキィのよい影きょうの下で、これまでの詩には――ヂゥコーフスキィにも、プーシキンにもレルモントフにも――ない、ネクラーソフ独自のひびきをもつ詩が書かれるようになった。一八四五年、民衆のことばで、民衆の深い悲しみをうたった「途上」が、ベリンスキィのまえで讀まれた時に、目に涙をたたえたベリンスキィはネクラーソフをしっかりと抱いて「きみは、詩人であることを、ほんとうの詩人であることを知っているか?」といった話は有名である。

 一八四三年から、ネクラーソフは、いくつかの文集の編集、出版をはじめたが、それがしだいに成功した。とりわけ、一八四六年に出した「ペテルブルグ文集」には、ドストエフスキィの處女作「貧しき人々」をのせて、非常な評判をとった。 一八四七年からは、友人とそう談して、第二次「ソブレメンニク(同時代人)」(プーシキンがはじめて、その死後ふるわなかった雑誌)の発行をはじめ、その編集と経営に精根をうちこんだ。ベリンスキィは、一党の作家、批評家をひきいてこの雑誌に拠り、ツルゲーネフ、ゴンチャロフ、オストロフスキィ、レフ・トルストイ、サルトゥィコフ・シチェードリン等々、後世ロシヤ文學の巨星といわれた人たちが、すべてこの雑誌に書いた。

 一八四八年、フランス二月革命の後には、とうとうとしてロシヤヘ流れこむ革新の波を抑え、農奴制を維持しようとするツァーリ專制の、あらゆる進步的思想に加えるだん圧が烈しくなった。気ちがいのような検閲のあらしと闘って、民主的精神を高くかかげる雜誌をまもることはとうていひととおりふたとおりの苦ろうでは出来なかった。少年から青年への時代にどん底の生活の中で自分をきたえ上げ、高い詩人的精神とともに実際家としての手腕をもかねもつことが出来たネクラーソフにして、はじめてやりとげられることであった。
 一八五〇年代になると、没落地主・下級官吏・僧侶の子弟等、ロシヤ社会史の上で雑階級(ラズノチンツィ)とよばれる知識青年層が、それまで支配的であった上流貴族知識層に代って思想界に頭をもたげて来た。チェルヌイシェフスキィ、ドブロリューボフ、ミハイロフ等がその代表者である。これらの人たちは、貴族知識層が上からの人民解放をのぞむのに對して、人民の力による人民の解放の道をもとめる、革命的民主々義を主張した。
 一八五三年、ネクラーソフはチェルヌイシェフスキィと知り合って、その論文を雜誌にのせるようになったが、五五年にはドブロリューボフを見出し、五六ー五七年にかけての外遊(主,としてイタリヤ滞在)から歸えった後には當時検閲が少しくゆるくなったのを機会に「同時代人」を革命的民主々義陣営の合法的機関誌とする決心をした。しかしこのためには、たとえばツルゲーネフのような、昔からの僚友と別れなければならないというような、個人的にはたえ難いものがあったのである。しかし、かつてベリンスキィの忠告によって処女詩集を廃棄したと同じ勇氣をもって、ネクラーソフはこれをだん行した。そしてこのことは正しかった。一八六一年には、アレクサンドル二世の手によって、農奴制の廃止が実施された。しかしこれは、真の人民解放ではなかった。その後の歴史が證明するように、真のロシヤ人民の解放は下から盛りあがる人民の力にまつ、革命の道以外にはなかったのである。

 一時ゆるやかになった検閲の手は、またもやその暴力を強めて、一八六二年、「同時代人」は八ヶ月間の発行停止にあい、チェルヌイシェフスキィが検挙された。一八六六年、ついに決定的な発行禁止の命令が、「同世代人」の上に下され、ネクラーソフは、雜誌無しの二ヶ年をすごさなければならなかった。一八六八年、經營的に行きずまっていた雑誌「祖國の記錄(アチェチェストヴェンヌイエ・ザピースキ)」の発行權を買い、これに「同時代人」の内容を盛ることになった。今度は、サルトゥイコフ・シチェードリンが、主な働き手として編集局に入った。こうして、ネクラーソフの雑誌編集、經營の仕事は、死ぬ(一八七八年一月)までつずけられたのであった。
 彼が、よし一生の中に一行の詩をも書かなかったとしても、編集者として、たとえばドストエフスキィ、ゴンチャロフ、トルストイ、チェルヌイシェフスキィ、ドブロリューボフ等の才能を、その書き出し作家の中にいち早くも重大に評價し、歴史発展の正しい方向に雜誌を維持、経営して、ロシヤ解放運動史の上にはたした功績は、不滅のものとして永遠に記念されるであろう。
(つづく)

(ネクラーソフ作・谷耕平訳「デカブリストの妻」 昭和二十二年)

図書館



「デカブリストの妻」 あとがき     谷耕平

(1)ネクラーソフの青年時代──半餓えの生活

 昨一九四六年十二月は、ネクラーソフ(ニコライ・アレクセーヴィチ)が生れ(一八二一年十二月四日……新暦)てから、満百二十五年にあたった。ソ聯ではこの詩人を記念するために、大規模な全集の発行が計畫、實行され、全聯邦をあげて盛大なお祭が行われた。十九世紀ロシヤ詩人の中で、彼ほどに民衆に親しまれ、今もなお廣く讀まれている詩人は少い。

 彼の父、アレクセイは、中流の地主貴族であったが、ニコライが生れると間もなく、陸軍士官(少佐)の職をやめ、ヤロスラーヴリの市からほど近い、親ゆずりの領地グリシェネヴォという、ヴォルガ河のほとりの小村にひっこんで、當時のロシヤ小地主に通有の無氣力で淫蕩な生活の中で、しだいに家産をかたむけてしまった。母のエレーナは、當時ロシヤよりも文化の高かったポーランド、ワルソーの生れで、こころやさしく文學にも音樂にも通じて、教養の高い婦人であった。ネクラーソフの詩人としての素質は、この母からうけている、といわれる。
 ヤロスラーヴリのギムナジャヤ(帝制時代の八年制中學校)へ入るまでの十二年間を、父の家でくらしたネクラーソフの幼いこころには、農奴制のおそろしい笞の下で、「地主の家の最下等の犬のくらしさえ、うらやんでいる」ような(一八四六年作「ふるさと」)、あわれな農奴のすがたが焼きつけられ、この苛酷な制度に対する、はげしい反逆といかりが芽ばえたことである。
 一八三八年(七月)近衛聯隊に入れという父のいいつけで、ネクラーソフは、ペテルブルグへ出たが、彼は父のいいつけにしたがわずに、大學文科の聴講生になってしまった。没落地主の父からは、いいつけにそむいたむすこへの送金は一錢もなかった。これから長い間の半餓えの生活がはじまる。安い家庭教師、手紙や届書の代筆、雑誌編集の手つだい、……出来る仕事は何でもしたが、なおかつ滿足な食事をとることが出来ず、嚴塞のさ中に屋根裏の貸間からさえ追い出されて、浮浪者の集まる地下室の木賃宿を轉々としなければならないような狀態の中で、大都會の生活の波に押し流されたみじめな民衆の生活を、底の底まで彼は知りつくした。後年民衆の「涙と復讐の歌い手」として大をなした詩人の精神は、この時代にきたえられたのであった。
 こうしたむざんな生活の中でも、すでに少年の日にめざめた文學への情熱は失せなかった。
 一八四〇年の初め、或る親切な人の援けによって詩集「まぼろしとひびき」が出版された。これは当時ロシヤの讀書界に流布していた、ロマンチックな、誇張的な詩で、その年三月、民主的批評家の第一人者ベリンスキィは、こうした詩が「現實の乱展のために」有害である、というきびしい批評を、雑誌「祖國の記錄」に乱表した。ネクラーソフはこの意見にしたがって、まだ売れ残っている本屋の店頭から自作の詩集を全部買いあつめ、これを廃棄してしまった。
(つづく)

(ネクラーソフ作・谷耕平訳「デカブリストの妻」新星社 昭和二十二年)

表紙





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(大島博光ー松本隆晴 はがき詩集 昭和15年6月)

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見学
レストランはなやでのギターコンサートに来た女性が熱心に博光記念館を見学。

見学
来訪者ノートに書いてくださいました。
・5人(女性)で来ました。こんな素敵なところがあったちとは。チリの歴史もわかり とても良かったです。
知られていないのが惜しいです。ありがとうございました。 東御市 小林様
・ベンセレーモスの歌は知っていましたが、チリ人民戦線のひとコマがタペストリーでとても良くわかりました。いい伝え方だと思いました。 上田市 瀧澤様
・いろいろありがとうございました。薔薇の季節にまたおじゃまいたします。 上田市 稲葉様
・日本だけでなく世界にはまだまだ悲惨な歴史がたくさんあることをあらためて思います。チリの歴史をはじめて知りました。  千曲市 久保様
・アルピジェラのこと初めて知りました。明るい色づかいのキルト作品の中に描かれた悲さんな事実が強く伝わって来ました。ありがとうございました。 上田市 五味様
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輪になって「さようなら」を歌いました。

すばらしいときは やがて去りゆき
今は別れを 惜しみながら
ともに歌った喜びを
いつまでも いつまでも 忘れずに

楽しいときは やがて去りゆき
今は名残を 惜しみながら
ともに過ごした喜びを
いつまでも いつまでも 忘れずに

心の中に夢を抱いて 明日の光を願いながら
今日の思い出 忘れずに
いつかまた いつかまた 会える日まで
(倉品正二 作詞作曲)

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(ランボオ「イリュミナシオン」 自筆原稿)

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海


 (自筆ノート)

海


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都市


(ランボオ『イリュミナシオン』  自筆原稿)

家


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(ランボオ「イリュミナシオン」 自筆原稿)

街




献身


(ランボオ「イリュミナシオン」 自筆原稿)

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ボトム


(ランボオ「イリュミナシオン」自筆原稿)

空





ロビンソン物語



(新日本文学会編『新日本詩集』一九四八年版)

海





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(新日本文学会編『新日本詩集』一九四八年版)

*上田進は戦後、新日本文学会青森支部と日本共産党青森地区の再建のために活動し、最初の総選挙で献身的に闘いましたが、結核が悪化して闘病生活に入りました。そして1947年2月、39歳の若さで没しました。
秋田雨雀日記 上田進の死

公演






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(新日本文学会編『新日本詩集』一九四八年版)

ひげ



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(新日本文学会編『新日本詩集』一九四八年版)

農村