千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


朝日新聞


現在開催中のアルピジェラ展について9月15日の朝日新聞朝刊(東北信)で報じられました。


秋の遺言


 さて、この『とりとめのない放浪』は、この詩集にふくまれるユーモアによって知られている。しかもそれは死をも嘲笑して追い払おうというものものしいユーモアである。「秋の遺言」のなかに詩人は書く。

 マチルデ・ウルティアよ もしもきみが
 あの燃える落葉の匂いや
 あの野いちごの香りをその身につけ
 きみの二つの海の乳房のあいだに
 カウケネスのたそがれと
 チリ・クスノキの匂いを秘めているなら
 わたしはきみに何を残すことができよう

 もしもいつかわたしたちがいなくなり
 行ったり来たりしなくなるなら
 塵(ちり)あくたの七つのマントの下で
 死の乾いた足の下で
 恋人よ わたしたちはいっしょに
 驚くほどに溶けあうだろう
 わたしたちのちがった棘
 見上げることもできぬ眼
 見わけもつかぬわたしたちの足
 忘れがたいわたしたちのくちづけ
 ついにみんなひとつに結びつけられるだろう
 しかし 墓場のなかでひとつになったとて
 わたしたちに何んの役に立とう
 生がわたしたちを引き離さないように
 死なんか とっとと消えうせるがいい!

そして詩人はこの世への告別の言葉を書きのこす。

 いまや この原稿紙をあとに
 わたしは出てゆくが消えはしないだろう
 わたしは透明のなかに躍りこむだろう
 空を泳ぐ男のように
 そしてわたしは再び大きくなり それから
 いつかごく小さなものとなり
 風がわたしを連れさるだろう
 わたしは自分の名をもはや知らないだろう 
 わたしはいつ目覚めるかもはや知らないだろう

 そのときわたしは黙って歌っているだろう

(この項おわり)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)
 
夕暮れ

夕暮れ

 彼は『回想録』のなかに書いている。
 「多くのひとびとはわたしを筋金入りのスターリン主義者とみなした。ファシストや反動どもはわたしをスターリンの抒情的解説者として描きだした。それは特にわたしを苛立たせはしない。とてつもなく混乱した時代にはあらゆる結論が可能なのだ。……スターリン批判による暴露はわれわれの心を揺さぶったが、つづいて苦悩にみちた良心の問題がやってきた。あるものはだまされたと感じて、敵の議論を大っぴらに受け入れて、敵の戦列に移行した。またあるものはこう考えた──二十回大会によって容赦なく暴露された怖るべき事実は、世界に歴史的真実を示し、その責任をうけいれて生きつづける、ひとつの党の力をはっきりと示したと。
 もしもほんとうに、この責任はわれわれすべてにかかわるのであれば、スターリンの犯罪を告発するということは、われわれの学説の要素である自己批判と分析へわれわれを立ち返らせ、このような怖るべき事態が二度とくり返されぬように、そのために必要な武器をわれわれに与えたのである……」

 スターリン問題で深刻な苦悩を経験したネルーダもアラゴンも、こんにちのソヴェト連邦とソヴェト共産党の崩壊を見ることなく、この世を去ってしまった。彼らがこんにちの崩壊の状況を知ったら、どんな感概をおぼえたことだろう。
(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)


わたしがつぶやく


 ところで一九六五年の春、チリ大地震によってヴァルパライソにあったネルーダの家「ラ・セバスティアナ」が崩壊した。これを機会にアラゴンは「パプロ・ネルーダへの悲歌』を書き、そのなかでこの「怠け者」にたいして「わたしがつぶやく」という返歌を書いている。

 わが友パブロよ きみはあの心うずかせる言葉で語った
   おのずからなる奇妙な言葉で
 「あるのはただ苦しみの世界 血まみれの世界ばかり
   どんなに遠く行っても なんにも変わりはしない」と

 さんざしの刺(とげ)のように 苦い痛みの叫びをあげさせる
   あの苦しみを わたしもなめつくした
 すべての言葉 すべての叫び すべての足跡に過ちがあり
   そこに魂は ふとおのれの姿をみいだすのだ

 わが友パブロよ われらはこのあやふやな世紀の人間だ
   屋根組をしっかり支えるものとては 何もない
 空の高みに 白みかけた朝を見たと思ったら
   それは 遠くの自動車(くるま)のへッドライトなのだ

 われらは 太陽をふところにいれて歩く夜の人間だ
   太陽は われらの身の奥でわれらを焼くのだ
 もう闇のなかを おのれの膝も分からぬほど歩いたのに
   来たるべき世界にはまだ たどりつけぬ

 ほんとに こんな酷(むご)い風景に甘んじていられるのだろうか
   生とは せいぜい生き永らえることらしく
 われらは せいぜい黄金だと思って銅を歌った
   魔法を失った魔法使いででもあったのか

 アラゴンのこの「つぶやき」には、絶望的な調子、幻滅、苦渋、嘆きがみち溢れている。アラゴン自身がこの詩についてこう書いている。
 「一九六五年の春、チリを襲った大地震は太平洋岸のネルーダの家を破壊した……その機会にアラゴンはその友人に語りかけ、チリの詩人の詩に彼じしんの詩をまぜ合わせた……そのとき、作者は苦にがしい嘆きをぶちまけずにはいられなかった。その嘆きによって、詩人たちを裏切った大地そのものが告発されたのだ……こうして作者ともうひとりの詩人とのあいだの嘆きの詩が、分かちあった苦(にが)い果実のように出来あがった……」
 「詩人たちを裏切った大地……」という表現は、一九五六年二月のソヴェト共産党第二○回大会におけるフルシチョフの「スターリン批判」によって始まった非スターリン化の状況、その中での共産党員知識人・芸術家の苦悩、絶望、自己批判、再出発などの精神的状況を指さしている。むろんネルーダもまたこの悲劇的な状況のなかに投げこまれたのだった。
(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

夕空

のろし

狼煙83
狼煙83

狼煙83


狼煙83
狼煙83


長野詩人会議機関誌『狼煙』83号
2017年9月発行 定価500円



怠け者


『とりとめのない放浪』

 『とりとめのない放浪』は一九五八年に出版された。詩人は、自分の思い出、経験、旅行など──いわば大地から大地への放浪を打明ける。詩人は疲れることなく事物に語りかけ、動くものと動かないもの、生きて変るものと変らなものとを統一しようとする。こうして人間実存の本質に迫ろうとする点で、これは哲学的な詩集であると言えよう。ここには、人類が初めて月面に到達した、宇宙探査を反映した詩がみだされる。「怠け者」という詩がそれである。

  怠け者

 金属の物体は
 星のあいだを飛びつづけるだろう
 人間たちはふらふらになって登ってゆき
 優しい月に侵入し
 そこに薬局を建てるだろう

 いまは葡萄のとりいれのまっさかり
 わが国では 葡萄酒(さけ)が流れはじめる
 アンデスの山なみと海のあいだに
 わがチリでは 桜んぼが踊り
 素朴な小娘たちが歌をうたい
 ギターのうえに涙がひかる

 わたしの家には 海も陸(おか)もある
 妻は 森のはしばみの実の色をした
 でっかい眼をしている
 夜がやってくると 海は
 白と緑を 身にまとい
 月は 泡のうえで
 海の婚約者(いいなずけ)の夢をみる

 どうして星を変えることがあろう

 ここには、ネルーダらしい楽天主義に溢れたユーモアによる、宇宙探検への風刺を読みとることができる。
(つづく)

(新日本新書『パブロ・ネルーダ』)

夕暮れ



拷問の館
アジェンデ政権が倒れるとすぐに軍部による独裁政治が始まりました。
拷問の館
これがどのようなものだったのか、この歩道に刻まれています。
拷問の館
エドウィン・フランシスコ、二十歳。
拷問の館
ミゲル・アンへル、19歳。 
拷問の館
道にきざまれているのはこの建物に連行され犠牲になった若者たちです。 
拷問の館
ここは拷問の館。サンチャゴに160箇所以上も設置されました。
拷問の館
軍事政権はアジェンデを支持した人々を連行し、暴行を加え、処刑したのです。 
墓地
犠牲者の数は死者行方不明者をあわせて、わかっているだけでも3000人以上にのぼりました 
墓地
社会主義者の一掃を図るとともに、恐怖で人々を支配するのが目的でした。
デモ
しかし人々はただ恐怖に怯えているだけではありませんでした。
デモ2
クーデターから10年が過ぎた頃から軍事政権に対する抗議のデモや集会が繰り返されるようになります。
デモ
デモ
デモ
デモ
デモ
デモ
人生よありがとう
拠点のひとつとなったのがライブハウスです。入り口に鍵をかけた、
いわゆる地下コンサートを開き、民主化を求める機運を高めていったのです。
人生よありがとう
当時よく歌われた歌があります。タイトルは「人生よありがとう」
人生よありがとう
パラ
パラ
パラ
行動
当たり前の人生を返して欲しい。人びとは手を握り、高く掲げ、人生の賛歌ともいえるこの歌を歌いました。
行動
市民によるこうした勇気ある行動は次第に軍事政権を追い詰めていきました。 
行動
投票
そして1988年、ついに軍事政権の信任を問う国民投票が実施されます。
投票
さようなら
さようなら
さようなら
開票の結果はノー。
勝利
人々は奪われた自由な暮らしを自分たちの手で取り戻したのです。
結び
今ではサンティアゴは南米屈指の暮らしやすい都市として知られています。 
町を楽しむための様々なツアーも用意してありますので、是非遊びに来てくださいね!

<世界ふれあい街歩き 「青空がいっぱい サンティアゴ ~チリ~」NHK BS  2017年1月17日放送>

サンチャゴ
NHK BSの紀行番組でチリの軍事クーデターと民主化の動きを取り上げていました。

サンチャゴ
サンチャゴ
こんにちは ツアーガイドのレオナルドです。
サンティアゴにきたらぜひここを訪ねてください。
サンチャゴ
ここはモネダ宮殿、大統領の執務室がある政治の中心です。
今日はモネダ宮殿の名を世界に伝えたあの大事件のお話をしましょうね。
時は40年あまり前の1973年9月11日。
サンティアゴ
サンティアゴの空を爆音が引き裂きました。軍部がクーデターを起こし、モネダ宮殿を爆撃したのです。
サンティアゴ
アジェンデ
チリは当時世界ではじめて選挙で誕生した社会主義政権の国でした。
しかし急速な改革により社会は混乱、軍は秩序の回復を名目にクーデターを起こし、政治の実権を奪おうとしたのです。
サンティアゴ
サンティアゴ
サンティアゴ
アジェンデ
ここはモネダ宮殿の内部、当時の大統領執務室が復元されています。
アジェンデ
アジェンデ
当時の大統領サルバドール・アジェンデは降伏を拒み、たてこもりました。
そしてラジオを通して国民に別れのメッセージを送ったのです。
アジェンデ
アジェンデ
アジェンデ
アジェンデ
労働者
アジェンデ
アジェンデ大統領は燃え盛るモネダ宮殿の中で65年の生涯を閉じました。
それはチリの民主政治の終りをも意味していました。

(つづく)

<NHK BS 世界ふれあい街歩き 「青空がいっぱい サンティアゴ ~チリ~」2017/1/17>

爆撃
「国立ラジオ局の爆撃」Maria Cortez作 1990年頃

1993年9月11日、ピノチェトはクーデターを起こすと、アジェンデの演説を放送しているラジオ局を爆撃しました。

<9時5分 アジェンデ大統領、ラジオ・コルポラシオンを通じて4回目の演説。 このあとこの放送局は爆撃され、ラジオ・ポルタレスの放送塔は吹き飛ばされる。
9時20分 アジェンデ、共産党系のマガジャネス放送を通じて最後の演説。 国民にたいする最後のよびかけとなる。>

アジェンデ大統領 最後の演説

いま空軍がラジオ・ポルタレスとラジオ・コルポラシオンの放送塔を爆撃しました。これが、あなたがたに語りかけられる最後の機会だと思います。
……わたしが労働者諸君に言えることは、わたしは辞任しないということだ。歴史的危機状況に際して、わたしはわたしの生命をもって人民の忠誠に報いよう。わたしは告げたい。多くのチリの人々の誇り高い良心に、われわれが差し出した種子は決して芽をつみ取られることはない、とわたしは確信していると。
彼らは武力でもってわれわれを屈伏させるだろう。だが、武力をもっても、犯罪的行為をもっても、社会的進歩をおしとどめることはできない。歴史はわれわれのものであり、歴史は人民が作るものである。
祖国の労働者たちに感謝します。法を重んじ、ことばを守り、正義を願う心の伝達者に過ぎない一人の人間に、あなたがたが与えてくれた忠誠に対して。
……マガジャネス放送はわたしの声をあなたがたに伝えていないかもしれない。が、あなたがたはわたしに耳を傾けてくれているだろう。これがわたしの最後のことばです。わたしが犠牲となることは決して無駄ではないと信じている。すくなくともそれは卑劣、不実、背信を告発するひとつの道徳的教訓となるであろう。われわれは、あなたがたとともにいる。
……労働者たちよ。わたしはチリを、チリの運命を信じている。背信がのさばる苦くうらがなしいこの「時」を、別の人々が乗り越えてくれるだろう。よりよい社会の建設のために、解放された人間が生きる場所に、ふたたび大きなポプラ並木の道が開かれるのは、そう遅いことではない。そのことを理解し、我々に続いてほしい。……チリ万歳!人民万歳!労働者たち万歳!
(「チリ年表   その3」より )

散策
DSCF4893秋山

豊島区から秋山鐵夫・増子ご夫妻が来館。
若いころ、博光に三鷹の家で会ったことを話して下さいました。
詩人の末次正寛さんの紹介で2−3回会った。博光さんは病気療養中で、奥さんが花屋をしていた。3−4才の坊や元気がよくて、追いまわされた(秋光らしい)。三鷹事件のことなどで目を開かせてくれた。病気のため早稲田大学を7年かけて卒業し、その後共産党の豊島区区議を7期やった。
昨年のしんぶん「赤旗」のアラゴンの記事を見て博光記念館があることを知った。懐かしく思い出し、訪れたいと思っていた。


DSCF4902地下壕
小林さんのガイドで松代大本営地下壕を見学しました。

DSCF4909地下壕
DSCF4910慰霊碑
DSCF4924.jpg
美しい樹々と水に沿って山寺常山邸跡まで散策しました。


*末次さんはよく家に来たので子どもたちも覚えています。




モダニズム展

神奈川果立近代美術館葉山にて「コレクション展 1937ーモダニズムの分岐点」が開催されます。(9月16日一11月5日)1937年前後に焦点をあて、1930年代の日本の近代美術を紹介すると共に、同時代にみられた国内外の前衛美術の動向をたどる展覧会。シュルレアリズム運動に関して、瀧口修造と山中散生が、アンドレ・ブルトンらシュルレアリストたちと交わした書簡や原稿などから、国際的交流の一端を紹介します。

笠井夫婦

この展覧会で瀧口修造の記事が掲載された『蝋人形』が展示されることになり、慶應義塾大学の笠井裕之教授(20世紀フランス文学)ご夫妻が『蝋人形』1936年合本を受け取りにみえました。笠井先生は本展のためにアンドレ・ブルトンらシュルレアリストたちから山中散生にあてた書簡を翻訳されたそうです。




ぼくの二つの手



(『ベトナム詩集』飯塚書店 1968年)

子ども


 詩人略歷

テー・ハイン
 一九二一年、南ベトナムのクワンガイに生まれる。フランスにたいする抗戦に参加、そのなかで、彼の詩は深みとひろがりとを獲得する。純素朴で、センシブルな詩で、彼は祖国愛をうたっている。

グエン・スオン・サイン
 一九六五年ベトナム文学芸術連合会国際委員会主任。ベトナム運営委員会委員。ベトナム作家協会国際委員会主任。

トー・フー
 一九二○年中部ベトナムのフエに生まれる。フエの高校生の頃、すでに「インドシナ民主戦線」の機関紙に詩を発表。一九三九年に逮捕され、一九四二年に脱獄。中部ベトナムではげしい革命活動。一九四五年八月のベトナム革命の時には、フエ決起委員会委員長となり、一九五一年にはベトナム労働党中央委員となる。
 ベトナムの現代詩における、トー・フーの位置を理解するためには、第二次大戦前の数年にさかのぼらねばならない。一九三〇年の民族的蜂起の失敗、うちつづく大弾圧、そのために、ベトナム知識人の多くは深い悲観主義にとらわれる。文学は、逃避的なロマンチシズムの傾向に向う。一連の詩人たちは神秘主義者となる。
 こういう知識人の状況のなかで、非合法出版の雑誌に、まったく新しいひびきをもった詩が現われた。そこには、高級な読者をよろこばせる形式上の進歩と同時に、民族的人民的な詩の伝統が見いだされた。そこには、祖国と人民にかたく結びついた詩人の、熱烈な魂が反映していた。そればかりではなく、さらに、勝利の確信をもたらし、未来をきりひらく新しい政治思想が、詩によって展開されていた。
 長い闘争生活、地下生活のあいだ、トー・フーは人民──とりわけ農民と深くむすびついて生活した。こうして、トー・フーは、近代的・革命的な内容と、洗練された大衆性をもった、民族的な詩の伝統とを、みごとに統一し、調和させることができた。かれの詩は、人民のなかで、すでに古典のように、ひろく愛誦されている。
 トー・フーは、まことにベトナム革命の詩人となった。

スオン・ジウ
 一九一七年、北ベトナムのハチンに生まれた。革命前には、個人主義的で、ロマンチックな傾向をもった「新しい詩」運動の指導者の一人であった。一九四五年、彼は「祖国の旗」という詩をかいて、民族解放革命を熱情をこめてたたえた。それ以来、彼はいくつもの詩集で、人民の生活と、祖国の大きな変化とを表現している。詩集には、『詩集』(一九三八年)、『風かおる』(一九四五年)、『祖国の旗『(一九四五年)、『星』(一九五五年)、『個人と集団』(一九六○年)などがある。

タイン・ハイ
 革命後の世代にぞくしている。現に南ベトナムで活動しており、その戦闘的な詩は南ベトナムの解放区ばかりでなく、全ベトナムで歓迎されている。

グエン・ディン・テー
 一九三四年生れ。革命と抗戦によって育てられた世代の詩人。反ファシズム闘争の数年間、グエン・ディン・テーは、蜂起をよびかけた革命歌の匿名詩人であった。抗戦中、解放軍の軍事委員、人民軍戦士の生活を主題として、新しい抒情詩を開拓した。小説も書く。ベトナム作家協会の委員長。

ルー・チョン・ル
 一九一一年生れ。革命前、すでに「新詩」運動で有名であった。革命後、かれはさらにレアリズムの詩を書きつづけている。

ジャン・ナム
 南ベトナム解放民族戦線解放文芸協会中央委員。小説も書く。南ベトナムでもっとも活躍している詩人。

アイン・トー
 女流詩人。一九二一年、北ベトナムの小さな町、ハイデュオンに生まれる。彼女は革命前に、ロマンチックな傾向をもった詩集『田舎の風景』を出版した。
 革命後、彼女は長篇詩『ビュラン村の女』を出し、さいきん『鳩のつばさで』(一九六○年)を出した。

チャン・フー・トン
 一九二六年生れ。中部ベトナムの農民出身。革命後の世代の若い詩人たちのひとり。主として農民の生活をうたう。詩集に『八月の鈴』がある。

フィ・カン
 一九一九年、北ベトナムのファチンに生まれる。最初の詩集『聖火』(一九四○年) の大成功によって、ロマン的傾向の「新詩運動」の指導者のひとりとなる。一九四二年より、民族解放闘争に参加、一九四五年八月、民族解放国民委員会委員にえらばれ、現在、ベトナム文化部副部長。詩集に『空は日に日に明るくなる』(一九五八年)、『大地は花咲く』(一九六○年)などがある。

ホー・チ・ミン
 一八九○年生れ。若くしてベトナム解放運動に参加。フランス行きの船の皿洗いをして、パリーに行く。いろいろな仕事をして、パリーで数年を過す。フランスの社会党に入党して、植民地人民のために活発に活動する。一九二○年、ツール大会に代表として出席、「第三インターナショル」とフランス共産党の創立を支持する。
 一九二五年に、ベトナム革命青年同盟をつくり、一九三○年に、インドシナ共産党を創立する。同時に、第三インターナショナルの指導の下に活動、フランス官憲によって、十数年のあいだ追跡されたが、それを逃れる。彼はベトナム最初の共産主義的戦士を育てあげる。これらの戦士たちは、英雄主義と良識をもって、のちにベトナム革命を指導する。彼は初めて、ベトナムにマルクス主義の基礎をすえ、マルクス主義の光りに照して、ベトナムの民族解放と社会解放の道を分折した。
 一九三○年の蜂起失敗の後、植民地主義者の弾圧によって、ベトナムのブルジョワ政党及び小ブルジョワ政党が崩壊したので、民族運動の指導は共産党にゆだねられた。というのは、共産党だけが、この弾圧時代を、うまくきり抜けたからである。第二次大戦中、ホー・チ・ミンは、日本のファシスト軍と植民地主義に対して闘うため、ベトミン民族戦線を結成した。
 一九四五年十一月の民族的蜂起が成功した結果、ベトナム民主共和国が建設され、ホー・チ・ミンはその大統領にえらばれた。彼は、フランスとの友好政策を追求したが、フランスの右翼は、この若い民主共和国を圧服するのはやさしいと思いこんで、一九四五年来、戦争を始めた。この戦争は九年間つづいた。ディエンビエンフーの敗北の後、一九五四年七月、フランスは、ホー・チ・ミン政府と休戦条約を結んだ。アメリカの干渉によって重大な脅威にさらされた平和を救うため、ベトナム民主共和国は、国を一時的に、南北二つ に分けることを受諾した。一九五六年に行われる総選挙によって、ベトナムは統一されるはずであった。
 しかし不幸にも、南ベトナムにたいするアメリカの干渉によって、総選挙を行うことはできなかった。
 ベトナム人民は、その愛国闘争の長い経歴のためばかりでなく、彼が祖国の過去と未来とを一身に具現しているゆえに、ホー・チ・ミン大統領を敬愛している。彼は、ベトナムにマルクス主義をもたらした最初の人であると同時に、むかしの古い文字の伝統をもちつづけている最後のひとびとのひとりである。彼は、共産党を創立し、ベトナム最初の独立政府をつくり、人民の軍隊をつくった。しかし同時に、彼はまた現代ベトナムの最大の詩人、散文家のひとりである。ひろい教養を身につけた彼は、現代ベトナム語とおなじほど容易に、古典的な中国語を駆使し、フランス語、中国語、英語、ロシヤ語をすらすらと話すことができる。彼に接したひとたちを感動させるのは、とりわけ彼の偉大な人間性であり、彼の偉大なヒュマニズムである。ベトナム人民にとって、ホー・チ・ミンは、近代的な闘士の典型であると同時に、古風な賢者なのである。
 ホー・チ・ミンの名で知られる前まで、彼は長いことグェン・エ・クオック(日本風に訳せば、「愛国太郎」)という名でたたかっていた。
 一九四二年、彼が中国に滞在して、そこから反ファシズム闘争を指導していたとき、彼は、将介石の警察に逮捕され、一年あまり投獄された。そのあいだに、彼は『獄中日記』を書いたのである。

ホアン・ロック
 人民軍の指揮者で戦死した。ひじょうに感動的な詩をのこした。

バン・タイ・ドアン
 少数民族マン族出身の詩人。貧しい農民の子として生まれる。若くして解放軍に参加し、北ベトナムの山岳地帯で日本軍とたたかった。この戦闘のなかで、かれはマン族の言葉で詩を書きはじめた。郷土色ゆたかな彼の詩は、たちまち大衆の愛誦するところとなった。詩集『ホーおじさんの塩』がある。

ノン・クオック・チャン
 一九二三年生れ。少数民族タイイ族出身。若くして革命運動に参加、日本軍の占領中は、北ベトナム地方でゲリラ隊員として闘う。詩「村へ帰える」は一九五一年の世界青年友好祭で入賞した。詩集に『戦う北ベトナム』、『北ベトナムのひとびとの歌ごえ』、『花咲く山のひとびと』などがある。

ホアン・チュン・トン
 一九二二年に生まれる。一九六五年ベトナム作家協会運営委員会委員。作家協会機関誌『文芸』編集委員会書記。

チェ・ラン・ビィエン
 一九二○年、中部ベトナムのクワントリに生まれる。十六歳で出した最初の詩集『廃墟』で、一躍詩名を馳せる。抗戦中は、ジャーナリスト、報道者として活動。最近は、祖国の新しい生活をうたっている。『廃墟』 (一九三六年)、『わが兄弟 きみたちに』(一九五六年)『光りと新生地』(一九六○年)などがある。

(『ベトナム詩集』飯塚書店 1968年)

ベトナム
1965年に、米軍は南ベトナム中部のダナンへ海兵隊を上陸させた。緊迫する情勢下で軍への入隊を迎えた若者たち
1966年 ハーナム省リーニャン マイ・ナム(ベトナム写真展 2006年)


倒れた友に



*ホアン・ロック 人民軍の指揮者で戦死した。ひじょうに感動的な詩をのこした。

(『ベトナム詩集』飯塚書店 1968年)

崖



囚人の妻



(『ベトナム詩集』飯塚書店 1968年)


百合