アルヴァルゴンザレスの土地
アントニオ・マチャード 大島博光訳
Ⅰ
若い頃 アルヴァルゴンザレスは
中くらいの財産の持ち主で
それは ほかの土地では安楽な身分と
呼ばれ ここでは金持と呼ばれた
ベルランガの縁日で
ひとりの娘に惚れて
一年後に 結婚した
結婚式は 豪華だった
見た者は 忘れないだろう
結婚祝いは ずばぬけていた
アルヴァルは 村じゅうに はずんだ
風笛や長太鼓を
フリュート ギター マンドリンを
ヴァレンシア風の花火を
アラゴン風の踊りを
Ⅱ
アルヴァルゴンザレスは 自分の
土地を愛して 幸せに暮らした
結婚から 三人の息子が生まれた
│ほんとうの田舎の金持だった
息子たちが大きくなると 彼は
そのひとりを 果樹園の仕事に
もうひとりを 羊飼いにした
末っ子の行き先は 教会だった
Ⅲ
農民たちの家には
カインの血が多く流れている
そしてこの田舎の家でも
ねたみが不和を生んだ
二人の兄は 結婚した
アルヴァルゴンザレス家に来た
嫁は 子供たちを生む前に
不和の種を生んだ
田舎の強欲さは
死後の遺産相続から
その分け前では満足せずに
ほしいものを手に入れようとする
末っ子は ラテン語の勉強より
美しい娘たちの方が好きで
女のような長い僧服(ドレス)を
着るのは嫌いだった
ある日 僧服を脱ぎ棄てて
かれは遠い国へ行ってしまった
母親は泣いた 父親は
かれの幸せを祈りながら
遺産の分け前を彼に与えた
Ⅳ
アルヴァルゴンザレスのいかめしい
額には いまや皺が刻みつけられた
その顔の 顎の上にあった
青い影は銀色になった
ある秋の日の朝
彼はひとりで家を出た
彼は猟犬を持ったことはなかった
すらりとしたグレハウンド犬を
彼は悲しげに もの思わしげに
黄金色のポプラの並木に沿って
長い道を歩きまわって
済んだ泉へ辿り着いた
彼は石の上に毛布を敷いて
地べたに横たわった
泉のかたわらで 彼は眠り込んだ
水の音をききながら
(つづく)
(現代詩文庫「マチャード/アルベルティ詩集」土曜美術社出版販売)
アントニオ・マチャード 大島博光訳
Ⅰ
若い頃 アルヴァルゴンザレスは
中くらいの財産の持ち主で
それは ほかの土地では安楽な身分と
呼ばれ ここでは金持と呼ばれた
ベルランガの縁日で
ひとりの娘に惚れて
一年後に 結婚した
結婚式は 豪華だった
見た者は 忘れないだろう
結婚祝いは ずばぬけていた
アルヴァルは 村じゅうに はずんだ
風笛や長太鼓を
フリュート ギター マンドリンを
ヴァレンシア風の花火を
アラゴン風の踊りを
Ⅱ
アルヴァルゴンザレスは 自分の
土地を愛して 幸せに暮らした
結婚から 三人の息子が生まれた
│ほんとうの田舎の金持だった
息子たちが大きくなると 彼は
そのひとりを 果樹園の仕事に
もうひとりを 羊飼いにした
末っ子の行き先は 教会だった
Ⅲ
農民たちの家には
カインの血が多く流れている
そしてこの田舎の家でも
ねたみが不和を生んだ
二人の兄は 結婚した
アルヴァルゴンザレス家に来た
嫁は 子供たちを生む前に
不和の種を生んだ
田舎の強欲さは
死後の遺産相続から
その分け前では満足せずに
ほしいものを手に入れようとする
末っ子は ラテン語の勉強より
美しい娘たちの方が好きで
女のような長い僧服(ドレス)を
着るのは嫌いだった
ある日 僧服を脱ぎ棄てて
かれは遠い国へ行ってしまった
母親は泣いた 父親は
かれの幸せを祈りながら
遺産の分け前を彼に与えた
Ⅳ
アルヴァルゴンザレスのいかめしい
額には いまや皺が刻みつけられた
その顔の 顎の上にあった
青い影は銀色になった
ある秋の日の朝
彼はひとりで家を出た
彼は猟犬を持ったことはなかった
すらりとしたグレハウンド犬を
彼は悲しげに もの思わしげに
黄金色のポプラの並木に沿って
長い道を歩きまわって
済んだ泉へ辿り着いた
彼は石の上に毛布を敷いて
地べたに横たわった
泉のかたわらで 彼は眠り込んだ
水の音をききながら
(つづく)
(現代詩文庫「マチャード/アルベルティ詩集」土曜美術社出版販売)
赤澤節子さんが紙芝居「走れ ひまわり号」をつくった経緯が長野市の「ボランティアかわらばん」No.387号に掲載されています。
赤澤さんがこの紙芝居を作るきっかけは紙芝居づくり講座で長野ひまわり号の会のボランティアと出会ったことでした。「自分で確かめよう」と、諏訪湖の花火を見る旅に同行したり、ひまわり号が行った水族館を取材したり、古い列車を描くために本を探しまわったりと、東奔西走して取材や資料を集め、紙芝居を完成させたのです。
赤澤さんがこの紙芝居を作るきっかけは紙芝居づくり講座で長野ひまわり号の会のボランティアと出会ったことでした。「自分で確かめよう」と、諏訪湖の花火を見る旅に同行したり、ひまわり号が行った水族館を取材したり、古い列車を描くために本を探しまわったりと、東奔西走して取材や資料を集め、紙芝居を完成させたのです。

さあ、極めつけは「車イス、ジェット機で空をとぶ」。
平成15年、総勢153名の北海道(白老、登別、小樽、札幌)旅行です。
ジェット機が大好きな小児麻痺障がい1級の正仁さんは全く体の自由はききません。
お母さんに支えられて窓の下の白い雲を見下ろしていました。目はおどろきと感動で
キラキラしていました。その時、お母さんは肩の力がすっと抜けたそうです。
今迄親として何もしてやれなかったのが一番つらいことでした。
今、息子のたったひとつの夢がかなえられたのです。

北海道にはリフトバスがなかった! 旅行場を出た皆に驚きが走りました。
広い北海道をめぐるにはバスしかありません。2泊3日の長旅をどうのりきるか、
そしてレストランもほとんどが狭い階段を登った2階にあるのです。
「いいじゃないか、皆の腕をリフトにしょう」なんて簡単に決めて実行してしまう
ボランティアの力! すごいですね。だから夜の食事はなしとげた満足感と手をぬかず
助けてくれるボランティアの優しさを知った皆の心がかよいあうのです。

登別の温泉は牛乳風呂のようでした。ボランティアの皆に支えられて温泉に入った正仁さん
は支えがなくても浮いてしまう程の軽さでした。同じ人間として生まれて来たのに一夜にして
小児マという障がいを持ってしまった子どもを持つ親の苦しみ、何十年と天井だけ見て生きて
きた正仁さん、感情を表わすことができるだけにそれは過酷な人生だったといえるでしょう。
血の気のない頬がほんのりと赤く染まり、気持よさそうに笑うのを見てボランティア
の人たちは苦労を忘れ、又、障がい者の人たちのために頑張ろうと思うのです。

さて北海道も最後の日、ホテルの売店では、かってないほどの大フィーバーになっていました。
お金を出して自分のほしい物を買う経験がなかった皆さんが買い物の楽しさに目覚めてしまった
のです。「いらっしゃい、いらっしゃい」の呼びこみをするヒマもなく棚の商品がとぶように
売れていきました。またたくまにタナはからっぽ。あとの仕入れが間にあわなかったそうです。

平成16年8月15日、諏訪湖祭、湖上花火大会に行きました。原田泰治美術館の協力を頂き、
庵やトイレに特別の許可が出ました。障がい者用のトイレがあるのでみんなひと安心。
なんせ、どこへ行ってもこれが1番の心配事なのです。車イスがリフトから降りると、
すぐボランティアの皆さんが次々と車イスを押して行きます。

しずえさんの車いすは大きくてリフトにはのりません。外でひたすらしずえさんが来る
のを待っています。最後にやっとお姫様だっこをされたしずえさんが降りてきました。
ひまわり号の旅に参加するようになってしずえさんはとてもあかるくなったそうです。

花火が始まるまでの待ち時間、ビールやスイカでおしゃべりがはずみます。
その中に、両親が年老いて付きそいが無理になったので障がいを持つ弟に付きそ
って来たお姉さんがいました。嫁ぎ先では両親が亡くなったらひきとって一緒に暮せば
いいと言われたそうです。少しずつでも障がいに理解ある人たちが増えてほしいですよね。
どんな人も、いつかは助けてもらう時が来るのですから

いよいよ暗くなって、みんなの顔も見えなくなった頃、ドッカンドッカーンと花火の大きな
音が諏訪湖にひびきわたりました。空いっぱいに、たくさんの幸せの花を咲かせています。

これだけ大きな事業を続けてこられたのは思いきった計画を次々と打ち出した事務局と、
障がい君の夢をかなえるお手伝いをしたいというボランティアの皆さんの純粋な思いと情熱が
本物だったというあかし(証)と言えるでしょう。ひまわり号が走った事で駅や公衆トイレなどの設備も
利用しやすくなり、バスの旅にはかかせないリフト付バスも充実して環境も整ってきました。
障がいを持つ人が外に出られるようになり生き生きした姿を見て
人々の理解も深まったように思います。
(おしまい)


しずえさんは全身リウマチで寝たきり、動くことも自分の力ではできません。
勇気を出して乗ったのが昭和60年のひまわり号、上野動物園行の特急あさまでした。
この日がしずえさんの世界を広げるきっかけとなったのです。ボランティアの人たちが
前日遅くまで、ひとりひとりの障害にあった座席を作っていたのです。

水族館に着きました。暗いホールをドキドキしながら抜けると、みんなはあっ」と息を
のみました。青く輝やく広い水槽の中を、大きな魚が鳥のように舞っているのです。エイです!
「さんまはどこにいるのかな」とさがしていると、な、なんと、いつの間にか人が泳ぎながら
手をふっていました。あんなふうに自由に動けたらいいなと思いながら皆うっとりと見ていました。

見るもの、感じるもの、すべてが初めての体験です。海ってこんなにも広いんだ !!」
ボランティアの人達が波と遊んでもらおうと、波うちぎわまでコンパネを敷いて
車イスのための道を作ってくれました。はじめはこわごわ波に近ずいていた者も
楽しくなって、いつしか笑い声をたてていました。

平成11年、車イスで障がい者の団体が中央アルプスに登りました!
はじめての駒ヶ岳のロープウェイ。登る速さにびっくり、その中には重度の肢体不自由
の人も何人かいました。その人たちの車イスは普通の車イスよりも長く大きいのです。
それがロープウェイにはのれたのです。付きそって来たお母さんは「見てごらん、こんな
高い所まで登って来たんだよ」と身動きできない息子の頭をそっと窓の外にむけたのでした。

雄大な自然を見たいという障がい者の夢をかなえるために医療チームとボランティアの力と
綿密な計画をたてた事務方の努力が実をむすびました。国立公園なので地面を車イスでキズ
つけないように、たくさんのボランティアが千じょう敷の上までコンパネをしいて行ったのです。

皆さんの歓迎の太鼓やボランティアの皆さんの木槍にむかえられ、敷いたコンパネの
道を続々と続く車イスの行列、標高2612メートルの坂道を車イスが登るのです。
それを押すボランティアの人たちは涼しいはずの高い山の上で滝のような汗を
流したのでした。

目的地の広場につきました。想像を絶する山の雄大さに、みんな我を忘れ感動の涙を流しました。
2612メートルの高さですが安心して下さい。医療班は大きな酸素ボンベも持って来ていました。
お医者も来ているので、安心してすばらしい山の景色を楽しめたのです。
(つづく)

長野『ひまわり』の会 30周年記念紙芝居
作・画 赤澤節子

30年といえば20才の人は50才に、50才の人は80才に

昔は障がいがあるために教育を受けられずひっそりと隠れるように家の中で
暮らしていました。「死ぬまでに1度でいいから汽車にのって旅をしてみたい」
ひとりの高令者がつぶやいたひとこと。その夢を生きているうちに、ぜひ、
かなえてあげたいと、ひまわり号は誕生しました。障がい者の夢と希望をのせて
ひまわり号が初めて走ったのは昭和57年11月3日、上野から日光まででした。
NHK報道ヘリコプターが、その列車を追って全国放送されたのです。

何でも、はじめはひとりの勇気ある行動から始まります。家でこのTVを見ていた
元国鉄職員の太田さんは生まれて初めての体験に「これで思い残すことはない」
と涙で語るお年よりを見て、感動を押さえきれませんでした。そこで

「そうだ、長野にもひまわり号を走らせよう」と決意したのです。
本州大学(長野大学)の教授や学生、知的障害の子持つ、手をつなぐ親の会、
肢体不自由児(者)父母の会そして国鉄職員の代表に呼びかけました。
そして「ひまわり号を走らせる実行委員会」を立ちあげました。
これが現在の「長野ひまわり号の会」なのです。

当時、障がい者の旅行は個人では行けませんでした。改札口も狭く、車イスは通れ
ません。エレベーターもないので、荷物と一緒に荷物搬入口からホームへ出ました。
階段はボランティアの智慧と力でのり切りました。
「ダイヤの遅れは絶対出さない」これがひまわりのモットーなのです。

集合時間よりずっと早く駅についた皆さん。その中でひときわ目をひいたのは
着物を着た白足袋の高野さんでした。高野さんは明治生まれの80才。
全盲の彼女の将来を心配した両親が厳しくしつけました。目は見えなくても
高野さんは人のよろこびや悲しみも感じとることができるのです。
この2年後高野さんは亡くなりました。

そして、いよいよ長野県にひまわり号が走ることになりました。
昭和59年11月上田から直江津へ。今はなつかしい緑色とオレンジ色の通勤列車。
全国共通のひまわり号のエンブレムには、誇り高く緑色で「信州」の文字が
入りました。生まれて初めて乗る列車にワクワクしている皆の気持を感じながら、
いざ直法律に出発進行!

みんなの1番の心配事、それはトイレです。通勤列車なのでトイレのない車輌
もあります。そこで電車のまん中のドアの通路に白い大きな布を左右の綱ダナから
綱ダナにはりました。そこにポータブルトイレを置き、車ごと入れる広い個室トイレ
を作ったのです。ドアの窓には外から見えないように紙で目ばりをしました。
電車にのってビールを飲んでみたいと言ってた皆もこれで心おきなく飲めますね!
(つづく)
*赤澤節子創作紙芝居リスト
赤澤節子創作紙芝居リスト
A 松代の先人、歴史
・参勤交代「松代藩8代藩主真田幸貫、参勤交代の地蔵峠越え」
・松井須磨子 西洋近代劇の夜明けの星
・和田英──松代へ製糸技術を伝えた
・恩田木工民親 心を耕し続けた恩田木工(もく)民親
・長岡助次郎 郷土の文化を守った人 ──明治4年より五十年間 松代小学校に勤め、松代文化復興に数々の業績を残した。
・真田志ん──八橋流箏曲の伝承者
B 災害・戦争
・浅間山噴火大和讃 ──浅間山は今から236年前の天明3年8月5日(1783)昼近く大噴火を起こし、黒い噴煙は上空2万メートルに達し、煙や灰は江戸の町をまっ暗にしました。
・長野にグラマンがやってきた日──その日は大豆島飛行場、長野機関区、川田、松代、篠ノ井と攻撃は続きました。長野駅周辺では民家の庭先の防空壕が狙われ、3人の子どもが亡くなりました。
・台風19号による松代の水害 伝えよう水害のこわさ
C 思い出の人
・明日ははれる ──小学生の時の思い出
・はあちゃんとカオルさん ──松代の雑草のごとき有名人、はあちゃんとカオルさん。
・守っこ ──戸隠小学校では子守り少女のために子守り学級を開きました。
・おじょっさまァ でたあ! ──松代病院の近くに住むとし子の新しいお手伝いさんはとし子のことをおじょっさまと呼びました。
・おじょっさまが行く ──目の悪いおくまさんの思い出。西洋人形よりもかわいい女の子、 「ありゃ大先生の孫でねえけ」
・ふじ子 とし子のおもいで ──卒業式のあと、2人は2度と会うことはなかったのですが、2人が偶ぜん再会したのは、85才の時、松代病院の待合室ロビーでした。
・真希ちゃん 花の人生 ──ダウン症?車イス生活?寝たきり?長生きはできないかも? まだ若い人達にはショックでした。
・おせんさん ──おせんさんは87才。ひとり暮しも長くなりました。人は人とかかわりあってこそ生きていけるのね。
D おはなし
・きっきはうごけないの 忠じいじの里山の話 ──忠じいは杉の子キッキをほり出すと「もう心配いらないよ。お日様のあたる所へひっこしだ」
・きっきのはじめての夏 ──やっと朝が来た。うわァ台風のあとっていつもよりお日様がまぶし〜い。
・みろくさんとこぞうさんときつねたち ──キツネのゴン太がお寺の小僧に化けることになりました。
・与太郎カエル明徳寺へ行く (松代テレビ局がyutubeで公開)
・走れ ひまわり号 ──「死ぬまでに1度でいいから汽車にのって旅をしたい」障がい者の夢と希望をのせて走るひまわり号。
・皆神山登山
・忠吉さんと第三の人生 ──老夫婦がクリスマス
・夏まつり ──下駄屋のおじいさん、親子3代の夏まつり(松代テレビ局がyutubeで公開)
E 民話
・白鳥のしらせ
・夜なき石
・天狗のしかえし
・山伏石のはなし
・神様と栗の木
・お菊の亡霊
・雨乞い地蔵
・火炎をとられた不動様
・やけどをしたタヌキ
松代在住の赤澤節子さんは沢山の紙芝居を創作しています。題材は松代民話、松代の先人(松井須磨子、和田英、恩田木工など)、災害、松代の人々の思い出など。むかしの子どもたちや村人の生活も描かれています。絵が生き生きとしていて素晴らしいのですが、脚本もご自分で調査して書き、語りもご自分がやります。
A 松代の先人、歴史
・参勤交代「松代藩8代藩主真田幸貫、参勤交代の地蔵峠越え」
・松井須磨子 西洋近代劇の夜明けの星
・和田英──松代へ製糸技術を伝えた
・恩田木工民親 心を耕し続けた恩田木工(もく)民親
・長岡助次郎 郷土の文化を守った人 ──明治4年より五十年間 松代小学校に勤め、松代文化復興に数々の業績を残した。
・真田志ん──八橋流箏曲の伝承者
B 災害・戦争
・浅間山噴火大和讃 ──浅間山は今から236年前の天明3年8月5日(1783)昼近く大噴火を起こし、黒い噴煙は上空2万メートルに達し、煙や灰は江戸の町をまっ暗にしました。
・長野にグラマンがやってきた日──その日は大豆島飛行場、長野機関区、川田、松代、篠ノ井と攻撃は続きました。長野駅周辺では民家の庭先の防空壕が狙われ、3人の子どもが亡くなりました。
・台風19号による松代の水害 伝えよう水害のこわさ
C 思い出の人
・明日ははれる ──小学生の時の思い出
・はあちゃんとカオルさん ──松代の雑草のごとき有名人、はあちゃんとカオルさん。
・守っこ ──戸隠小学校では子守り少女のために子守り学級を開きました。
・おじょっさまァ でたあ! ──松代病院の近くに住むとし子の新しいお手伝いさんはとし子のことをおじょっさまと呼びました。
・おじょっさまが行く ──目の悪いおくまさんの思い出。西洋人形よりもかわいい女の子、 「ありゃ大先生の孫でねえけ」
・ふじ子 とし子のおもいで ──卒業式のあと、2人は2度と会うことはなかったのですが、2人が偶ぜん再会したのは、85才の時、松代病院の待合室ロビーでした。
・真希ちゃん 花の人生 ──ダウン症?車イス生活?寝たきり?長生きはできないかも? まだ若い人達にはショックでした。
・おせんさん ──おせんさんは87才。ひとり暮しも長くなりました。人は人とかかわりあってこそ生きていけるのね。
D おはなし
・きっきはうごけないの 忠じいじの里山の話 ──忠じいは杉の子キッキをほり出すと「もう心配いらないよ。お日様のあたる所へひっこしだ」
・きっきのはじめての夏 ──やっと朝が来た。うわァ台風のあとっていつもよりお日様がまぶし〜い。
・みろくさんとこぞうさんときつねたち ──キツネのゴン太がお寺の小僧に化けることになりました。
・与太郎カエル明徳寺へ行く (松代テレビ局がyutubeで公開)
・走れ ひまわり号 ──「死ぬまでに1度でいいから汽車にのって旅をしたい」障がい者の夢と希望をのせて走るひまわり号。
・皆神山登山
・忠吉さんと第三の人生 ──老夫婦がクリスマス
・夏まつり ──下駄屋のおじいさん、親子3代の夏まつり(松代テレビ局がyutubeで公開)
E 民話
・白鳥のしらせ
・夜なき石
・天狗のしかえし
・山伏石のはなし
・神様と栗の木
・お菊の亡霊
・雨乞い地蔵
・火炎をとられた不動様
・やけどをしたタヌキ
松代在住の赤澤節子さんは沢山の紙芝居を創作しています。題材は松代民話、松代の先人(松井須磨子、和田英、恩田木工など)、災害、松代の人々の思い出など。むかしの子どもたちや村人の生活も描かれています。絵が生き生きとしていて素晴らしいのですが、脚本もご自分で調査して書き、語りもご自分がやります。

今日もおじょっさまはお弁当の入った小さいバスケットを持って村はずれの土手まで来ました。
川べりを歩いているとバチャン、バチャンと音がきこえてきました。片目はとじていて、
もう片方は黒目がまっ白なおばあさんが棒っきれで石の上の布をはたいています。
「おばあさん、何しているの?」「見りゃわかるだろう。せんたくだ!」「へえ、せんたく?」
「つったてねえで、そこの腰巻ほさんかい」 「はい!」

おじょっさまはいそいで布のかたまりをかかえましたが、それからどうしたらいいのかわかりません、
おばあさんはたたいていた洗濯物を草の上に広げると、すみに大きな石をおきました。
その時とつぜん強い風が吹いて大きな布は風にあおられ、おじょっさまの体をつつんでしまいました。
「あ〜あ〜」「おめえ ここらのガキじゃねえな」
おじょっさまは布にからまれもがいていたのですが目の見えないおばあさんにはわからないのです。

ウォーンと昼のサイレンが鳴りひびきました。「びっくりした。何の音?」
「昼の合図だ、早く家にけえらねえと飯がなくなっちまうぞ」「私サンドイッチ持って来たの、おばあさん一緒に食べましょう」
おじょっさまはおばあさんの手にサンドイッチをにぎらせました。「なんだい、こりゃ、おめえこんなまずいもん、くってんか」
「大好きなの、おばあさんは何がすき?」 「そうさな、おら、みょうがのみそずけがへったにぎりめしが食いてえな」
「えっ? みようなみそずけ? 今度来る時 持ってくるわ」

「けさのさん、今日の散歩のお弁当はサンドイッチじゃなくて、みようなみそずけのにぎりめしを作って」
「え?!みようなみそずけ? にぎりめし? それって、みょうがのみそずけでねえか? にぎり飯なんて
どこで覚えてきなすった。大奥様にしかられるます!」 それでもけさのさんはみょうがのみそずけの入った
にぎり飯を3コ作りました。4コめは、少し大きくにぎり
「これはおらのぶんだ。みょうがのみそずけのにぎりめしなんて久しぶりだもんな」

みょうがのみそずけの入ったバスケットを持って、おじょっさまは久しぶりにおばあさんを訪ねました。
「おばあさん、今日はみょうなみそずけのにぎり飯を持ってきたの、一緒に食べましょうね」
涼しい土手の上でお昼です。「うんめえなァ おら、こんなの何十年もくってねえよ、ああ、うんめえなァ」
食べているうちにおばあさんの見えない目から涙が流れていました。

「おばあさん、お名前は何ていうの」「おくまだ、おくま」「おじいさんはいないの?」「戦争に行ってビルマで死んだ」
「子供は?」「赤ん坊の時、チブスで死んだ」「まあ、お気の毒に」
「おめえ、いってえ どこんちの子供だ?」「上屋敷の石川はな子」「何! じゃ石川ダメ三郎知ってるか?」
「おじいさまよ、でもダメ三郎じゃなくて、タメ三郎って言うの」
「あいつはな、鉄棒もとびっくらもダメだったから、皆ダメ三郎ってよんでいたんだよ」

お盆が近づくと、大先生が帰ってきました。 おじょっさまは庭で大先生と花火をしながらおくまさんの話をしていました。
「おくまさんか、なつかしいな。おくまさんの家は昔から村の中には住めなくて、水になるたびに家は流され、
気の毒な人なんだよ。それなのに運動がへたな私をよくかばってくれた。 そうだ、明日おくまさんの目を見てあげよう」
「ほんと!!」おじょっさまは嬉しくて、思わず大先生のうでにしがみつきました。

よく朝さっそく2人はおくまさんの所に出かけました。
「おばあさん、ダメ三郎さんをつれてきた」「何バカ言ってんだい。ダメ三郎はえらくなって東京にいるんだよ」
「おくまさん、お久しぶり、ダメ三郎だよ」「え!」 おくまさんはとつぜんにげ出そうとしました。
「心配しないで、目を見に来たんだから」大先生はしばらくおくまさんの目を見ていましたが
「手術をすれば近くのものぐらい見えるようになる、どうかね。 私らと一緒に東京へ行こう。善はいそげというから」

お盆も終り、大先生とおじょっさまが東京に帰る日がきました。見送りに来た村の人は大先生の
うしろから大奥様のおふるの着物を着たおくまさんが申し訳なさそうに出て来たのでびっくり!
「おくまさんは東京で目の手術をします。見えるように[なったら、ここに戻りたいと言うので、
その時はあたたかくむかえて下さい」大先生のことばに皆からおどろきの声があがりました。

おじょっさまがいなくなると子ども達はすっかリ元の生活に戻ってしまいました。学校の帰り道もあばけっこ
をして土手からころげおちたり、びしょぬれになって、どじょうをつかまえたり、いじめも出てきました。
話はかわっておくまさんのことですが、片目はよく見えるようになり、病院のやさしい看護婦さんや
今まで食べたことがない、おいしい食事になれて東京の施設で暮らすことになったそうです。
おしまい
*紙芝居制作者の赤澤節子さん

あじょっさまが行く
作·画 赤澤節子

のどかな村の1本道をよたよたと、それでも土ぼこりをあげて走ってくる車。
桐生から足利に向う国鉄の中間にある小さな駅に昔から置いてあるハイヤーです。
「あ!黒く光ってるからハイヤーだ!」
バスも通らない村の子ども達は大喜び。 ハイヤーと一緒に土ぼこりをあびながら走ります。

やがてハイヤーは村の出世頭で大学病院の名誉博士の家の前でとまりました。
「大先生(おおせんせい)がけってきなさったどう」
でも、おりてきたのは、だいている西洋人形よりもかわいい女の子がひとり。
「ありゃ大先生の孫でねえけ」
「そうだな、見てみろ、小さいけど高い椿油つけるから頭の毛がピッカピカだ!
大奥様のおそよ様が自慢のお孫さんなのです。

その日から村の人達は畑に行く時も、わざわざ遠まわりして中の様子を屏の窓から のぞいて行きました。
その日はとてもラッキーで した。おじょっさまがお手伝いのけさのさんとおままごとをしていました。
けさのさんが「メリーさん、大きなおくちでアーンして」と言いながら 自分も大きな口をあけていたのです。

ままごと遊びは外をとびまわることしか知らなかった村の子ども達にとって衝撃的なものでした。
翌日にはもう村の女の子達の間で広まったのです。人形はないので座ぶとんを二ッ折にして
胴をヒモで結びました。 名前はみんなメリーさんです。

ある日、門の外までひびいてくる蓄音器の歌につられて庭まで入りこんで来た子供達は目を見はりました。
見たこともないきれいな振り袖を着たおじょっさまがかわいい日がさを持って踊りの練習をしていたのです。

次の日、村は朝から大さわぎです。 「どろぼうがおうちへへっただよ」
「嫁に来る時、持ってきた着物がねえだよ」 「干しといた腰巻がめっからねえ」
「皆で駐在さんへ行くべえよ」
駐在所へ行こうと神社に集まった皆はびっくり。 なんと持ち出したのは子供だったのです。
腰巻や着物を体にまきつけ、やぶれた番がさを持ち、下駄にはありったけの鈴をつけ、踊っていたのです。

マリつきをしている子供達をぼんやりと見ていると 「マリをかしてやるからやってみな」
と声がかかりました。さっそくおじょっさまはマリをつきはじめました。
「あんたがたどこさ、肥後さ、ヒゴどこさ、熊本さ、熊本どこさ、せんばさ、せんば山には
狸がおってさ、それを猟師が鉄っぽうでうってさ、煮てサ、焼いてサ、それを木の葉で
ちょっとかぶせ” ここでおじょっさまはパッと赤いスカートを、おもいっきり まくりました。
「あー!! 」みんなびっくり。おじょっさまは木綿のレースがついたシミーズをはいていたのです。

その頃からおじょっさまがひとりで遠くまで歩く姿が見られるようになりました。
「あっ、あいつ東京もんだ」 「なまいきだって、みんな言ってるよ」
田んぼの水たまりで遊んでいた子供達がさわぎはじめました。
「おーい、おめえ東京から来たんだろ、田舎のトコロテンくってみな、うめえぞ」
おじょっさまは立ちどまると空カンに入ったお玉じゃくしのタマゴを
いっきに飲んでしまいました。
(つづく)

篠ノ井までバスに乗って通学。バス停まで、おじいちゃんが送り迎えしてくれます。
バスの中で友達と話をすると、少し大人になった気分です。
篠ノ井までバスに乗って通学。バス停まで、おじいちゃんが送り迎えしてくれます。
バスの中で友達と話をすると、少し大人になった気分です。
毎日いろんな事があるので、夕飯の時、家族と話すのが楽しみです。

楽しかった 青い空 白い雲 潮風
ああ これぞ おきなわ
マキちゃん! 星空を見なよ!
ジュースは長野でも飲めるでしょ

今日からバスで通勤です。
おじいちゃんが始発の松代高校前まで車で送迎してくれます。
おじいちゃん ありがとう。行ってきまあす!

資格を取るために平成学園に入学しました。
両親と一緒に見学に行って決めたのです。
今度は大橋経由長野行のバスで通学です。
高校の時のパソコンはひらがな打ちここではローマ字打。
すべて検定に合格しないと卒業できません。きびし〜いです。
ムーム

助産婦さんになれたらナ。 おも!
ワー! おちるウ やっぱり無理か・・・
チョーいそがし ついてけるかナ
進路 進路 進路 ハア〜

真希ちゃんの大ピンチ。 会社に行けない!
家族に心配かけたくないので笑顔でお弁当持って会社の近所のマンガ喫茶で時間をつぶす。
不安とあせり〜
会社から自宅に電話がいかないように会社に電話。
お給料が入らないので通帳の残高が少ない。 どうしょう
えー! 真希が会社に行ってない・・・? お弁当は毎日持って出てます
上司の人 困ったことがあったら、いつでも相談して下さい。

毎日がつらかった真希ちゃん 今はもう大丈夫。
元気になって楽しく会社に行ってます。
自分で会社の上司に相談して解決させたのです。
酸素ボンベと一緒にバス通勤をしています。
病気や障害を持っていても自分で考え、行動していく勇気と明るさ。
そこには真希ちゃんを慈しみ、支え続けているおじいちゃん、おばあちゃん、
お父さん、お母さん、そして親戚の人達との暖かい絆があったのです。
(おしまい)
*紙芝居制作者の赤澤節子さん


平成24年8月12日、317号室に喘息で入院の71才の赤澤節子は真希さんと遭遇、
しっかりしていて話の受け答えは理路整然、
すごいけど、人生もスゴイ。お友達になりました。



地球めざして4月生まれの仲間達と銀河鉄道から猛ダッシュ。
お父さんお母さんの呼ぶ声が、だんだん近くなります!

真希ちゃんは四月二〇日に生まれました。桜の季節です。
いろいろ障がいを持っていたので、しばらく保育器の中ですごしました。
お父さんはそんな真希のために「どんなことがあっても希望を持って
生きてほしい」という願いをこめて真実の真と、希望の希をとって真希と名付けました。
そして十ヶ月めに両足の大手術をうけたのです。

もうじきです。家族が一番しあわせなときです。
おばあちゃんもお父さんも赤ちゃんを迎える準備です。


病院に行って先生の説明を聞いてきたお父さんは、つらくて玄関から入れなかったそうです。
家族に、特に妻にはどう話したらいいのか悩んでいたのです。
「何かあった」とおばあちゃんは感じました。

ダウン症? 車イス生活? 寝たきり? 長生きはできないかも?
まだ若い人達にはショックでした。
「障がいがあれば家族で力をあわせて育てればいい。まわりがどう見ても家族で守ればいい。」
おばあちゃんの励ましです。


なんということでしょう。真姫ちゃん変身!
保育園では飛び箱から落ちて骨折。背中が曲がっているので
コルセットをしている真希チャンですが皆と同じことができるのです。
でも家族はいつもハラハラ・ドキドキ。

臨海学校!! 教頭先生がだいて海の中までつれてういってくれました。
皆が泳いでいて楽しかった。

力つきた真希ちゃん。女の子がおんぶしてくれました。
ありがとう!林間学校。皆に助けてもらいました。

一月 マイコプラズマで日赤に入院。
おばあちゃん、真希がんばるからね・・・
あまり苦しそうなので、おばあちゃんは涙がとまりませんでした。

二月 入試の日。日赤病院から酸素を持って、車イス。
タクシーで高校まで両親と行く。
受験させたいけど何かあったらどうする?(自己責任)
受験可 三科目と面接
学校までどうやって来ますか?
バス通学します!
体育はできることだけやりましょう。
せまい物置みたいな部屋。たったひとりで受験……さみしい。
皆も頑張っているから私もガンバ!!

入ったぞ、真希姫、
あっぱれ! あっぱれ!
殿! おめでとうござりまする!
(つづく)

おせんさん
作・画 赤澤節子

おせんさんは87才 。
この村の大百姓の家に16才で嫁に来ました。玉のこしと言われましたが
婚礼の翌日からは下働きのお手伝いとかわらない生活がはじまったのです。
大姑の下に姑がいて、その下には、おせんさんより年上の小姑達が5人もいました。
40才で主人と死にわかれ、4人の子供達も遠い県外にすみ、おせんさんのひとり暮しも長くなりました。

3年程前、仲良しのあねさんが町の娘の所に行ってから、おせんさんの様子がおかしくなりました。
畑の手入れもしないで1日中、歩きまわり、パトカーで送ってもらうこともありました。
今日もおせんさんは歩きつかれ、道ばたにしょんぼりすわりこんでいました。
「あれ、おばあちゃん、また まいご? おばあちゃんちはどっちだっけ」
声をかけた のは、いつもの若い駐在さんです。おせんさんは自信なさげに空を指差しました。
「空? 空に行くのは まだ早いでしょ」駐在もすっかりなれています。

そんなおせんさんがある日、ボヤをだしたのがきっかけで地元の施設に入ることになりました。
「まあまあ、小林おせんさん、所長の今井です。なつかしいですね。もんぺ姿は私の母がそうでしたよ」
おせんさんはとつぜん、つきそって来た民生委員の春日さんに「何者だえ、このよくしゃべる女は!」
と聞いたので春日さんはあわててしまいました。 「おせんさん! 今日からここでお世話になるんですよ!
この方がここの所長さんなの!」「へえ そうかえ」春日さんは頭をかかえました。

よく朝のことです。玄関におせんさんがあらわれました。
ほっかむりにモンペ姿・両手に大きな袋をぶらさげ、おまけに背中にまで風呂敷づつみをしょっています。
「わしゃ いそいで実家へ帰らなきゃなんねんだ、みんなが待ってんだよう」
そして入口のガラス戸をこぶしてガンガンたたきはじめたのです。

外に出たおせんさんは はじめて来た所 とは思えない早さで歩きはじめました。
菜の花畑にはおせんさんにしか見えない、なつかしい人達がいました。
「ありゃ ヤスケんとこの嫁だな。またボコが産まれたんか」
「あんしゃん、そんなに無理すんと長生きできねえよ、なんで若えもんにやらせねんだ」
おせんさんは、ひとりごとを言いながらひたすら歩き続けます。

歩きながらおせんさんはいつの間にか、つらい思い出の中の自分になっていました。
それは嫁に来て半年程たった頃、実家の父親がとつぜん倒れたとの知らせが来ました。
「使いのもんは帰れとは言わんかったぞ、おら嫁に来て10年は実家に行かせてもらえんかった」
姑女に言われ、何も言えない16才のおせんさんは、ただカマドの前で泣くばかりでした。

それから数日して「こちらの嫁さんのとっつあまが死んだんでむけえにあがりやした」
使いの留さんは何が何んでもつれて帰るという意気ごみを見せて台所にすわりこみました。
「おせんはかくごして嫁に来たんだろうが!明日は15人も手伝いの衆が来るんだ。飯は誰がたくんじゃ!!」
姑女の声を背におせんさんは泣きなが ら峠をこえました。

よく日、葬式をすますと、おせんさんはすぐ実家を出ました。両親のいない家に自分の
居場所がないことを感じとったのです。村が見える峠の曲り角で、おせんさんは両親との
思い出にわかれをつげました。そのかわりに泣きながら越えた、この峠道が
重いかたまりになって、おせんさんの心のそこに残ったのです。

施設の内田君がやっとおせんさんにおいつきました。おせんさんは歩きつかれ庚申塚
の前に頭をかかえ、すわりこんでいました。やがて車でむかえに来ためぐみさんが
「おせんさん、つかれたでしょ。お茶のんで 」おせんさんはすがるような悲しい目で
めぐみさんを見て「おごっそう」といって涙を流しました。

帰りの車の中で、おせんさんは安心したのか、めぐみさんの肩にもたれ、
じっとしています。窓の外を桜の花びらが嵐のように舞いおどっています。
"桜の花が散る頃は うらら うららと陽はうらら〜♪”とめぐみさんが小さい声で歌っていると、
いつかめぐみさんの手の上にゴツゴツしたおせんさんの手がのっていました。

今日もおせんさんは おせんファッションで出かけました。公園を歩いていると、ベンチで休
んでいたお年よりがとつぜん「おせんさん11 おせんさんじゃなしかい」と声をかけたのです。
はじめは、ぼうっとしていたおせんさんが「あっ!! お、およねさんかえ」といって手をさしのべました。
それは娘さんにひきとられていった仲よしだったあのよねさんだったのです。
めぐみさんはびっくりしました。おせんさんの気おくは残っていたのです。

施設に近い町にすむおよねさんは、それから週2回ディサービスに来るようになりました。
そして2人で話をしながら、花だんや空地の草とりをするようになりました。
おせんさんの 徘徊もいつかなくなり、しっかりしてきました。
めぐみさんがお茶を持っていくと、「ここは土がいいからあき地にしとくのはもったいないね、
ミニトマトでも作ったらどうかね」 2人の顔は汗でいきいきと輝やいていました。

今日は入所している人達の検診日です。およねさんが娘さんに送られてくると、ちょうどおせんさんが病院に行く
バスにのりこむところでした。「あ、およねさんよう、おれ検診に行くから待ってておくれやな、すぐ帰えるからな」
そしてニコッと笑ったのです。おせんさんがここに来てはじめて見せた笑顔でした。
めぐみさんはおどろきと感動で胸があつくなりました。

仕事が一段落して、みんながお茶をのみながらおよねさんからおせんさんの話をきいています。
話が終るとみんなふうっと深いため息をつきました。
「68年間もそんなつらい思いを胸にしまっていたなんて、苦しかったでしょうね」
「およねさんが来てから、おせんさんはすごくかわったよね」
「ほんと、人は人とかかわりあってこそ生きていけるのね。
それがなかったらさびしい人生になるのね」
みんなは雨にぬれているアジサイを見ながら心からそう思ったのでした。
おしまい
*紙芝居制作者の赤澤節子さん

荻原梨絵さん(左)が執筆した処女作が明日発売されます。
妹の荻原紗季さんといっしょに来館され、寄贈いただきました。

ホセ・リカルド・イグレシアス・ゴメスの生涯 第一部 (MyISBN - デザインエッグ社)
Amazonで扱っています。

イグレシアス・ゴメスは詩才を認められて大詩人マチャードの弟子になり、ロルカやアルベルティ、ネルーダと交流します。
しかし、スペイン内戦となり従兄弟に襲われて負傷してフランスに逃れ、アラゴンやエリュアールと知り合う。
そこで第二次世界大戦が始まり、ナチス占領下のパリでの暮らしが始まるが……

ナチスに追われたゴメスがパリの市井の人々の行動で助けられるエピソードが感動的。
いろいろな人との出会いで生まれた彼の喜びと悲しみが綴られます。

第二部の執筆も進んでいます。


はあちゃんとカオルさん
作·画 赤澤節子

昭和30年頃は外部から松代に入った人達を「来たりもんのくせに」とか「よそもん」と呼び、
「なかをかんまされるから」と、なかなか受け入れてもらえませんでした。
けだるさが感じられる程、静かな町の通りでしたが、つたやさんの店の中だけはちがいました。

「姉ちゃん、はやくしとくれや、カリント100匁いよ!」
「おっしゃん、おめさんよりオラの方が先だんか!」
「このもんは、いつもそうなのよ!!」「おい、コッペパン20個まだかい」
もう毎日、お客さんは店員さんをつかまえるのに殺気だっていました。

さて、この頃の松代町には今も思い出話(80代以上)になると必らず出て来る有名人が二人いました。
はあちゃんとカオルさんです。はあちゃんは当時の絵葉書にもなった病院の子どもでした。
木造2階建で大きなガラス窓にかこまれた産婦人科と外科の入院設備もある明るい病院でした。

昔のことなので内科の患者も多く、タタミの待合室はお茶の間サロンのようです。
番号札もないので「次の人」と呼ばれると、こすい人はさっと入っていき、
先に待っていた人とトラブルになりました。

家は東条なので、朝、お父さんは自家用車で出勤、そのあと、まだ子供のはあちゃんが
お盆をハンドルがわりにまわしながら「ブーブー」とさけびながら走って病院まで行きます。
診察がはじまると「ハアちゃんに外に行って遊でおいで」
ハアちゃんはブーブー言いながら外にでていきます。

大きくなったはあちゃんは自動車、特にバスが大好きです。オケのタガのハンドルを左右に
廻しながら「ブーブー」と病院の近くにあるバス会社まで毎日走って来ました。
村の人達はそんなハアちゃんに出合と「おや、もうお出かけかい。気をつけて行くんだよ」
と声をかけました。

今日も長野行のバスは満席で出発しました。寺尾の橋を渡ってまもなく、誰かが「おい、ありゃ何だい?」
バスのはるか後に小さい砂ぼこりがあがっていて、それがどんどん近づいているのです。
「馬じゃなしかい」「馬にしちゃ砂ぼこりが小せえぞ」「え?こりゃたまげた。はあちゃんだし」
バスの中は大さわぎになりました。

バスが見えると古戦場の近くで畑仕事をしていた人達があわてて道路に広げたムシロをどかします。
「おうおう、またはあちゃんだぞ」「はええなァ」。はあちゃんはバスの後の
お釡から出る煙を右に左によけながら、ゆうゆうと走ってくるのです。

ところが古戦場をすぎた頃からバスの走りがおそくなりました。「運転手さん、はあちゃんに
追いつかれるぞ」そしてバスはとうとう小島田の停留所でエンコしてしまいました。
運転手さんはお釜にマキをくべながらウチワでバタバタお釜の中に風を送ります。
小島田はなぜか、はあちゃんの折り返し地点。なかなかエンジンがかからないバスを
横目で見ながらはあちゃんはひとりで松代へむかって走って戻っていきました。

ある日、運転手の春日さんがポンコツジープから取った本物のハンドルを持って来ました。
「おい、はあちゃん、運転免許証をやるぞ。おれよりバックがうまくなったからな」
はあちゃんは一世一代の笑顔を見せました。
春日さんは「おやじさんに見せてやりたいいい顔だったよ」とよく言ってました。

もうひとりは「おもらいのカオルさん」男の人です。
昔から松代の人ですが、どこに家があるのか誰も知りません。
弁護士の資格を持っているとか郵便配達をやったことがあるというのは、どうやら本当らしい
のですが、いつもナベや水筒・弁当箱など身につけ、1日中歩いているのです。
「カオルさん、この野菜持っておいきや」と生の人参、ジャガイモなど出したら、
「この寒空に煮て食えっていうのかい。あんたは思いやりってものがないのかい!」
と言われた人もいました。

今日、カオルさんは石井さんちでお昼をもらおうと、寄ったみたいです。
石井さんの奥さんの話。まあ、おめさん、きいておくれや。昼にな、カオルさんがやってきた
のいよ、玄関へ出なかったら「この家留守かいや」って裏口の木戸から入ってくるでもや、
持っていた茶わんのめしをだしたら、「めしはあるから、おつけをおくれ」ってナベをだすのいよ。
本当にずねえじゃなしかい。明日あたりおめさんちの方に行くから気をおつけやな。

ここは上野駅です。終戦後間もないので、うす暗くだだっぴろい上野駅の講内はアメリカ兵や
大きな荷物を背負ったヤミ屋、ルンペン、くつみがきの少年達でごったがえしていました。
小学校1年の私は夏休みなのでお父さんと松代に行きます。これから8時間の汽車の旅が始まるのです。
そこへカオルさんがあらわれました。お父さんの前に来ると、持っていたタバコの吸いがらの入っ
たカンの中から少し長めの吸いがらを取り出し、「ダンナ、お近づきのしるしに一服どうぞ」
と差し出したのです。カオルさんは東京〜松代間をフリーパスで往復していたのです。
松代駅改札口も風のように通りぬけたのです。

おばあちゃんの家ではお昼ごはんは必らずひとり分残しておき、ハエがつかないようにザルをかぶせておきます。
「おばあちゃん、これ誰の?」「カオルさんが来るといけないから、とっておくんだよ」
へえ、カオルさんて汽車にただで乗れるし、えらいんだねえ。私は本気でそう思っていました。

私は松代に来るとひと月近く友達がいないので淋しかったのです。
近所の子ども達からこれをカオルさんにわたさないと遊んでやらないと言われ、
きれいな紙につつんだ小石のアメを渡してしまったのです。
カオルさんはうれしそうに受け取りました。
その日からカオルさんに会うのがこわくて外には出られませんでした。
ところがある日、おつかいに行く途中ばったり会ってしまったのです。
カオルさんは「うそをついてはいけないよ」とひと言いうと行ってしまいました。

昭和28年、小学校5年の12月、父のとつぜんの死で母は私をつれ松代に戻ってきました。
日本橋での生活や教育と松代での生活や学校のギャップ、それが「きたりもん」のくせに
生意気と受けとられ、いじめにエスカレートし、ついには耳を切られるまでになりました。
ある日、私はぼうっとしてお城の前の線路のまん中にたっていました。
「もうじき電車がくるよ、こっちへ来なさい」と声をかけたのはカオルさんでした。
ふみ切りから出ると同時に須坂行の電車が通りすぎました。

いつごろからか、まずはあちゃんの姿がバス会社から消えました。
見知らぬおじいさんが運転手さんに「最近はあちゃんの姿が見えないネ、いないと何か
さびしいよ」「ああ、はあちゃんネ、父親が亡くなって、おばあちゃんが東京の実家に
つれて行ったってさ。東京には大きな病院があるからそこで見てもらうそうだよ。」
カオルさんも、アメリカ軍払い下げのラシャの重いオーバーを着て、
のったり歩いていたのを最後に見かけなくなりました。
(おしまい)
*紙芝居制作者の赤澤節子さん
それに続いて、「現存」(presence)という最後の章になる。ポワロが一九六九年に訪問し撮影したイスラ・ネグラでの在りし日のネルーダその人のポートレート。同じように左ページにはネルーダの詩や散文が配置されている。この「不在」と「思い出」の章で大半を占められた本書にもかかわらず、この僅か二〇ページほどの「現存」の章が際立って存在感をもつ構成になっている。リードは序文のなかで次のように書いている。
(ネルーダのいくつもの住居空間のことについて)「彼はこれらのどの家にも自身のオーラを着せ、彼の移ろいやすい存在(presence)を埋め込んだ。そのために、彼のいない部屋はネルーダを呼び出し、指し示す。ポワロの写真によって、そのことが私にはっきりと実体あるものとなった。」
*
ネルーダ没後、イスラ・ネグラの別荘は軍の管理下に置かれ、敷地内は長年にわたり立ち入り禁止だった。それにもかかわらず、世界中からネルーダの愛読者が訪れては、敷地を囲む板塀にメッセージやネルーダの詩句を書き込む人々が後を絶たなかったという。先に挙げたマルケスの著書が伝えるところによれば、とりわけ若者の恋人たちが多かったらしい。「恋する者たちが板にそらで書き残した詩をじっくり整理していったら、ネルーダの詩が全部出来上がることだろう」とまで書いている。
ポワロの写真文集にも、この板塀を撮ったものが数葉収められている。当のポワロ自身、板に書きつけられたネルーダの詩句に着想を得て、この写真文集を編んだものであるらしい。それらの詩句の一節をポワロが巻頭文のなかで引用し、続けてこう書いている。「数ヵ月前に撮影した板塀の写真を見ると、そこには風雨によって消えかかった詩句があった。〝There’s no forgetting.〟と。これは詩人と人々との間の対話が継続していたことを私に教えてくれた。」ポワロの抑制された文章の行間に、ネルーダの不滅性とでも呼びたくなる存在感が滲み出てくるようだ。
この巻頭文に引用されたのと同じ詩句が、板塀の写真の左ページにも載っており、原文のスペイン語も併記されている。本書に典拠の記載はないが、大島博光記念館の館長大島朋光氏に問い合わせたところ、『大いなる歌 第三巻』(一九五〇年)所収の「ラファエル・アルベルティへ」の一節であることがわかった。スペイン語、英訳と共に、大島博光訳(『ネルーダ詩集』 角川書店 一九七二年 所収)を以下に併記しておきたい。
Y no hay olvido,no hay invierno
que te borre,hermano fulgurante,de
los labios del pueblo.
There’s no forgetting, there’s no winter
that will wipe your name,shining brother,from
the lips of the people.
忘却も 冬も きみを消しさることはできない
輝かしい兄弟よ 人民のくちびるよ
(長野詩人会議『狼煙』第102号)
(ネルーダのいくつもの住居空間のことについて)「彼はこれらのどの家にも自身のオーラを着せ、彼の移ろいやすい存在(presence)を埋め込んだ。そのために、彼のいない部屋はネルーダを呼び出し、指し示す。ポワロの写真によって、そのことが私にはっきりと実体あるものとなった。」
*
ネルーダ没後、イスラ・ネグラの別荘は軍の管理下に置かれ、敷地内は長年にわたり立ち入り禁止だった。それにもかかわらず、世界中からネルーダの愛読者が訪れては、敷地を囲む板塀にメッセージやネルーダの詩句を書き込む人々が後を絶たなかったという。先に挙げたマルケスの著書が伝えるところによれば、とりわけ若者の恋人たちが多かったらしい。「恋する者たちが板にそらで書き残した詩をじっくり整理していったら、ネルーダの詩が全部出来上がることだろう」とまで書いている。
ポワロの写真文集にも、この板塀を撮ったものが数葉収められている。当のポワロ自身、板に書きつけられたネルーダの詩句に着想を得て、この写真文集を編んだものであるらしい。それらの詩句の一節をポワロが巻頭文のなかで引用し、続けてこう書いている。「数ヵ月前に撮影した板塀の写真を見ると、そこには風雨によって消えかかった詩句があった。〝There’s no forgetting.〟と。これは詩人と人々との間の対話が継続していたことを私に教えてくれた。」ポワロの抑制された文章の行間に、ネルーダの不滅性とでも呼びたくなる存在感が滲み出てくるようだ。
この巻頭文に引用されたのと同じ詩句が、板塀の写真の左ページにも載っており、原文のスペイン語も併記されている。本書に典拠の記載はないが、大島博光記念館の館長大島朋光氏に問い合わせたところ、『大いなる歌 第三巻』(一九五〇年)所収の「ラファエル・アルベルティへ」の一節であることがわかった。スペイン語、英訳と共に、大島博光訳(『ネルーダ詩集』 角川書店 一九七二年 所収)を以下に併記しておきたい。
Y no hay olvido,no hay invierno
que te borre,hermano fulgurante,de
los labios del pueblo.
There’s no forgetting, there’s no winter
that will wipe your name,shining brother,from
the lips of the people.
忘却も 冬も きみを消しさることはできない
輝かしい兄弟よ 人民のくちびるよ
(長野詩人会議『狼煙』第102号)
では写真の内容について。この太平洋を眼下にしたイスラ・ネグラの別荘の様子をポワロの写真で見るかぎり、さながら海の博物館といった趣がある。同じ角度で傾いている何体もの女神の船首像が並んでいたり、巨大な舵や、船の模型や貝殻の絵が所せましと置かれている。
この別荘をネルーダは「アームチェアの航海」と呼んでいたと、アレステア・リードは本書の序文で書いている。またネルーダ自身『回想録』のいくつかの箇所で、イスラ・ネグラの家やそのコレクションについて書き留めているが、なかでも「壜と仮面」や「本と貝殻」と題する短章を読むと、この写真集に収められた事物の由来やエピソードを垣間見ることができる。ひとつだけ例をあげると、ネルーダのお気に入りの、フランスの小型の船についていたマリア・セレステと呼ばれる、ある女性をかたどった船首像について、こんなふうに書いている。
「小さな女で、第二帝制時代の彼女の美しい衣装に彫られた風の痕跡で飛んでいるように見える。彼女の両の頬のえくぼのうえでは、磁器の目が水平線を見詰めている。そして、毎年冬になると、奇妙に思われるにしても、冬中この両の目が泣いている。誰にもその訳は理解できない。たぶん、日焼けした木が湿気を集めていくらか濡れるためだろう。だが、確かに、冬になるとこれらのフランスの目が泣いて、私は毎年マリア・セレステの小さな顔を伝って可愛らしい涙が流れるのを目にするのだ。」(『ネルーダ回想録』 本川誠二訳 三笠書房 一九七七年 P.296)
事物にそそぐ眼差しに詩情が滲み出ている。
この『回想録』のなかでも幾度か登場するガルシア=マルケスは、ネルーダの詩とコレクションについてこう書いている。
「自然を摑もうとするかれ(注:ネルーダ)の情熱は、単にその偉大な詩にあらわれているだけではなかった。それは気狂いじみたほら貝とか、船首飾りとか、恐ろしげな蝶とか、エキゾチックなカップやグラスの収集にも向かったのである。」(『戒厳令下チリ潜入記』 後藤政子訳 岩波新書 一九八六年)
ポワロの撮ったイスラ・ネグラの博物館のような部屋の写真は、マルケスが書いたままの雰囲気を伝えている。
次に「思い出(Remembrance)」という章が続く。これはネルーダゆかりの人々による長短様々な回想記を集めたものである。先の巻頭文によると、マチルデの取り持ちでネルーダの旧友の、チリで最重要の写真家である(が、今では全く忘れられているが、とポワロは書いている)ホルヘ・サウル(Jorge Saure)という人物を通して、人づてに徐々に知るに及んだ人々であるらしい。ポワロはそれらの人物に直接会い、一人一人のポートレートを撮影し、ネルーダについての回想記を収集した。
登場する人物は必ずしも著名人ばかりというわけではなく、ネルーダが長年お世話になった腕のいい大工さんや、いかにもアンデスのネイティヴ・アメリカンといった風貌の、おそらく無名の、ネルーダの一女性愛読者も入っているところなど、この人民に寄り添う詩人の面影をよく伝えている。計二一人にものぼる名前を見てみると、著名人としては詩人のラファエル・アルベルティや、小説家のフリオ・コルタサル、ホセ・ドソノなどの名が目につく。またこの写真文集が刊行された時点で鬼籍に入っているマチルデと、ネルーダの前妻デリア・デル・カリルのページもある。
(つづく)
(長野詩人会議『狼煙』102号)
この別荘をネルーダは「アームチェアの航海」と呼んでいたと、アレステア・リードは本書の序文で書いている。またネルーダ自身『回想録』のいくつかの箇所で、イスラ・ネグラの家やそのコレクションについて書き留めているが、なかでも「壜と仮面」や「本と貝殻」と題する短章を読むと、この写真集に収められた事物の由来やエピソードを垣間見ることができる。ひとつだけ例をあげると、ネルーダのお気に入りの、フランスの小型の船についていたマリア・セレステと呼ばれる、ある女性をかたどった船首像について、こんなふうに書いている。
「小さな女で、第二帝制時代の彼女の美しい衣装に彫られた風の痕跡で飛んでいるように見える。彼女の両の頬のえくぼのうえでは、磁器の目が水平線を見詰めている。そして、毎年冬になると、奇妙に思われるにしても、冬中この両の目が泣いている。誰にもその訳は理解できない。たぶん、日焼けした木が湿気を集めていくらか濡れるためだろう。だが、確かに、冬になるとこれらのフランスの目が泣いて、私は毎年マリア・セレステの小さな顔を伝って可愛らしい涙が流れるのを目にするのだ。」(『ネルーダ回想録』 本川誠二訳 三笠書房 一九七七年 P.296)
事物にそそぐ眼差しに詩情が滲み出ている。
この『回想録』のなかでも幾度か登場するガルシア=マルケスは、ネルーダの詩とコレクションについてこう書いている。
「自然を摑もうとするかれ(注:ネルーダ)の情熱は、単にその偉大な詩にあらわれているだけではなかった。それは気狂いじみたほら貝とか、船首飾りとか、恐ろしげな蝶とか、エキゾチックなカップやグラスの収集にも向かったのである。」(『戒厳令下チリ潜入記』 後藤政子訳 岩波新書 一九八六年)
ポワロの撮ったイスラ・ネグラの博物館のような部屋の写真は、マルケスが書いたままの雰囲気を伝えている。
次に「思い出(Remembrance)」という章が続く。これはネルーダゆかりの人々による長短様々な回想記を集めたものである。先の巻頭文によると、マチルデの取り持ちでネルーダの旧友の、チリで最重要の写真家である(が、今では全く忘れられているが、とポワロは書いている)ホルヘ・サウル(Jorge Saure)という人物を通して、人づてに徐々に知るに及んだ人々であるらしい。ポワロはそれらの人物に直接会い、一人一人のポートレートを撮影し、ネルーダについての回想記を収集した。
登場する人物は必ずしも著名人ばかりというわけではなく、ネルーダが長年お世話になった腕のいい大工さんや、いかにもアンデスのネイティヴ・アメリカンといった風貌の、おそらく無名の、ネルーダの一女性愛読者も入っているところなど、この人民に寄り添う詩人の面影をよく伝えている。計二一人にものぼる名前を見てみると、著名人としては詩人のラファエル・アルベルティや、小説家のフリオ・コルタサル、ホセ・ドソノなどの名が目につく。またこの写真文集が刊行された時点で鬼籍に入っているマチルデと、ネルーダの前妻デリア・デル・カリルのページもある。
(つづく)
(長野詩人会議『狼煙』102号)
ネルーダの不滅性──ある写真文集から
重田暁輝
今手元に『パブロ・ネルーダ 不在と現存』(Pablo Neruda Absence and Presence W.W.Norton&Company,New York,1990)と題する写真文集がある。以前、神保町にあった小さな洋書古書店の均一棚で見つけたものだ。著者はルイス・ポワロ(Luis Poirot)とある。英訳者のアレステア・リード(Alastair Reid 1926-2014)は、ウィキペディアによると、スコットランドの詩人、ラテン・アメリカ文学者であり、ボルヘスやネルーダの訳者としても知られているとの記載がある。
ルイス・ポワロについては、スペイン語表記ながらこれもウィキペディアによれば、一九四〇年チリ・サンティアゴ生まれの写真家。歌手のヴィクトル・ハラの協力者、友人であり、一九六九年から翌七〇年にかけて、サルヴァドル・アジェンデの大統領選挙での公式写真家を務めた。一九七三年九月の軍事クーデターの際には、襲撃直後の大統領府の様子をカメラに納めた。その後フランスやスペインで写真家として活動した。独裁政権下での帰国、渡米を挟み、二〇〇五年にチリに再度帰国、現在も健在であるらしい。
ちなみにネットで検索したところ、横浜美術館で一九九六年に「ルイス・ポワロ写真展」というものが開催されているから、日本でまったく無名というわけではなさそうだが、それにしては情報に乏しい感がある。
さて本書の構成について。前半は「不在(Absence)」と章立てられた、ネルーダ亡き後の、イスラ・ネグラの別荘の外観、内装の写真の数々。それに若干ながら廃墟のままのヴァルパライソのネルーダの自宅と、サンティアゴの森の中にあるもうひとつの別荘の写真も数葉ある。この章が本書の半分以上を占める。
ページ構成は右が写真で、左ページには、その写真と照応するネルーダの詩や散文の一節が原文のスペイン語と英語の対訳で載っている。所々にネルーダの未亡人マチルデ・ウルティアや先のアレステア・リードによるコメントが載っていることもある。
この写真と文章の併置については、ポワロ自身による巻頭文「不在と現存」のなかで「テクストを読むか写真を見るか。理想的に、両方のことを同時にできる方法を探した」と、その意図を書いている。
時は一九八二年、マチルデの助力のもと、数日にわたってイスラ・ネグラの別荘を自由に撮影することが許可された。一九七三年のクーデター時に破壊されて以降、軍に占拠されたヴァルパライソの廃墟のままの自宅は、マチルデの亡くなる直前の一九八五年に撮影の機会を得た。その廃墟についてポワロは、「野蛮の証拠」として修復を望まなかったのだというマチルデ自身の言葉を伝えている。
(つづく)
(長野詩人会議機関誌『狼煙』102号)
重田暁輝
今手元に『パブロ・ネルーダ 不在と現存』(Pablo Neruda Absence and Presence W.W.Norton&Company,New York,1990)と題する写真文集がある。以前、神保町にあった小さな洋書古書店の均一棚で見つけたものだ。著者はルイス・ポワロ(Luis Poirot)とある。英訳者のアレステア・リード(Alastair Reid 1926-2014)は、ウィキペディアによると、スコットランドの詩人、ラテン・アメリカ文学者であり、ボルヘスやネルーダの訳者としても知られているとの記載がある。
ルイス・ポワロについては、スペイン語表記ながらこれもウィキペディアによれば、一九四〇年チリ・サンティアゴ生まれの写真家。歌手のヴィクトル・ハラの協力者、友人であり、一九六九年から翌七〇年にかけて、サルヴァドル・アジェンデの大統領選挙での公式写真家を務めた。一九七三年九月の軍事クーデターの際には、襲撃直後の大統領府の様子をカメラに納めた。その後フランスやスペインで写真家として活動した。独裁政権下での帰国、渡米を挟み、二〇〇五年にチリに再度帰国、現在も健在であるらしい。
ちなみにネットで検索したところ、横浜美術館で一九九六年に「ルイス・ポワロ写真展」というものが開催されているから、日本でまったく無名というわけではなさそうだが、それにしては情報に乏しい感がある。
さて本書の構成について。前半は「不在(Absence)」と章立てられた、ネルーダ亡き後の、イスラ・ネグラの別荘の外観、内装の写真の数々。それに若干ながら廃墟のままのヴァルパライソのネルーダの自宅と、サンティアゴの森の中にあるもうひとつの別荘の写真も数葉ある。この章が本書の半分以上を占める。
ページ構成は右が写真で、左ページには、その写真と照応するネルーダの詩や散文の一節が原文のスペイン語と英語の対訳で載っている。所々にネルーダの未亡人マチルデ・ウルティアや先のアレステア・リードによるコメントが載っていることもある。
この写真と文章の併置については、ポワロ自身による巻頭文「不在と現存」のなかで「テクストを読むか写真を見るか。理想的に、両方のことを同時にできる方法を探した」と、その意図を書いている。
時は一九八二年、マチルデの助力のもと、数日にわたってイスラ・ネグラの別荘を自由に撮影することが許可された。一九七三年のクーデター時に破壊されて以降、軍に占拠されたヴァルパライソの廃墟のままの自宅は、マチルデの亡くなる直前の一九八五年に撮影の機会を得た。その廃墟についてポワロは、「野蛮の証拠」として修復を望まなかったのだというマチルデ自身の言葉を伝えている。
(つづく)
(長野詩人会議機関誌『狼煙』102号)
先日は長野にてお世話になりました。記念館も訪ねることができて幸せでした。ありがとうございました。
博光様へのインタビュー、その後、山本隆子様とも再度交換するなどして、結果としここに同封させていただきましたように修正いたしました。ご多忙のところ恐縮ですが、ご確認をお願いいたします。
修正点は三点ありまして、
一、山本さんの発言部分、関連部分をなくしました。これは山本さんのつよいご希望でもあり、当初の趣旨通り「稲木のインタビュー」という形におさめたいということです。私としても了解いたしました。
二、兄重治氏の党除名に関連しての(戦後のこと)部分、直接、インタビューの主題とは無関係のような部分でもあり、はぶくことにします。
これは私の一存でもあり、今回のインタビューがもたれた当時の話題、つよい関心事であったわけですが、インタビューに入る前の雑談のおもむきもあり、はぶいたほうがいいと考えます。
もちろん重要なご発言でもあり、今後、何かの機会に紹介させていただきたいと思っております。
三、私個人に関わる内容の部分が少しありましたので、できるかぎりそれははぶきました。
以上のこと、どうかよろしくお願いいたします。
いただいた吉田隆子についてのDVD、ようやく視聴いたしました。機器の不調で、結局、新調し、視ることができました。買いかえはいずれ必要だったのです。
鈴子の「鍬」の譜面の表紙が出ましたが、説明はなかったですが、吉田隆子と鈴子の交流は注目しておきたいと思います。当時の発表名が一田アキだったので、番組の制作者もわかりにくかったのかもしれません。
いずれにしても貴重な映像で、ぜひ視たいと願っていたものですから、ご恵送いただき、心より感謝しております。ありがとうございました。
来春、コールサック社から出版となりました著作の題は「詩人中野鈴子を追って」となりそうです。出版までまだ多少時間がありますが、原稿に関係していろいろ苦心しております。
皆様方のご健康を祈ります。福井も寒くなってまいりました。
十一月十四日
稲木信夫
大島朋光様
(2013年11月、大島博光インタビュー記録の原稿を同封して戴きました)
博光様へのインタビュー、その後、山本隆子様とも再度交換するなどして、結果としここに同封させていただきましたように修正いたしました。ご多忙のところ恐縮ですが、ご確認をお願いいたします。
修正点は三点ありまして、
一、山本さんの発言部分、関連部分をなくしました。これは山本さんのつよいご希望でもあり、当初の趣旨通り「稲木のインタビュー」という形におさめたいということです。私としても了解いたしました。
二、兄重治氏の党除名に関連しての(戦後のこと)部分、直接、インタビューの主題とは無関係のような部分でもあり、はぶくことにします。
これは私の一存でもあり、今回のインタビューがもたれた当時の話題、つよい関心事であったわけですが、インタビューに入る前の雑談のおもむきもあり、はぶいたほうがいいと考えます。
もちろん重要なご発言でもあり、今後、何かの機会に紹介させていただきたいと思っております。
三、私個人に関わる内容の部分が少しありましたので、できるかぎりそれははぶきました。
以上のこと、どうかよろしくお願いいたします。
いただいた吉田隆子についてのDVD、ようやく視聴いたしました。機器の不調で、結局、新調し、視ることができました。買いかえはいずれ必要だったのです。
鈴子の「鍬」の譜面の表紙が出ましたが、説明はなかったですが、吉田隆子と鈴子の交流は注目しておきたいと思います。当時の発表名が一田アキだったので、番組の制作者もわかりにくかったのかもしれません。
いずれにしても貴重な映像で、ぜひ視たいと願っていたものですから、ご恵送いただき、心より感謝しております。ありがとうございました。
来春、コールサック社から出版となりました著作の題は「詩人中野鈴子を追って」となりそうです。出版までまだ多少時間がありますが、原稿に関係していろいろ苦心しております。
皆様方のご健康を祈ります。福井も寒くなってまいりました。
十一月十四日
稲木信夫
大島朋光様
(2013年11月、大島博光インタビュー記録の原稿を同封して戴きました)
中野鈴子の詩に曲をつける動き
本書に「『中野鈴子の詩による創作曲集』後記」があり、中野鈴子の詩に曲をつける動きが一九七〇年代にあったことを記している。「なんと美しい夕焼けだろう」を作曲された東京の松橋佳子さんとの連絡がとれなかったと書いているが、三十年近くたって、二〇〇〇年の春に、坂井市丸岡町の声楽家牧野恵子さんによって偶然に連絡がつき、松橋さんからお手紙と著書「柳兼子伝」もいただいた。松橋さんは一九三四年生れの方で、今もご健在とのこと。
鈴子詩の作曲は、一九三二年に吉田隆子作曲の「鍬」、佐藤敏直作曲の「味噌汁」などがあるが、当時のプロレタリア音楽家同盟(PM)による音楽会で発表された。歌ったのがPM委員長になって間のない関鑑子で、関は戦後のうたごえ運動の創始者といわれ、最近の三輪純永『グレートラブ」(新日本出版社)でその生涯がたどられた。また、NHKのETV特集では、二〇一二年九月に「吉田隆子を知っていますか─戦争・音楽・女性」が放送された。これに鈴子の名は出ていないが、「鍬」などの楽譜の表紙が出ていた。
鈴子の詩に感銘して、その作曲は、さらに二〇〇八年にいたって、福岡県在住の音楽家藤原富枝さんによって始められ、そのオリジナル曲は十六曲にも及び、そのいくつかは、二〇〇九年に丸岡町で、中野鈴子を歌う会、まるおかローレル合唱団などによって発表された。鈴子詩の曲が広まることを誰よりも熱心に願っていた夫の粟田栄氏は、現実に広まっていくさなかに亡くなり、私たちを悲しませた。粟田氏が福井県でのうたごえ運動にも関わっていた関係もあり、このほど、関係深い音楽家池辺晋一郎氏が鈴子の詩の作曲にお力を添えられて、近く発表とのことで、鈴子詩の心が広く人々のものになり、とりわけ若い世代のものとなっていくのが見えている。
なお、鈴子詩をもとに劇化の動きもあることは、その一端が本書の文中にもある。これの上演はいずれのことか、期待されているのである。
少し長いあとがきとなったが、本書は私自身のことに触れているし、私の鈴子論の一部始終、発展の経緯をまとめたようなところもあるので、補足を加えることであえて佐相氏に許してもらった。なお、最後ながら、元NHKラジオアナウンサーの西橋正泰氏をはじめ、福井県合同読書会の際の県立図書館の芹川悦子さん、ゆきのした文化協会、他の方々のご協力に感謝します。後は、一人でも多くの読者を得て、さらに中野鈴子への理解を広めていただけることを願うのみである。
二〇一四年二月 稲木信夫
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』)
*ちょうど11年前の11月にNHK「吉田隆子を知っていますか」をレストランはなやで鑑賞しました。
戦争の時代、戦争に反対してプロレタリア音楽同盟に参加、自ら楽団を作って指揮棒を振り大成功をおさめる。ところが治安維持法による投獄を4回もうけ、最後は転向しないため5ヶ月も勾留され、体を壊して保釈。取り調べ室には拷問された小林多喜二の写真がたくさん貼ってあって、みせしめのように無言の圧力をうけたとプークの仲間だった女性が証言していました。度々の投獄にも屈せず民衆のための音楽を追求し続けた姿に一同が感激し、拍手を送りました。
本書に「『中野鈴子の詩による創作曲集』後記」があり、中野鈴子の詩に曲をつける動きが一九七〇年代にあったことを記している。「なんと美しい夕焼けだろう」を作曲された東京の松橋佳子さんとの連絡がとれなかったと書いているが、三十年近くたって、二〇〇〇年の春に、坂井市丸岡町の声楽家牧野恵子さんによって偶然に連絡がつき、松橋さんからお手紙と著書「柳兼子伝」もいただいた。松橋さんは一九三四年生れの方で、今もご健在とのこと。
鈴子詩の作曲は、一九三二年に吉田隆子作曲の「鍬」、佐藤敏直作曲の「味噌汁」などがあるが、当時のプロレタリア音楽家同盟(PM)による音楽会で発表された。歌ったのがPM委員長になって間のない関鑑子で、関は戦後のうたごえ運動の創始者といわれ、最近の三輪純永『グレートラブ」(新日本出版社)でその生涯がたどられた。また、NHKのETV特集では、二〇一二年九月に「吉田隆子を知っていますか─戦争・音楽・女性」が放送された。これに鈴子の名は出ていないが、「鍬」などの楽譜の表紙が出ていた。
鈴子の詩に感銘して、その作曲は、さらに二〇〇八年にいたって、福岡県在住の音楽家藤原富枝さんによって始められ、そのオリジナル曲は十六曲にも及び、そのいくつかは、二〇〇九年に丸岡町で、中野鈴子を歌う会、まるおかローレル合唱団などによって発表された。鈴子詩の曲が広まることを誰よりも熱心に願っていた夫の粟田栄氏は、現実に広まっていくさなかに亡くなり、私たちを悲しませた。粟田氏が福井県でのうたごえ運動にも関わっていた関係もあり、このほど、関係深い音楽家池辺晋一郎氏が鈴子の詩の作曲にお力を添えられて、近く発表とのことで、鈴子詩の心が広く人々のものになり、とりわけ若い世代のものとなっていくのが見えている。
なお、鈴子詩をもとに劇化の動きもあることは、その一端が本書の文中にもある。これの上演はいずれのことか、期待されているのである。
少し長いあとがきとなったが、本書は私自身のことに触れているし、私の鈴子論の一部始終、発展の経緯をまとめたようなところもあるので、補足を加えることであえて佐相氏に許してもらった。なお、最後ながら、元NHKラジオアナウンサーの西橋正泰氏をはじめ、福井県合同読書会の際の県立図書館の芹川悦子さん、ゆきのした文化協会、他の方々のご協力に感謝します。後は、一人でも多くの読者を得て、さらに中野鈴子への理解を広めていただけることを願うのみである。
二〇一四年二月 稲木信夫
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』)
*ちょうど11年前の11月にNHK「吉田隆子を知っていますか」をレストランはなやで鑑賞しました。
戦争の時代、戦争に反対してプロレタリア音楽同盟に参加、自ら楽団を作って指揮棒を振り大成功をおさめる。ところが治安維持法による投獄を4回もうけ、最後は転向しないため5ヶ月も勾留され、体を壊して保釈。取り調べ室には拷問された小林多喜二の写真がたくさん貼ってあって、みせしめのように無言の圧力をうけたとプークの仲間だった女性が証言していました。度々の投獄にも屈せず民衆のための音楽を追求し続けた姿に一同が感激し、拍手を送りました。
詩人中野鈴子を追う〜あとがきにかえて〜
……
本書に、「すずこ記」執筆中にお訪ねしてお話をうかがった大島博光、松田解子の両先生の言葉を収めさせていただいた。大島先生のお話は、本書で初めて公開されるものである。玄関を上がるとすぐ書斎であり、ほんとうに先生に歓迎されて話は多岐にわたった。何の偉ぶりも無かった。私の『詩人中野鈴子の生涯』を読んでおられたとはいえ、わが生徒のように愉快そうに話された。そのうちお寿司が届けられた。私たちはほぐれた心持ちでそれを戴いた。大島先生のお宅まで案内してくださった詩人会議の山本隆子さん、米原幸雄氏、インタビュー中、普段の先生をよく知る山本さんのお口ぞえが無かったら、思うようにならなかったかも知れず、心から感謝している。また、本書での記録化、発表に当たって、ご子息で大島博光記念館館長の大島朋光氏のお力添えをいただいたことを心から感謝します。
松田解子先生への訪問は、私一人であった。事前に電話などもしていたが、途中でお宅までのルートがわからなくなってタクシーを拾い、それからどうしようかと迷っていると、車の止まった辺りからわずかのところに先生の自宅があったのだった。選挙中だったか、通りに面した窓の下に何枚も写真入りのポスターが貼ってあった。そして、右手の玄関の戸の前で、年配の人が一人、うずくまるようにしてしゃがんでいて、それが松田先生だった。私が近づくと振り返られた。手には原稿用紙を挟んだ紙バサミと鉛筆を持っていて、私をそのようにして待っていてくださったのだった。紙には「稲木来」との文字が見えた。先生の仕事場の家は、自宅から百メートルほども先にあり、私は先生に頼まれるままに腕を組んでそこへ向かった。足取りが弱かった。書斎で二人だけの話し合いとなった。先生は私の「詩人中野鈴子の生涯」を手に、熱心に話された。中野鈴子を尊敬していると言われたが、まさにそのように鈴子を語ってくださり、何の疲れも見せなかった。春のひとときである。ご高齢だが、その八ヵ月後に亡くなるとは思えなかった。
両先生から詩人中野鈴子への尊敬の心が伝わったが、これはインタビュー記録にあるとおりである。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』)
……
本書に、「すずこ記」執筆中にお訪ねしてお話をうかがった大島博光、松田解子の両先生の言葉を収めさせていただいた。大島先生のお話は、本書で初めて公開されるものである。玄関を上がるとすぐ書斎であり、ほんとうに先生に歓迎されて話は多岐にわたった。何の偉ぶりも無かった。私の『詩人中野鈴子の生涯』を読んでおられたとはいえ、わが生徒のように愉快そうに話された。そのうちお寿司が届けられた。私たちはほぐれた心持ちでそれを戴いた。大島先生のお宅まで案内してくださった詩人会議の山本隆子さん、米原幸雄氏、インタビュー中、普段の先生をよく知る山本さんのお口ぞえが無かったら、思うようにならなかったかも知れず、心から感謝している。また、本書での記録化、発表に当たって、ご子息で大島博光記念館館長の大島朋光氏のお力添えをいただいたことを心から感謝します。
松田解子先生への訪問は、私一人であった。事前に電話などもしていたが、途中でお宅までのルートがわからなくなってタクシーを拾い、それからどうしようかと迷っていると、車の止まった辺りからわずかのところに先生の自宅があったのだった。選挙中だったか、通りに面した窓の下に何枚も写真入りのポスターが貼ってあった。そして、右手の玄関の戸の前で、年配の人が一人、うずくまるようにしてしゃがんでいて、それが松田先生だった。私が近づくと振り返られた。手には原稿用紙を挟んだ紙バサミと鉛筆を持っていて、私をそのようにして待っていてくださったのだった。紙には「稲木来」との文字が見えた。先生の仕事場の家は、自宅から百メートルほども先にあり、私は先生に頼まれるままに腕を組んでそこへ向かった。足取りが弱かった。書斎で二人だけの話し合いとなった。先生は私の「詩人中野鈴子の生涯」を手に、熱心に話された。中野鈴子を尊敬していると言われたが、まさにそのように鈴子を語ってくださり、何の疲れも見せなかった。春のひとときである。ご高齢だが、その八ヵ月後に亡くなるとは思えなかった。
両先生から詩人中野鈴子への尊敬の心が伝わったが、これはインタビュー記録にあるとおりである。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』)
(12)人間ピカソ──人民の平和を求めて
大島 明日ね、なんか全学連の新聞の編集者が来て、僕にピカソの話をしろというんですよ。今、ピカソ展をやっていて。
稲木 全学連がですか。
大島 うん、ピカソの話を何かね、僕に十枚ぐらい書けって言うんだよ。だから、そんなものは書けないから、話ならするといって。それで、どういうこと書くのだといったら、何ていったかな、ゲルニカやなんかのことを言えっていうのだけどね。僕は今そのことを、やはり共産主義的人間像での話をしようと思っているのだよ。つまりさ、日本の講談社から出ているピカソ全集の画集の解説の中で、アラゴンがこういうことを言っているのだよ。画家ピカソは共産党に利用されたのだって。それからフランスにおいてはさ、ピカソの共産党員章がね、どっかに置いておいたらそれが盗まれちゃったわけだよ。どっか陳列してあったらね。つまり、ピカソは共産党員であることはみな抹殺して、忘れよう忘れようとしているのだよ。一体、じゃ、そんなに利用されたりして、ピカソはいやいや共産党で来たのか、ってね。
ところが、ゲルニカを描く前に、一九三五か六年頃ね、ピカソはスペインで回顧展を巡回して、スペインを歩いているんですよ。そのときエリュアールも一緒に行くわけだ、あれ仲いい友達だからね。二人で演説したり展覧会場を回ったりして。
それは人民戦線の時代だよ。人民戦線の共和国ができている。その共和国がピカソを招んだわけだ。そこで共和国とピカソのつながりができ、そのつながりの中で、ここは共産党政権でしょ、民主政権でしょ。いやでも応でもピカソはそういう人民の側に立っているわけだよ。一九三九年にパリ万国博覧会があって、共和国の部屋に、ピカソに絵を描けってまた共和国が頼むわけだよ。もうそういうつながりがあるわけだよ。ピカソがそれで、そのときちょうどゲルニカの内戦があってゲルニカを描いたというわけだ。
そのときに一緒にいたエリュアールはまだ共産党員じゃないのだよ。まだシュルレアリストでいたわけ。彼はそのときピカソと一緒にスペインを周って、一九三六年かなんかにロンドンの講演会で「詩人もいまや孤独ではない」と、こういう演説をするわけだよ。それはどういうことかといえば、人民戦線の中で詩人も一緒に、みんなと一緒にやっているということの抽象的なそういうことを抜きにした表現なのだよ。だから、現実に言えばそういう現実の組合労働者運動や労働者の勢力が盛んになっていることの反映がそういうエリュアールの言葉に出てきているわけだね。それでエリュアールがだんだんそういうことで共産党に近づいてくるわけだよ。そして、戦後になればみんな入党してくるのだ。みんな一緒に活動しているわけだよ。平和大会へ行けば、エリュアールもピカソもアラゴンもそういうところへ出席してね。みんな自然じゃないか。何も利用されたわけじゃなくね。大インテリどもがね、大芸術家や詩人達が、逆に言えばもう栄光の時代だよ。
戦後にフランコが死んでから、マドリードでチリ世界大会というのが開かれたんだ。
稲木 チリ支援のね、世界大会。
大島 そこへ私は真島さんと二人でね、文団連の事務局長やっていた真島何とかさんという人とね。
稲木 はい。
大島 二人で行ってね。そのときはもうピカソは死んで、ピカソ未亡人が来ていたよ。未亡人、ピカソの奥様。後で自殺した、何といったかな。
稲木 後で自殺なさった。
大島 自殺した有名な。
稲木 その方が大会にいらしたんですか。
大島 うん。だから、ピカソがいなくても、死んだ後でもさ、未亡人が民衆運動の中に入って一緒にやっているのだよ。だから、我々が考えている以上に、非常に日常的というか、実践的というか、何というの、単に形式で共産党や平和運動しているんじゃない、もっと実践的なんだよね。それは感心しましたよ。
稲木 そうですね。その点、日本には反共土壌というのはきついですね。深く見ていけば、鈴子のたたかいも、そこにあったのかもしれません。
(完)
(一九九九年五月二十三日・東京・大島さん宅にて)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
*全学連機関紙『祖国と学問のために』1999年6月5日号に「人間ピカソ──人民の平和を求めて」が掲載された。
大島 明日ね、なんか全学連の新聞の編集者が来て、僕にピカソの話をしろというんですよ。今、ピカソ展をやっていて。
稲木 全学連がですか。
大島 うん、ピカソの話を何かね、僕に十枚ぐらい書けって言うんだよ。だから、そんなものは書けないから、話ならするといって。それで、どういうこと書くのだといったら、何ていったかな、ゲルニカやなんかのことを言えっていうのだけどね。僕は今そのことを、やはり共産主義的人間像での話をしようと思っているのだよ。つまりさ、日本の講談社から出ているピカソ全集の画集の解説の中で、アラゴンがこういうことを言っているのだよ。画家ピカソは共産党に利用されたのだって。それからフランスにおいてはさ、ピカソの共産党員章がね、どっかに置いておいたらそれが盗まれちゃったわけだよ。どっか陳列してあったらね。つまり、ピカソは共産党員であることはみな抹殺して、忘れよう忘れようとしているのだよ。一体、じゃ、そんなに利用されたりして、ピカソはいやいや共産党で来たのか、ってね。
ところが、ゲルニカを描く前に、一九三五か六年頃ね、ピカソはスペインで回顧展を巡回して、スペインを歩いているんですよ。そのときエリュアールも一緒に行くわけだ、あれ仲いい友達だからね。二人で演説したり展覧会場を回ったりして。
それは人民戦線の時代だよ。人民戦線の共和国ができている。その共和国がピカソを招んだわけだ。そこで共和国とピカソのつながりができ、そのつながりの中で、ここは共産党政権でしょ、民主政権でしょ。いやでも応でもピカソはそういう人民の側に立っているわけだよ。一九三九年にパリ万国博覧会があって、共和国の部屋に、ピカソに絵を描けってまた共和国が頼むわけだよ。もうそういうつながりがあるわけだよ。ピカソがそれで、そのときちょうどゲルニカの内戦があってゲルニカを描いたというわけだ。
そのときに一緒にいたエリュアールはまだ共産党員じゃないのだよ。まだシュルレアリストでいたわけ。彼はそのときピカソと一緒にスペインを周って、一九三六年かなんかにロンドンの講演会で「詩人もいまや孤独ではない」と、こういう演説をするわけだよ。それはどういうことかといえば、人民戦線の中で詩人も一緒に、みんなと一緒にやっているということの抽象的なそういうことを抜きにした表現なのだよ。だから、現実に言えばそういう現実の組合労働者運動や労働者の勢力が盛んになっていることの反映がそういうエリュアールの言葉に出てきているわけだね。それでエリュアールがだんだんそういうことで共産党に近づいてくるわけだよ。そして、戦後になればみんな入党してくるのだ。みんな一緒に活動しているわけだよ。平和大会へ行けば、エリュアールもピカソもアラゴンもそういうところへ出席してね。みんな自然じゃないか。何も利用されたわけじゃなくね。大インテリどもがね、大芸術家や詩人達が、逆に言えばもう栄光の時代だよ。
戦後にフランコが死んでから、マドリードでチリ世界大会というのが開かれたんだ。
稲木 チリ支援のね、世界大会。
大島 そこへ私は真島さんと二人でね、文団連の事務局長やっていた真島何とかさんという人とね。
稲木 はい。
大島 二人で行ってね。そのときはもうピカソは死んで、ピカソ未亡人が来ていたよ。未亡人、ピカソの奥様。後で自殺した、何といったかな。
稲木 後で自殺なさった。
大島 自殺した有名な。
稲木 その方が大会にいらしたんですか。
大島 うん。だから、ピカソがいなくても、死んだ後でもさ、未亡人が民衆運動の中に入って一緒にやっているのだよ。だから、我々が考えている以上に、非常に日常的というか、実践的というか、何というの、単に形式で共産党や平和運動しているんじゃない、もっと実践的なんだよね。それは感心しましたよ。
稲木 そうですね。その点、日本には反共土壌というのはきついですね。深く見ていけば、鈴子のたたかいも、そこにあったのかもしれません。
(完)
(一九九九年五月二十三日・東京・大島さん宅にて)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
*全学連機関紙『祖国と学問のために』1999年6月5日号に「人間ピカソ──人民の平和を求めて」が掲載された。
(11)プロレタリア文学運動の中心にいた中野鈴子
大島 だから、ある意味ではね、例えば、ジャンルは違ってもね、宮本百合子と鈴子さんを比べれば、それは宮本百合子の方が豊かな境遇にいて、ああやってロシアの方へ留学したり、世界を見てきて、そういう幅の広い教養と頭のよさと教養の厚さね、そしてその広さ、そういうものの違いを感じるね。
稲木 それはもうね、何ともしがたい……
大島 何ともしがたい。それでも鈴子さんにも非常にすばらしい素質があって、ただ、そういうものを育むだけの条件が彼女には少なかった。可哀想だよ。その範囲での結晶だよ。
稲木 そうですね。兄さんがある程度精神的な援助をやってなさったということもあるでしょうが、でも、多喜二さんや百合子さんに出会って、直接いろいろと文学を教えられたということが最大の宝だったと思います。鈴子さんもそれがなかったらもっと違ったものにもなったろうと思いますけれども。それでプロレタリア文学運動の中心に鈴子がいた、これが最大で、それだけにやっぱり近代文学の中の一番正当な部分の詩の代表者の一人として、鈴子さんをもっと見直さなきゃならないんじゃないかと私は思っているんです。
何にしても、ほとんど、女性詩人としても、日本での女性詩人として本格的にというとおかしいですけど、一生を貫いてね、そして一等早い部分で詩を書き出した詩人としては、中野鈴子じゃないかなと思うんですね。もちろんその前に、与謝野晶子などが詩を書いたりしましたけど、そして松田解子も居られますが。詩人として全うしてね、最後まで生きた、そういう詩人としてはいわゆる日本で最初の女性民衆詩人でないかなと、私、不勉強なままですけど、そんなふうに思っているんです。
大島 だからさ、やはり我々のところで、あまり意識的な問題にされないことは、共産主義的人間像、アラゴンのいう共産主義的人間像、これを追求するという観点から見れば、鈴子さんなんかが非常に模範的な、そういうやはり模範として称えられていいものを持っているわけだからね。そういうものを強調していいんじゃないんですか。
稲木 そうだと思います。特に戦後は鈴子さん自身、共産党に入られて、すぐに、そしてその活動の中で書かれた、まさに共産党を書いた詩があるわけです。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
大島 だから、ある意味ではね、例えば、ジャンルは違ってもね、宮本百合子と鈴子さんを比べれば、それは宮本百合子の方が豊かな境遇にいて、ああやってロシアの方へ留学したり、世界を見てきて、そういう幅の広い教養と頭のよさと教養の厚さね、そしてその広さ、そういうものの違いを感じるね。
稲木 それはもうね、何ともしがたい……
大島 何ともしがたい。それでも鈴子さんにも非常にすばらしい素質があって、ただ、そういうものを育むだけの条件が彼女には少なかった。可哀想だよ。その範囲での結晶だよ。
稲木 そうですね。兄さんがある程度精神的な援助をやってなさったということもあるでしょうが、でも、多喜二さんや百合子さんに出会って、直接いろいろと文学を教えられたということが最大の宝だったと思います。鈴子さんもそれがなかったらもっと違ったものにもなったろうと思いますけれども。それでプロレタリア文学運動の中心に鈴子がいた、これが最大で、それだけにやっぱり近代文学の中の一番正当な部分の詩の代表者の一人として、鈴子さんをもっと見直さなきゃならないんじゃないかと私は思っているんです。
何にしても、ほとんど、女性詩人としても、日本での女性詩人として本格的にというとおかしいですけど、一生を貫いてね、そして一等早い部分で詩を書き出した詩人としては、中野鈴子じゃないかなと思うんですね。もちろんその前に、与謝野晶子などが詩を書いたりしましたけど、そして松田解子も居られますが。詩人として全うしてね、最後まで生きた、そういう詩人としてはいわゆる日本で最初の女性民衆詩人でないかなと、私、不勉強なままですけど、そんなふうに思っているんです。
大島 だからさ、やはり我々のところで、あまり意識的な問題にされないことは、共産主義的人間像、アラゴンのいう共産主義的人間像、これを追求するという観点から見れば、鈴子さんなんかが非常に模範的な、そういうやはり模範として称えられていいものを持っているわけだからね。そういうものを強調していいんじゃないんですか。
稲木 そうだと思います。特に戦後は鈴子さん自身、共産党に入られて、すぐに、そしてその活動の中で書かれた、まさに共産党を書いた詩があるわけです。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
(10)アラゴンの共産主義的人間像
大島 学生のときはね。ランボオだってパリ・コミューンの詩人だからね。それは日本とは全然違うよ。
(部屋の本棚を指して)あそこにある青い本、でかい本があるでしょ。あれ十五冊ね、アラゴンの詩の全集。「レ・コミュニスト」なんかの小説のほかに詩だけで。
稲木 これはアラゴンのもちろん生前出版の全集ですか。これ文章がありますね。
大島 エッセイもあるから。
稲木 エッセイも含めて。そうですか。
大島 ものすごく精力的に書いている本だよ。その頃はまだ僕は学生だったわけだ。それに今の、さっきの詩があるかもしれない。「ウラル万歳!」があるかもしれない。一九三三年といえばね。
稲木 長編小説『レ・コミュニスト』や詩集『フランスの起床ラッパ』などは私も読みましたが、アラゴンをもっと知らなきゃいけませんね。
大島 新しい共産主義的人間像を意識的に構築したということでね、意識的に。だから、形式的においても、個人主義でやることを清算する、そういう理論が必要です。つまり、ポケットに共産党員章を持っていたからといってね、それだけじゃ何も証明できない。
自己変革して、個人主義者でなくて、他者のために活動したり、そういうものを持ってこなきゃね。本当に新しい人間にならなきゃ。
稲木 いや、アラゴンのこの『フランスの起床ラッパ』は、誰でしたか、もう一人の方が訳されていますでしょ。
大島 そうですか、僕知らない。
稲木 私ね、何かで見たのです。知られた人ですが。
大島 どうでした。
稲木 大島先生のこれが一番、やっぱりこれだと思いました。もう一人のはやっぱり、いい訳ではあるでしょうけれども、表現が違いますね。それは翻訳者の感覚で、アラゴンを理解した、詩人の感覚ではないような。いくら言葉をきれいにしようとしてもね。やっぱその違いなんでしょうね。
大島 それからやはり人民の言葉やね、生活の中の言葉、ということをちゃんと言っているんだから。
稲木 そういうことをきちんと理解した上で、それで訳されているということが。
大島 そういう私でだってまだね。もっと生々しい言葉も使っているらしいんだ、アラゴンはね。「私は悪趣味だ」といっておもしろいよ、悪趣味で。民衆の言葉で悪趣味だからって。
稲木 いや、ですから、先生のアラゴンの訳に出会ったのは幸せだったなと私思います。リルケなどの詩も読みましたが、一概に言えませんが、詩の言葉への感動が違いました。リルケも大切ですが。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
大島 学生のときはね。ランボオだってパリ・コミューンの詩人だからね。それは日本とは全然違うよ。
(部屋の本棚を指して)あそこにある青い本、でかい本があるでしょ。あれ十五冊ね、アラゴンの詩の全集。「レ・コミュニスト」なんかの小説のほかに詩だけで。
稲木 これはアラゴンのもちろん生前出版の全集ですか。これ文章がありますね。
大島 エッセイもあるから。
稲木 エッセイも含めて。そうですか。
大島 ものすごく精力的に書いている本だよ。その頃はまだ僕は学生だったわけだ。それに今の、さっきの詩があるかもしれない。「ウラル万歳!」があるかもしれない。一九三三年といえばね。
稲木 長編小説『レ・コミュニスト』や詩集『フランスの起床ラッパ』などは私も読みましたが、アラゴンをもっと知らなきゃいけませんね。
大島 新しい共産主義的人間像を意識的に構築したということでね、意識的に。だから、形式的においても、個人主義でやることを清算する、そういう理論が必要です。つまり、ポケットに共産党員章を持っていたからといってね、それだけじゃ何も証明できない。
自己変革して、個人主義者でなくて、他者のために活動したり、そういうものを持ってこなきゃね。本当に新しい人間にならなきゃ。
稲木 いや、アラゴンのこの『フランスの起床ラッパ』は、誰でしたか、もう一人の方が訳されていますでしょ。
大島 そうですか、僕知らない。
稲木 私ね、何かで見たのです。知られた人ですが。
大島 どうでした。
稲木 大島先生のこれが一番、やっぱりこれだと思いました。もう一人のはやっぱり、いい訳ではあるでしょうけれども、表現が違いますね。それは翻訳者の感覚で、アラゴンを理解した、詩人の感覚ではないような。いくら言葉をきれいにしようとしてもね。やっぱその違いなんでしょうね。
大島 それからやはり人民の言葉やね、生活の中の言葉、ということをちゃんと言っているんだから。
稲木 そういうことをきちんと理解した上で、それで訳されているということが。
大島 そういう私でだってまだね。もっと生々しい言葉も使っているらしいんだ、アラゴンはね。「私は悪趣味だ」といっておもしろいよ、悪趣味で。民衆の言葉で悪趣味だからって。
稲木 いや、ですから、先生のアラゴンの訳に出会ったのは幸せだったなと私思います。リルケなどの詩も読みましたが、一概に言えませんが、詩の言葉への感動が違いました。リルケも大切ですが。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
(9)ブタ箱へぶち込まれて
日本の反共風土
大島 僕はね、第二高等学校の二年かなんかの春ね、捕まって、四十九日くったよ。
稲木 何でそんなに長かったのですか。結局たくさんいたのですか。いっぱいいて順番待ちですか。
大島 あの頃はもう皆ブタ箱へぶち込んで、いっぱいだよ、もう。
それでさ、何で僕が仏文なんかへきたかというと、僕はね、中学一年のときに母親が死んだ。
稲木 中学一年のとき。
大島 それでさ、物心がつくときに、そんな肉親の死にぶつかって、驚くわけだよ。
稲木 それはもう十二歳でしょ。
大島 十三歳。
稲木 十三歳になるとね、今やっと自分を自覚するような時期ですね。
大島 そうなって、そんな小さな胸でだよ、人は何ぞやとかね、生きているのは、とかさ、そういう疑問が出て来るのだよ。それがやはり言葉は知らなくても、それがメタフィジックスなのだよ。つまり唯物論も何も知らず、観念論も知らないけれども、それはメタフィジックスにそういうことを、提起をして疑問に思っているわけだよ。それで一種のペシミズムになって、それから世をはかなんで、それで小説を読み漁るというわけだ。
だから、そのころは、「罪と罰」を読み、中学生の頃、「レ・ミゼラブル」だの、そんなものを読んでいたよ。だから、僕の文学はそういういわば人生を問うというね、どうしたら解決があるかということだ。詩はその方便であって。だから、西條八十のところにいても、歌を唱うという発想は出てこないのだ。初めから歌謡で歌を売るとか、詩で物を食うとか、そういう発想がないのだよ。で、学校へ行ったら、マルクス主義に出会うでしょ。そうするとよくわかるわけだよね、自分が逆立ちしていたということが。
稲木 ショックを受けますね。
大島 それでもうすぐ運動やるだろ。大して理論を読まなくても、そのとおりだってことでさ。
稲木 本当に実感するわけですね。
大島 だけどね、僕が(戦後)共産党へ入ったのなんかも、そのときの自分に忠実であるということだよ。
稲木 もう即実行へという感じですね。
大島 そのときは、学校へ、ブタ箱にぶち込まれて、今で言えば民青同盟の下っ端ぐらいにいて、もうどこにもまだ登録されていないから、ブタ箱へぶち込まれても僕は上へ行かないで済んだわけだよ。学校の方は、おまえは退学だ、とくるから、もう(運動を)やめますからと言って、やめた。(笑い)
稲木 まあ、比較的自由に言えたのですね。
大島 そういう事情でいるからさ。だから、文学的態度というものは一貫して同じだよ。人生を問うことがね、答えが出れば実践しなきゃならないわけだ。だから、不器用で、馬鹿正直で、そのために生きるのでしくじったわけだ。
稲木 そしてランボオに熱中なさったわけですね。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
日本の反共風土
大島 僕はね、第二高等学校の二年かなんかの春ね、捕まって、四十九日くったよ。
稲木 何でそんなに長かったのですか。結局たくさんいたのですか。いっぱいいて順番待ちですか。
大島 あの頃はもう皆ブタ箱へぶち込んで、いっぱいだよ、もう。
それでさ、何で僕が仏文なんかへきたかというと、僕はね、中学一年のときに母親が死んだ。
稲木 中学一年のとき。
大島 それでさ、物心がつくときに、そんな肉親の死にぶつかって、驚くわけだよ。
稲木 それはもう十二歳でしょ。
大島 十三歳。
稲木 十三歳になるとね、今やっと自分を自覚するような時期ですね。
大島 そうなって、そんな小さな胸でだよ、人は何ぞやとかね、生きているのは、とかさ、そういう疑問が出て来るのだよ。それがやはり言葉は知らなくても、それがメタフィジックスなのだよ。つまり唯物論も何も知らず、観念論も知らないけれども、それはメタフィジックスにそういうことを、提起をして疑問に思っているわけだよ。それで一種のペシミズムになって、それから世をはかなんで、それで小説を読み漁るというわけだ。
だから、そのころは、「罪と罰」を読み、中学生の頃、「レ・ミゼラブル」だの、そんなものを読んでいたよ。だから、僕の文学はそういういわば人生を問うというね、どうしたら解決があるかということだ。詩はその方便であって。だから、西條八十のところにいても、歌を唱うという発想は出てこないのだ。初めから歌謡で歌を売るとか、詩で物を食うとか、そういう発想がないのだよ。で、学校へ行ったら、マルクス主義に出会うでしょ。そうするとよくわかるわけだよね、自分が逆立ちしていたということが。
稲木 ショックを受けますね。
大島 それでもうすぐ運動やるだろ。大して理論を読まなくても、そのとおりだってことでさ。
稲木 本当に実感するわけですね。
大島 だけどね、僕が(戦後)共産党へ入ったのなんかも、そのときの自分に忠実であるということだよ。
稲木 もう即実行へという感じですね。
大島 そのときは、学校へ、ブタ箱にぶち込まれて、今で言えば民青同盟の下っ端ぐらいにいて、もうどこにもまだ登録されていないから、ブタ箱へぶち込まれても僕は上へ行かないで済んだわけだよ。学校の方は、おまえは退学だ、とくるから、もう(運動を)やめますからと言って、やめた。(笑い)
稲木 まあ、比較的自由に言えたのですね。
大島 そういう事情でいるからさ。だから、文学的態度というものは一貫して同じだよ。人生を問うことがね、答えが出れば実践しなきゃならないわけだ。だから、不器用で、馬鹿正直で、そのために生きるのでしくじったわけだ。
稲木 そしてランボオに熱中なさったわけですね。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)

初めて日本近代文学館に行き、「プロレタリア文化運動の光芒」展を見ました。

井の頭線の駒場東大前で下車し、大きな邸宅の並ぶ通りを10分ほど、



駒場公園(旧前田家本邸)の一角にあります。








高見順、川端康成、小田切進らの呼びかけで会が発足し、1967年に開館、今年で56年になるそうです。

展示室は2階。非常に沢山の資料を展示していました。
第1部 第1次世界大戦前後――世界文学としてのプロレタリア文学 1921-1928
堺利彦『共産党宣言』訳文、大杉栄原稿、「種蒔く人」創刊号など
第2部 文藝戦線とナップ 1928-1931
「文藝戦線」「戦旗」創刊号、葉山嘉樹『淫売婦』、小林多喜二「蟹工船」原稿、黒島伝治『武装せる市街』「左翼劇場パンフレット」など
第3部 弾圧と運動解体 1931-1934
小林多喜二「転形期の人々」断片稿、小林多喜二「鹿地亘宛はがき」、中野重治「徳永直宛はがき」など
第4部 転向と模索 1934-
「日本プロレタリア文学運動方向転換のために」、村山知義「白夜」、窪川鶴次郎「風雲」、中野重治「村の家」
「文化集団」「行動」「文学評論」「文学案内」創刊号、島木健作『生活の探求』、小熊秀雄「蹄鉄屋の歌」、葉山嘉樹の日記など
また、今日の『赤旗』学問文化欄「プロレタリア映画運動 岩崎昶生誕120年」にも書いてありますが、プロレタリア映画同盟(プロキノ)が制作した「山本宣治の告別式」、「第12回東京メーデー」、「土地」(農地取り上げに抗議する農民の闘い)と「岡山と高知 作家同盟の講演旅行」を上演していました。当時の人々の闘いの息吹くが伝わってきます。
多くの資料をまとめて見ることにより、プロレタリア文化運動全体の広がりや流れ、担い手たちの闘いと挫折などを把握することが出来たように思います。
(8)小林多喜二との出会い
大島 それはもう、しかし、何ていうか、不幸なものだね。それでもやはりたたかいだ。片方はもう血みどろだよね。可哀想に。
稲木 血みどろで。それでかなり思い切った決断で、鈴子さんは東京へ出たのですね。金沢ですでに市内の短歌会に入りましたし、文章や詩も書き始めていました。東京へ出られてさらに小説を書き、兄さんがもう中心活動家でしたから、ナップや作家同盟に関係していきます。詩を書きだして幾つか発表しているうちに、下の妹さんが病気で亡くなります。その妹さんは、鈴子さんと違って、もう親の言うとおりに、そこへいって結婚しますというふうにして同じ村の家へ嫁いだのです。ところが、本当に抑えられてですね、姑さんの下で自由に生きられず、そして子どもが生まれてもすぐ死んで、その子どもさんの後を追うようにして彼女も死ぬのですけど、病気で。その妹さんの死を見て、やっぱり自分がもしあのとき折れて親の言うとおりになっていたらね、こういう惨めな人生になってしまったのだと思うのですね。妹さんを非常に可哀想に思ったわけですね。自分も別に幸せでないのですけど、その妹さんの死というのが一番その時代の女性の悲惨な状況を象徴していると思えた。それで、深く自分は文学に生きていこうという気持ちになったのですね。その妹さんのためにも。
鈴子さんは上京してすぐに、当時のあいつぐ大弾圧に遭います。東京の家には重治さんのほかに、作家同盟の中心メンバーのような人が同居していたのです。そこへ鈴子さんも同居したところへ踏み込まれたのです。それで、みな捕らえられて、鈴子さんも捕らえられてしまうのです。重治さんはその日のうちに帰ったのですけどね、鈴子さんは翌日になって釈放されたという話ですけどね。理由はわかりませんけれども。それから、もう一人の人は、帰るどころか最後には警察の中で殺されます。
そういうふうに、ただ純粋な気持ちで文学やりたい、やろうという気持ちで上京して、西も東もわからん状態の中で突然そういう経験をすると。これがまた彼女の気持ちを現実的に固める一つの動機になるのですね。それから、投獄された人たちの救援活動に参加していきます。そして、例の小林多喜二さんとも出会います。
そして、これが、鈴子さんと、まあ多喜二の方も鈴子さんのそういう一途な姿勢、心に打たれたのかもしれませんけどね、文通が始まるのです、獄中からね。それから、行けばいろいろ話もできました。それで非常に熱心に彼女も二日にあげく行くということで、あんまり行くんで、多喜二には恋人がいたんですけれど、周りから少し彼女のことを考えて控えないといかんと言われたくらいらしいですけど。しかしそうして多喜二からも文学の考え方というのを教えられるのですね。
大島 それは告白の時代だよ。それは今と同じ明るさだけどね、まったくさ、スパイや刑事がうろうろしていて、そこらじゅうにね。それはもう運動しているような者はいつしょっぴかられるかわからないような時代だものね。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
大島 それはもう、しかし、何ていうか、不幸なものだね。それでもやはりたたかいだ。片方はもう血みどろだよね。可哀想に。
稲木 血みどろで。それでかなり思い切った決断で、鈴子さんは東京へ出たのですね。金沢ですでに市内の短歌会に入りましたし、文章や詩も書き始めていました。東京へ出られてさらに小説を書き、兄さんがもう中心活動家でしたから、ナップや作家同盟に関係していきます。詩を書きだして幾つか発表しているうちに、下の妹さんが病気で亡くなります。その妹さんは、鈴子さんと違って、もう親の言うとおりに、そこへいって結婚しますというふうにして同じ村の家へ嫁いだのです。ところが、本当に抑えられてですね、姑さんの下で自由に生きられず、そして子どもが生まれてもすぐ死んで、その子どもさんの後を追うようにして彼女も死ぬのですけど、病気で。その妹さんの死を見て、やっぱり自分がもしあのとき折れて親の言うとおりになっていたらね、こういう惨めな人生になってしまったのだと思うのですね。妹さんを非常に可哀想に思ったわけですね。自分も別に幸せでないのですけど、その妹さんの死というのが一番その時代の女性の悲惨な状況を象徴していると思えた。それで、深く自分は文学に生きていこうという気持ちになったのですね。その妹さんのためにも。
鈴子さんは上京してすぐに、当時のあいつぐ大弾圧に遭います。東京の家には重治さんのほかに、作家同盟の中心メンバーのような人が同居していたのです。そこへ鈴子さんも同居したところへ踏み込まれたのです。それで、みな捕らえられて、鈴子さんも捕らえられてしまうのです。重治さんはその日のうちに帰ったのですけどね、鈴子さんは翌日になって釈放されたという話ですけどね。理由はわかりませんけれども。それから、もう一人の人は、帰るどころか最後には警察の中で殺されます。
そういうふうに、ただ純粋な気持ちで文学やりたい、やろうという気持ちで上京して、西も東もわからん状態の中で突然そういう経験をすると。これがまた彼女の気持ちを現実的に固める一つの動機になるのですね。それから、投獄された人たちの救援活動に参加していきます。そして、例の小林多喜二さんとも出会います。
そして、これが、鈴子さんと、まあ多喜二の方も鈴子さんのそういう一途な姿勢、心に打たれたのかもしれませんけどね、文通が始まるのです、獄中からね。それから、行けばいろいろ話もできました。それで非常に熱心に彼女も二日にあげく行くということで、あんまり行くんで、多喜二には恋人がいたんですけれど、周りから少し彼女のことを考えて控えないといかんと言われたくらいらしいですけど。しかしそうして多喜二からも文学の考え方というのを教えられるのですね。
大島 それは告白の時代だよ。それは今と同じ明るさだけどね、まったくさ、スパイや刑事がうろうろしていて、そこらじゅうにね。それはもう運動しているような者はいつしょっぴかられるかわからないような時代だものね。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
(7)窪川鶴次郎と中野鈴子
大島 そういう点ではやはり鈴子さんのようにさ、恋人とも一緒になれないなんて、可哀想だよ。
稲木 窪川鶴次郎さんとは大分通じ合ったのです。うまくすれば結婚できたと思うのです。ところが、これがまた……。
大島 どんな事情でだめだったの。
稲木 やむをえないですが、父親が介入したのです。
大島 ああ、それは不幸だね。
稲木 つまり、重治さんが、金沢の四高での最後の三年のとき、落第して留年したのですが、その一年間、鈴子さんは父の指図で兄の下宿先へ行かされ共同生活をした。そこで窪川さんとの出会いがあった。そしていよいよ重治さんが四高を卒業となり、帝大へ進学されるのですね。そのときに窪川さんがまだ四高を卒業の年でないのですけど、自ら中退して、重治さんを追うようにして上京してしまうのです。重治さんについていったというわけでもないとは思いますけど、とにかく、東京へ行っちゃったのです。しかし、仕事がないものですから、生活が全然できない状態の中にあったのです。鈴子さんは、兄さんが東京へ行ったものですから、村の家へ戻りました。そこで窪川さんが上京したことを知って、東京へ追っかけていくのです。ところが、いや、自分も今出てきたばっかりやし、生活ができない。だから今は結婚できないということを鈴子に言ったらしいのです。その時、重治さんも同席しています。それで鈴子は、しかたがないと思い、自分の家へ戻ったのです。それでやむなく、すでに父が用意していた結婚をするのです。 一方、窪川さんは、東京で郵便局へ就職するのです。それで、結婚できるという手紙を出しました、鈴子さん宛にね。ところが、その手紙を、父親が、鈴子さんの手に渡るまでに見てしまった。家では、鈴子には別に自分が結婚させなあかんという人を考えて準備していたし、知らぬ男からの鈴子宛の手紙が来たもので、それを開いたのですね。そうしたら窪川さんが結婚してもいいなんて書いてあるものですからね、これはもう絶対だめと、手紙を引き裂いてね、箪笥の奥へしまい、鈴子には知られんようにしていたのです。そして結婚話を進めたのですね。
鈴子さんはもちろんそれを知らず、いやいや結婚するのです。その最初の結婚は、すぐ婚家を逃げ出して帰ってしまいます。あいついで、次の結婚が用意され、もちろん気に染まぬ結婚でした。結婚の年の夏に、初めての里帰りでしょう、実家に帰ったときに、たまたま家の箪笥を開けたら、引きさかれた手紙を見つけてね。なんだろうと思って見たら、あの窪川さんからの手紙だった。
大島 ドラマのような、小説のようだね。
稲木 ええ。鈴子は、すごくショックを受けるわけです。
大島 それはそうだ。
稲木 あのときに私は結婚できたのだとね、なのに父親がそれを隠して、そして自分が嫌がる結婚をさせられたと。二度目の結婚も、実際に別れるようになるのですけど、そういうことで、ものすごく父親に対してショックを。
大島 しようがない父親だね、ひどい父親だね。
稲木 まあ、時代としても家柄としても父親の気持ちもわからないでもないかもしれません。ただね、娘さんが三人いたわけですし、子さんは長女ですしね。
大島 早く片付けなきゃ。
稲木 早く片付けなきゃいかんのです。兄も二人あったのですが、一人は、早く死んでしまうのです。結婚はするのですけどね、近くの町の人と結婚して、外国で病死してしまう。その次は重治さんでしょ。重治さんは今東京の大学へ行っているというようなことで、彼が帰ってきて家を継いでくれるものと考えていますはね。ところが彼も帰るかどうかという、父親としてはかなり厳しいものがあったでしょう。父親自身が国家公務員で、たばこの関係の仕事で、全国あっち行ったりこっち行ったりするわけです。しかもあとには朝鮮の総督府の方へ行くという、そんな人ですから。それに婿養子です。そういう父を子どもたちは見て育っています。
大島 それで、鶴次郎はいつ結婚するの。
稲木 窪川さんは、鈴子さんからの返事がないから、そのうちに佐多稲子さんに出会って、結婚するのです。その窪川さんの結婚を、鈴子は夏休みで帰ってきた重治から聞かされるのです。
結局、重治さんは、もう愛とか何とか、結婚、そんなことは考えるなと、やっぱり世の中変えなあかんというような、そんなことを鈴子さんに言ったのですね。それでやる気があるなら東京へ来いというふうなことでね。それが鈴子にとっては兄の励ましというふうに思えたのでしよう。しかも彼女自身も、このしきたりにしばられた村を飛び出したいと、その気持ちで一杯にはなっていた。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
大島 そういう点ではやはり鈴子さんのようにさ、恋人とも一緒になれないなんて、可哀想だよ。
稲木 窪川鶴次郎さんとは大分通じ合ったのです。うまくすれば結婚できたと思うのです。ところが、これがまた……。
大島 どんな事情でだめだったの。
稲木 やむをえないですが、父親が介入したのです。
大島 ああ、それは不幸だね。
稲木 つまり、重治さんが、金沢の四高での最後の三年のとき、落第して留年したのですが、その一年間、鈴子さんは父の指図で兄の下宿先へ行かされ共同生活をした。そこで窪川さんとの出会いがあった。そしていよいよ重治さんが四高を卒業となり、帝大へ進学されるのですね。そのときに窪川さんがまだ四高を卒業の年でないのですけど、自ら中退して、重治さんを追うようにして上京してしまうのです。重治さんについていったというわけでもないとは思いますけど、とにかく、東京へ行っちゃったのです。しかし、仕事がないものですから、生活が全然できない状態の中にあったのです。鈴子さんは、兄さんが東京へ行ったものですから、村の家へ戻りました。そこで窪川さんが上京したことを知って、東京へ追っかけていくのです。ところが、いや、自分も今出てきたばっかりやし、生活ができない。だから今は結婚できないということを鈴子に言ったらしいのです。その時、重治さんも同席しています。それで鈴子は、しかたがないと思い、自分の家へ戻ったのです。それでやむなく、すでに父が用意していた結婚をするのです。 一方、窪川さんは、東京で郵便局へ就職するのです。それで、結婚できるという手紙を出しました、鈴子さん宛にね。ところが、その手紙を、父親が、鈴子さんの手に渡るまでに見てしまった。家では、鈴子には別に自分が結婚させなあかんという人を考えて準備していたし、知らぬ男からの鈴子宛の手紙が来たもので、それを開いたのですね。そうしたら窪川さんが結婚してもいいなんて書いてあるものですからね、これはもう絶対だめと、手紙を引き裂いてね、箪笥の奥へしまい、鈴子には知られんようにしていたのです。そして結婚話を進めたのですね。
鈴子さんはもちろんそれを知らず、いやいや結婚するのです。その最初の結婚は、すぐ婚家を逃げ出して帰ってしまいます。あいついで、次の結婚が用意され、もちろん気に染まぬ結婚でした。結婚の年の夏に、初めての里帰りでしょう、実家に帰ったときに、たまたま家の箪笥を開けたら、引きさかれた手紙を見つけてね。なんだろうと思って見たら、あの窪川さんからの手紙だった。
大島 ドラマのような、小説のようだね。
稲木 ええ。鈴子は、すごくショックを受けるわけです。
大島 それはそうだ。
稲木 あのときに私は結婚できたのだとね、なのに父親がそれを隠して、そして自分が嫌がる結婚をさせられたと。二度目の結婚も、実際に別れるようになるのですけど、そういうことで、ものすごく父親に対してショックを。
大島 しようがない父親だね、ひどい父親だね。
稲木 まあ、時代としても家柄としても父親の気持ちもわからないでもないかもしれません。ただね、娘さんが三人いたわけですし、子さんは長女ですしね。
大島 早く片付けなきゃ。
稲木 早く片付けなきゃいかんのです。兄も二人あったのですが、一人は、早く死んでしまうのです。結婚はするのですけどね、近くの町の人と結婚して、外国で病死してしまう。その次は重治さんでしょ。重治さんは今東京の大学へ行っているというようなことで、彼が帰ってきて家を継いでくれるものと考えていますはね。ところが彼も帰るかどうかという、父親としてはかなり厳しいものがあったでしょう。父親自身が国家公務員で、たばこの関係の仕事で、全国あっち行ったりこっち行ったりするわけです。しかもあとには朝鮮の総督府の方へ行くという、そんな人ですから。それに婿養子です。そういう父を子どもたちは見て育っています。
大島 それで、鶴次郎はいつ結婚するの。
稲木 窪川さんは、鈴子さんからの返事がないから、そのうちに佐多稲子さんに出会って、結婚するのです。その窪川さんの結婚を、鈴子は夏休みで帰ってきた重治から聞かされるのです。
結局、重治さんは、もう愛とか何とか、結婚、そんなことは考えるなと、やっぱり世の中変えなあかんというような、そんなことを鈴子さんに言ったのですね。それでやる気があるなら東京へ来いというふうなことでね。それが鈴子にとっては兄の励ましというふうに思えたのでしよう。しかも彼女自身も、このしきたりにしばられた村を飛び出したいと、その気持ちで一杯にはなっていた。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
お仙ヶ淵伝承(悲恋編)
「武石地域の伝承」の2つのお仙ヶ淵伝承のうち(その1)は巣栗渓谷から10Km下流にある依田川飛魚のお仙ケ淵で、こちらはお仙という娘の悲恋の物語です。
むかし武石の村にお仙という気立てのいい娘が住んでいた。小さいとき父親が病死したため、母親は百姓をしながら女手ひとつで大事に育てた。
ある夏の日、滝に遊びに行ったお仙は岩に腰をかけて滝壷を眺めていると眠くなって寝入ってしまった。夢の中で「お仙さん、お仙さん」と名を呼ばれたのでハイッと返事をすると、目の前にすずし気な目をした若者が立っている。お仙が声をかけようと目をあけたとたん、若者の姿はかき消えていた。
若者を忘れることができず、お仙は毎日滝にやってきて岩に腰をかけた。すると同じように眠気がやってきて、あの若者が「お仙さん」と呼び、返事をしようと目をあけると、かき消えてしまう。目をあければいない、夢の中だけでしか逢えないなんていや。若者恋しさが日に日に募り、とうとう寝込んでしまった。
心配して悩みを聞いた母親は若者を探しに滝に行き、若者に出会う。「申しわけごわせん、おっかさにもご心配かけて」と頭を下げる若者を母親も気にいった。「どうか、お仙のムコになっておくれ」と頼み、婚礼がとり行われた。
ところがムコは野良仕事が嫌いだとみえて鎌を持つのもきらった。母親の目をさけ、近くを流れる川の渕にたたずむことが多くなった。
「百姓もせずのらりくらりしてられちゃあ困るわい。・・・おせんや、まさか聟は渕に住む岩魚じゃあるまいな、いやそうとしか考げぇられねえ」
母親とムコとの仲は日に日に悪くなり、ある晩「お仙や、わしは百姓には向いてないようだ。お仙もわしとおっかさの間にはさまってつらかろう。お仙をいとしく思うのは変わらないが、わしは帰ろうと思う」と言って出ていってしまう。
お仙の最期が哀れです。
夫がいなくなってからおせんはさびしく暮らしていたがある日思いきって、はじめて出会った滝に行った。
「あんたー、どこにいるのー。ひとめでも会いたいわー。聞こえてるーこの声が」
おせんは滝の渕をさまよい歩きながら、声をかぎりに夫を呼んだ。その声は滝の音にかき消されてしまうばかりであった。いつの間にか日は西に傾きはじめた。と、滝壷に一条の美しい日が差した。その時おせんは、いとしい夫の姿を滝壷の中に見とめた。
「あんたー」
おせんは思わず手をのばすと、そのまま滝壷にのまれてしまったそうな。
それからだ、その滝のことをおせんが渕と呼ぶようになったのは……。
(「おせんが渕~滝沢きわこのふるさと民話散歩から~」週刊上田 平成12年9月1日号~23日号)
このお話では悪者も意地悪する人もいません。悲劇の原因は若者が村で働く能力がなかったことです。
この若者の正体は何だったのでしょうか?岩魚ではないかと母親は疑っています。
滝壷にのまれたお仙も哀れですが、可愛そうなのは大事に育てた一人娘を奪われた母親のほうかもしれません。
人間に恋したために最期は泡となってしまった人魚姫の話に似ています。
「武石地域の伝承」の2つのお仙ヶ淵伝承のうち(その1)は巣栗渓谷から10Km下流にある依田川飛魚のお仙ケ淵で、こちらはお仙という娘の悲恋の物語です。
むかし武石の村にお仙という気立てのいい娘が住んでいた。小さいとき父親が病死したため、母親は百姓をしながら女手ひとつで大事に育てた。
ある夏の日、滝に遊びに行ったお仙は岩に腰をかけて滝壷を眺めていると眠くなって寝入ってしまった。夢の中で「お仙さん、お仙さん」と名を呼ばれたのでハイッと返事をすると、目の前にすずし気な目をした若者が立っている。お仙が声をかけようと目をあけたとたん、若者の姿はかき消えていた。
若者を忘れることができず、お仙は毎日滝にやってきて岩に腰をかけた。すると同じように眠気がやってきて、あの若者が「お仙さん」と呼び、返事をしようと目をあけると、かき消えてしまう。目をあければいない、夢の中だけでしか逢えないなんていや。若者恋しさが日に日に募り、とうとう寝込んでしまった。
心配して悩みを聞いた母親は若者を探しに滝に行き、若者に出会う。「申しわけごわせん、おっかさにもご心配かけて」と頭を下げる若者を母親も気にいった。「どうか、お仙のムコになっておくれ」と頼み、婚礼がとり行われた。
ところがムコは野良仕事が嫌いだとみえて鎌を持つのもきらった。母親の目をさけ、近くを流れる川の渕にたたずむことが多くなった。
「百姓もせずのらりくらりしてられちゃあ困るわい。・・・おせんや、まさか聟は渕に住む岩魚じゃあるまいな、いやそうとしか考げぇられねえ」
母親とムコとの仲は日に日に悪くなり、ある晩「お仙や、わしは百姓には向いてないようだ。お仙もわしとおっかさの間にはさまってつらかろう。お仙をいとしく思うのは変わらないが、わしは帰ろうと思う」と言って出ていってしまう。
お仙の最期が哀れです。
夫がいなくなってからおせんはさびしく暮らしていたがある日思いきって、はじめて出会った滝に行った。
「あんたー、どこにいるのー。ひとめでも会いたいわー。聞こえてるーこの声が」
おせんは滝の渕をさまよい歩きながら、声をかぎりに夫を呼んだ。その声は滝の音にかき消されてしまうばかりであった。いつの間にか日は西に傾きはじめた。と、滝壷に一条の美しい日が差した。その時おせんは、いとしい夫の姿を滝壷の中に見とめた。
「あんたー」
おせんは思わず手をのばすと、そのまま滝壷にのまれてしまったそうな。
それからだ、その滝のことをおせんが渕と呼ぶようになったのは……。
(「おせんが渕~滝沢きわこのふるさと民話散歩から~」週刊上田 平成12年9月1日号~23日号)
このお話では悪者も意地悪する人もいません。悲劇の原因は若者が村で働く能力がなかったことです。
この若者の正体は何だったのでしょうか?岩魚ではないかと母親は疑っています。
滝壷にのまれたお仙も哀れですが、可愛そうなのは大事に育てた一人娘を奪われた母親のほうかもしれません。
人間に恋したために最期は泡となってしまった人魚姫の話に似ています。
2つのお仙ヶ淵伝承
武石地域を紹介するサイトの「武石地域の伝承」に2つのお仙ヶ淵伝承が書いてあります。
(その1)は巣栗狭(巣栗渓谷)から10Km下流にある依田川飛魚のお仙ケ淵で、こちらはお仙という娘の悲恋の物語。
(その2)が巣栗狭のお仙ヶ淵です。<お仙が渕~大沢智恵著 信州教育出版社 小県上田の民話 (信州児童文学会編)から~>
(その2)は巣栗渓谷のパンフレットに載っていた民話のヴァリエーションで、登場人物もストーリーも似かよっています。
武石の山奥に、お仙、金太郎、金次郎という、三人のきょうだいが住んでいた。知らぬ間にどこからか渡ってきたのだが村の人とはつき合いもない。 お仙は木から木へ飛び移り、高い岩を猿のように登るこわい顔をした女で「やまんばにちがいない」と言われた。
ある時、山で暮らしていた三人は冷夏で食糧難となり、村に降りてきてウサギやニワトリを毎日のように盗んだ。村人が制裁を加えようとするのを見た神様が三人を魚や蛇に変えて、姉のお仙を、巣栗の深い渕に入れ、「お仙が渕」と名づけた。弟の金太郎を霊泉寺の渕に住まわせ「金太郎渕」と名づけ、末の弟の金次郎は権現の池に住まわせ「金次郎の池」と名づけた。
あるとき、村の男がお仙が渕へ魚つりに出かけ、とてつもない大きな岩魚がかかった。権現の金次郎の池のそばを通りかかったとき、急に、ビクの岩魚が口をきいた。「金次郎、金次郎。おれはつられて行くわいや、われ、たっしゃでくらせ。」すると急に一天かきくもり、水おけひっくりかえしたような大雨が降り出した。男が、びっくりたまげてビクをのぞくと大岩魚がかげもかたちもない。
魚や蛇に変えられた三人はあわれですが、共同体に異型のよそ者が近づいてトラブルとなったことが人々の記憶に残り、言い伝えられたのでしょう。
武石地域を紹介するサイトの「武石地域の伝承」に2つのお仙ヶ淵伝承が書いてあります。
(その1)は巣栗狭(巣栗渓谷)から10Km下流にある依田川飛魚のお仙ケ淵で、こちらはお仙という娘の悲恋の物語。
(その2)が巣栗狭のお仙ヶ淵です。<お仙が渕~大沢智恵著 信州教育出版社 小県上田の民話 (信州児童文学会編)から~>
(その2)は巣栗渓谷のパンフレットに載っていた民話のヴァリエーションで、登場人物もストーリーも似かよっています。
武石の山奥に、お仙、金太郎、金次郎という、三人のきょうだいが住んでいた。知らぬ間にどこからか渡ってきたのだが村の人とはつき合いもない。 お仙は木から木へ飛び移り、高い岩を猿のように登るこわい顔をした女で「やまんばにちがいない」と言われた。
ある時、山で暮らしていた三人は冷夏で食糧難となり、村に降りてきてウサギやニワトリを毎日のように盗んだ。村人が制裁を加えようとするのを見た神様が三人を魚や蛇に変えて、姉のお仙を、巣栗の深い渕に入れ、「お仙が渕」と名づけた。弟の金太郎を霊泉寺の渕に住まわせ「金太郎渕」と名づけ、末の弟の金次郎は権現の池に住まわせ「金次郎の池」と名づけた。
あるとき、村の男がお仙が渕へ魚つりに出かけ、とてつもない大きな岩魚がかかった。権現の金次郎の池のそばを通りかかったとき、急に、ビクの岩魚が口をきいた。「金次郎、金次郎。おれはつられて行くわいや、われ、たっしゃでくらせ。」すると急に一天かきくもり、水おけひっくりかえしたような大雨が降り出した。男が、びっくりたまげてビクをのぞくと大岩魚がかげもかたちもない。
魚や蛇に変えられた三人はあわれですが、共同体に異型のよそ者が近づいてトラブルとなったことが人々の記憶に残り、言い伝えられたのでしょう。
巣栗渓谷の案内図にある〝お仙ヶ淵〟、どういう言われなのか気になります。お仙という美しい娘が迫害されて深い淵に身を投げた……というストーリーが思い浮かびますが、違いました。巣栗渓谷のパンフレットに書いてありました。
(お仙ヶ淵の民話)
どこからか三人の姉弟が村に移り住んできてから、毎晩のようにウサギやニワトリが盗まれるようになった。
三人は大蛇の化身と分かり、神様にまつって封じることにし、姉のお仙をお仙ヶ淵に、弟二人は別々の池にまつった。
その後、村が大干ばつで困った時、村人がお仙ヶ淵で願をかけると雷鳴とともに大雨が降ってきた。
それ以来、お仙ヶ淵は雨乞いの神様として親しまれるようになった。
この民話ではお仙が村人の都合で利用されるだけで、本人の気持ちは出てきませんね。
ところが別のバージョンがあり、気立てのよい娘のお仙が恋をするのです。
(つづく)

紅葉の見頃とあって上田市武石の巣栗渓谷と竜ヶ沢ダムにハイキングへ

武石(たけし)川に沿った県道を上がっていくと渓谷の案内板と駐車場

このすぐ下がお仙ヶ峡という見どころの滝。上流に竜ヶ沢ダム、美ヶ原高原も南に13Km。

焼山沢石堰堤。昭和26年に築造された砂防堰堤で、石積みにより施工されている珍しい堰堤だそうです。

すぐそばにお仙ヶ峡への下り口。

上から覗くとかなり下に滝壺が。



下流に休憩所。ハイキングコースが通っているのですが、ここからは行けません。


駐車場から上流に行くとキャンプができそうな平地。


上流には川の階段が続いています。

ダムに向かって県道を上がっていくと焼山の登山口。



1Kmほどでダムに着きました。

(つづく)

記念館で活動するサークルなどが出演する文化祭。大勢の方が参加され、交流しました。

最初にピアノ教室の堀川まり先生が「いのちの歌」とドビュッシー作曲「月の光」を演奏。

「月の光」は月が湖を照らしている情景をイメージして弾きました。

長野詩人会議の皆さんが詩の朗読、最初は石関みち子さん「タマゴ」

上原みち子さん「逝く夏」

永高純子さん「補助輪」

平由美子さん「奈々子に」(吉野弘詩集より)

八町敏男さん「転生」

水衣糸さん「焼夷弾のよう」

横山ゆみさん

小林そのさんが大島博光「友よ私が死んだら」を朗読

こまどりの会の皆さんが俳句吟詠

小林園子さんがハングル講座の紹介

玉木さんがバラ友の会の紹介と「ながの花と緑大賞23」を受賞したことを報告

着物リメークの会の皆さんがファッションショー






光の種子まく合唱団が合唱、「組曲 光の種子まくとき」より1曲、ケサラ、生きる、高原列車は行く

最後はうたごえ喫茶になって「バラが咲いた」を会場の皆さんと一緒に歌いました。

とても楽しい文化祭になりました。皆さん、ありがとうございました。

(6)アラゴンと一緒に青春を送った
稲木 先生がアラゴンに着目されたのは、動機というのは、どうなのでしょうか。
大島 シュールレアリスムなんかやっていてね。だから、アラゴンと一緒に青春を送ったようなものだよ。ちょうど早稲田大学へ入った頃、フランスからシュールレアリスム運動の大判のこういう雑誌がきていてさ、それを読んだ。それが一番モダンな運動なのだから。それがどんなふうになるなんてことはわからないし。初めからブルジョア文化に対する反抗から出てきた新しい運動だなんてこともはっきりはわからない。ただ、新しいモダンな運動だということは、反抗的な運動だということはわかるわけだから。そしてちょうど連中がみんなさ、エリュアールやなんかへ、こう左へよって行くわけですよね。
戦争中に、僕が『蝋人形』にいたのは、アラゴンの詩集『ウラル万歳!』の年だからね、あれは一九三〇年ぐらいですよ。だから、ちょうど学校を出た頃で、詩がわからないながら訳してさ、多少はわかってね。彼がソビエトへ行って、社会主義建設を目の前で見て、それでうたった詩。そのとき僕が訳した詩はね、「彼らは神を投げ捨てていった」というものですよ。「神」を投げ捨てて、「ゴッド」を、神を投げ捨てて、つまり革命のことをうたった詩。
戦争中は、そういうのと同時に、訳のわからない神秘主義的な本が向こうから出てきて、それなんかも読んでいたのだよ。だから、こっちも日本の運動がないし、戦争だし、もうこっちも拠り所がなくて、そういう過去の自分のわずかな意識の残り。一種の絶望状態。だから、そういう混乱もあったわけだよ。
それで、田舎に疎開して、戦争が終わってね、じゃ今度何とかしなくちゃいけないというときに、誰も友達がいないわけだよ、田舎にいて。でも、それがよかったと思うんだ僕は。それですぐ入党しちゃったから。東京なんかにいればいろいろあり、どうなったかわからないけど。
稲木 ほとんど、党は組織的には状態としては、どうだったのでしょうか。
大島 戦争が終わった次の年だから、もうみんな党員が獄中から出てきて再建したときだ。
稲木 そうですね。翌年ですね、先生はご長男の朋光さんが生まれて。
大島 そうそう。それでそのときもさ、僕は、ちょうど静江と結婚したばかりだし、そんな共産党へ入ってこれからどうやって生きていくのかわからない。そこが無鉄砲なのだよね、やはり。
稲木 奥様はそのとき花屋さんを始めていなさったのですか。
大島 いやいや、そんなときは田舎にいるから。そうして田舎にいても食っていけないし、困っちゃってさ。
稲木 ああそうか、東京へ来られたのは。
大島 それで二、三年ぶらぶら。田舎にいて食えないから、親父に最後にね、家だけ一軒買ってくれと、東京へ行って何とかやるからと。それがありがたいことに親父が山を売って、この家を買ってね、それでやっと東京へ出てきて。でも来たってさ、こっちは何も食う仕事がないでしょ。しようがない、女房が見るにみかねて、自分で働き出したわけですよ。あれが働くような才能がなかったら、もう共倒れでしたよ。
稲木 一九五〇年ですね、三鷹に来られたのが。
大島 そう。
稲木 その翌年にこのアラゴンの詩集を出していらっしゃるのですね。
大島 そうだね。それからもう間もなく出しているのだね。
稲木 これは一九五五年ですけども。
大島 そういう意味じゃ、僕はいい女房をもらったよ。
稲木 そうですね。愛しておられたのですね。
大島 そういう点ではやはり鈴子さんのようにさ、恋人とも一緒になれないなんて、可哀想だよ。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
稲木 先生がアラゴンに着目されたのは、動機というのは、どうなのでしょうか。
大島 シュールレアリスムなんかやっていてね。だから、アラゴンと一緒に青春を送ったようなものだよ。ちょうど早稲田大学へ入った頃、フランスからシュールレアリスム運動の大判のこういう雑誌がきていてさ、それを読んだ。それが一番モダンな運動なのだから。それがどんなふうになるなんてことはわからないし。初めからブルジョア文化に対する反抗から出てきた新しい運動だなんてこともはっきりはわからない。ただ、新しいモダンな運動だということは、反抗的な運動だということはわかるわけだから。そしてちょうど連中がみんなさ、エリュアールやなんかへ、こう左へよって行くわけですよね。
戦争中に、僕が『蝋人形』にいたのは、アラゴンの詩集『ウラル万歳!』の年だからね、あれは一九三〇年ぐらいですよ。だから、ちょうど学校を出た頃で、詩がわからないながら訳してさ、多少はわかってね。彼がソビエトへ行って、社会主義建設を目の前で見て、それでうたった詩。そのとき僕が訳した詩はね、「彼らは神を投げ捨てていった」というものですよ。「神」を投げ捨てて、「ゴッド」を、神を投げ捨てて、つまり革命のことをうたった詩。
戦争中は、そういうのと同時に、訳のわからない神秘主義的な本が向こうから出てきて、それなんかも読んでいたのだよ。だから、こっちも日本の運動がないし、戦争だし、もうこっちも拠り所がなくて、そういう過去の自分のわずかな意識の残り。一種の絶望状態。だから、そういう混乱もあったわけだよ。
それで、田舎に疎開して、戦争が終わってね、じゃ今度何とかしなくちゃいけないというときに、誰も友達がいないわけだよ、田舎にいて。でも、それがよかったと思うんだ僕は。それですぐ入党しちゃったから。東京なんかにいればいろいろあり、どうなったかわからないけど。
稲木 ほとんど、党は組織的には状態としては、どうだったのでしょうか。
大島 戦争が終わった次の年だから、もうみんな党員が獄中から出てきて再建したときだ。
稲木 そうですね。翌年ですね、先生はご長男の朋光さんが生まれて。
大島 そうそう。それでそのときもさ、僕は、ちょうど静江と結婚したばかりだし、そんな共産党へ入ってこれからどうやって生きていくのかわからない。そこが無鉄砲なのだよね、やはり。
稲木 奥様はそのとき花屋さんを始めていなさったのですか。
大島 いやいや、そんなときは田舎にいるから。そうして田舎にいても食っていけないし、困っちゃってさ。
稲木 ああそうか、東京へ来られたのは。
大島 それで二、三年ぶらぶら。田舎にいて食えないから、親父に最後にね、家だけ一軒買ってくれと、東京へ行って何とかやるからと。それがありがたいことに親父が山を売って、この家を買ってね、それでやっと東京へ出てきて。でも来たってさ、こっちは何も食う仕事がないでしょ。しようがない、女房が見るにみかねて、自分で働き出したわけですよ。あれが働くような才能がなかったら、もう共倒れでしたよ。
稲木 一九五〇年ですね、三鷹に来られたのが。
大島 そう。
稲木 その翌年にこのアラゴンの詩集を出していらっしゃるのですね。
大島 そうだね。それからもう間もなく出しているのだね。
稲木 これは一九五五年ですけども。
大島 そういう意味じゃ、僕はいい女房をもらったよ。
稲木 そうですね。愛しておられたのですね。
大島 そういう点ではやはり鈴子さんのようにさ、恋人とも一緒になれないなんて、可哀想だよ。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
(5)アラゴンの国民詩
大島 話は違うが、アラゴンの場合、彼はててなし子でね、それで後ろめたいという、縮こまってね、戦中を過ごすわけだ。
稲木 子ども時代にそうして育てられたわけですね。
大島 そういうことを通してね、だから反抗が始まるわけだよ。どうして俺はそんな父なし子で、惨めな思いでいなければならないのか、と。その反抗がちょうどランボオの反抗と同じだと、アラゴンは言うのだ。ランボオの反抗は一八七〇年代という時代だけど、自分とほとんど反抗が似ているということをいう。その反抗がアラゴンの出発点だ。シュールレアリスムでもね、そこで、ブルジョア文化への反抗として出発するわけだよ。
ただね、アラゴンのおもしろさというか、幅広さというかね、彼は、実に頭が天才的に動くわけよ。言葉でも何でも。議論をやらせればもういうことなしだし。それでそういう頭のよさと働きと、しかもそこへ美とか詩の芸術の魅惑とか、そういうものが入って。
詩を生きることと詩を書くことが同じというような、アラゴンの場合にはね、生きるということの中にさ、つまり、どのように生き、どのように実践するか、社会的実践と自分の内面生活との統一ね。それがつまり詩と同じことではあるけれども、そういうことのもっと何というのかな、いろいろ複雑さがあって、例えばフランス共産党の中央委員としてね、上の方にいて、そういう問題を提起していくわけ。
そうすると、今日本で我々がぶつかっているガイドライン法の問題、戦争の問題、あの問題について我々が書いているようなことを、一種の国民感情で書いていくわけですよね。ナショナルの問題だよ。ナショナルな観点を詩の中で持ち込んで意識的にやっていかなきゃ、ああいう問題は書けないわけだ。だから、国民詩という意味は、そういうことなのだよ。アラゴンが言う「ポエジナショナール」というのはね。つまり安保条約反対の血だ、日本で言えば。そういうナショナルなものを、つまり、昔のファシズムのナショナルでなくて、人民のナショナル、国民感情でうたっている。だから私達もそれを詩の問題に載せてくるということを意識的に今度やっていかなきゃ、ね。つまり、ガイドラインの問題を書くときには、意識すると否というところかかわらず、そういうナショナルな立場に立つわけだよ、皆がね。それをもっと意識的にやっていく必要があるということを一つ感じますよね。フランスではね、(草稿より削除*)
アラゴンはつまりシャンソンで歌えるというわけだよ。
稲木 アラゴンの詩はね。
大島 アラゴンの詩は。それで、彼の詩はたくさんシャンソンになっているわけだ。だから、内容においても、党的というか、革命的なものがね、そういう言葉の音楽要素をもって、歌になってレコードにもなったり、CDになって大衆化するという、そういうところへ自然に行っちゃったわけだよ、彼の場合にはね。それで彼はそのことを理論化しているわけだ。だから、我々が何も七五調で歌謡のようなものを書けというわけじゃないけれども、アラゴンの場合にはそれが、我々が今日皆忌み嫌っている七五調の変な調子じゃなくて、革命的な内容でそういう旋律をやっているわけだ。それは我々のところではわからないわけだよ、そういうことがね。そのまま直訳はできない。しかし、そこではそれだけ大衆化ということが理論と同時に進んでいるわけだ。
(草稿より削除**)
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
(削除部分)
*その問題は、国民感情なんていうと、何か反動的な、昔の「愛国心」ばっかり出てくるけれども、我々の側の赤い愛国心というかね、赤いナショナリズムというか、ブルジョアジーが民族独立の旗を捨てたから、プロレタリアートがそれを拾って、前進するのだという、これはスターリンの言葉だよ、たしかね。しかし、これを見る限りにおいてはね、別に間違っているわけじゃないよ。まさにブルジョアジーがさ、人民統制、それから政府は民族独立だの、民族国家の主権を放棄しているのだから、プロレタリア党が、我々がそれを拾って、エイ、ヤーって現実にたたかっているわけだから。それの内容は、やはり民族的観点だよ、それはね。それは何も天皇家のものではなくて。だから、そういうのなんかは新しい問題だよね、逆にいえば。プロレタリア文学の時代には問題にならなかった問題だよ。やはり詩の大衆化の問題ね。昔から言われながら、どうにもいい詩を書けば大衆化するわけだけどもね。じゃ、いい詩はどうして書くかという問題にもなるわけだよ。
稲木 その大衆化というのが、悪くなればいわゆる商業化というふうな。
大島 我々のはそういうことじゃなくてもっと基本的にね、大衆が支持して広めてくれるというような。
稲木 結局、新日本文学が変化していったのは、商業的な……。
大島 それはブルジョアジャーナリズムだ。
稲木 商業的な大衆化というような方向へね、いってしまった、そこらへんですね。大衆化ということは、プロレタリア文学運動時代にいわれましたですね。ですから、もう既にそこへ到達していたわけですから。それをもっと深めていくことが大事だったと思うのです。
大島 演歌がある。つまり、これは日本なんかとは違うけれど、
**稲木 特にそのことに触れて書かれているものはアラゴンにあるのですか。
大島 アラゴンはあるけどさ。
稲木 アラゴンの何でしょうか。
大島 演説問題についてありますよ。それも共産主義的理論なのだよ。共産主義というか、唯物論というかね。それはこういうことだ。自由詩でみんなが自由に書くというのは、個性尊重とか独自性とか、そういう名による個人主義だというのだよ。個人主義。我々の詩はそういう形式においても個人主義であってはならないというのが彼の論の根拠だ。だから、アラゴンは詩の形式でもそういう、フランスのアレキサンドラン、日本にはそういうものがないけれども、七五調とか短歌とか俳句とか、そういう形式は祖先からずっと伝わってきて磨かれた形式だというのだよ。それは民族形式だというのだよ。我々のように共産主義者が個人主義を否定するけれど、そういうところまで行くべきだというわけ。そのことが逆に大衆化の問題に結びついていくということ。これは、マルクス主義的というか、マルクス主義文学の追求というか、そういう理論の上に立って言っているわけですよ。
(2013年11月草稿)
大島 話は違うが、アラゴンの場合、彼はててなし子でね、それで後ろめたいという、縮こまってね、戦中を過ごすわけだ。
稲木 子ども時代にそうして育てられたわけですね。
大島 そういうことを通してね、だから反抗が始まるわけだよ。どうして俺はそんな父なし子で、惨めな思いでいなければならないのか、と。その反抗がちょうどランボオの反抗と同じだと、アラゴンは言うのだ。ランボオの反抗は一八七〇年代という時代だけど、自分とほとんど反抗が似ているということをいう。その反抗がアラゴンの出発点だ。シュールレアリスムでもね、そこで、ブルジョア文化への反抗として出発するわけだよ。
ただね、アラゴンのおもしろさというか、幅広さというかね、彼は、実に頭が天才的に動くわけよ。言葉でも何でも。議論をやらせればもういうことなしだし。それでそういう頭のよさと働きと、しかもそこへ美とか詩の芸術の魅惑とか、そういうものが入って。
詩を生きることと詩を書くことが同じというような、アラゴンの場合にはね、生きるということの中にさ、つまり、どのように生き、どのように実践するか、社会的実践と自分の内面生活との統一ね。それがつまり詩と同じことではあるけれども、そういうことのもっと何というのかな、いろいろ複雑さがあって、例えばフランス共産党の中央委員としてね、上の方にいて、そういう問題を提起していくわけ。
そうすると、今日本で我々がぶつかっているガイドライン法の問題、戦争の問題、あの問題について我々が書いているようなことを、一種の国民感情で書いていくわけですよね。ナショナルの問題だよ。ナショナルな観点を詩の中で持ち込んで意識的にやっていかなきゃ、ああいう問題は書けないわけだ。だから、国民詩という意味は、そういうことなのだよ。アラゴンが言う「ポエジナショナール」というのはね。つまり安保条約反対の血だ、日本で言えば。そういうナショナルなものを、つまり、昔のファシズムのナショナルでなくて、人民のナショナル、国民感情でうたっている。だから私達もそれを詩の問題に載せてくるということを意識的に今度やっていかなきゃ、ね。つまり、ガイドラインの問題を書くときには、意識すると否というところかかわらず、そういうナショナルな立場に立つわけだよ、皆がね。それをもっと意識的にやっていく必要があるということを一つ感じますよね。フランスではね、(草稿より削除*)
アラゴンはつまりシャンソンで歌えるというわけだよ。
稲木 アラゴンの詩はね。
大島 アラゴンの詩は。それで、彼の詩はたくさんシャンソンになっているわけだ。だから、内容においても、党的というか、革命的なものがね、そういう言葉の音楽要素をもって、歌になってレコードにもなったり、CDになって大衆化するという、そういうところへ自然に行っちゃったわけだよ、彼の場合にはね。それで彼はそのことを理論化しているわけだ。だから、我々が何も七五調で歌謡のようなものを書けというわけじゃないけれども、アラゴンの場合にはそれが、我々が今日皆忌み嫌っている七五調の変な調子じゃなくて、革命的な内容でそういう旋律をやっているわけだ。それは我々のところではわからないわけだよ、そういうことがね。そのまま直訳はできない。しかし、そこではそれだけ大衆化ということが理論と同時に進んでいるわけだ。
(草稿より削除**)
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
(削除部分)
*その問題は、国民感情なんていうと、何か反動的な、昔の「愛国心」ばっかり出てくるけれども、我々の側の赤い愛国心というかね、赤いナショナリズムというか、ブルジョアジーが民族独立の旗を捨てたから、プロレタリアートがそれを拾って、前進するのだという、これはスターリンの言葉だよ、たしかね。しかし、これを見る限りにおいてはね、別に間違っているわけじゃないよ。まさにブルジョアジーがさ、人民統制、それから政府は民族独立だの、民族国家の主権を放棄しているのだから、プロレタリア党が、我々がそれを拾って、エイ、ヤーって現実にたたかっているわけだから。それの内容は、やはり民族的観点だよ、それはね。それは何も天皇家のものではなくて。だから、そういうのなんかは新しい問題だよね、逆にいえば。プロレタリア文学の時代には問題にならなかった問題だよ。やはり詩の大衆化の問題ね。昔から言われながら、どうにもいい詩を書けば大衆化するわけだけどもね。じゃ、いい詩はどうして書くかという問題にもなるわけだよ。
稲木 その大衆化というのが、悪くなればいわゆる商業化というふうな。
大島 我々のはそういうことじゃなくてもっと基本的にね、大衆が支持して広めてくれるというような。
稲木 結局、新日本文学が変化していったのは、商業的な……。
大島 それはブルジョアジャーナリズムだ。
稲木 商業的な大衆化というような方向へね、いってしまった、そこらへんですね。大衆化ということは、プロレタリア文学運動時代にいわれましたですね。ですから、もう既にそこへ到達していたわけですから。それをもっと深めていくことが大事だったと思うのです。
大島 演歌がある。つまり、これは日本なんかとは違うけれど、
**稲木 特にそのことに触れて書かれているものはアラゴンにあるのですか。
大島 アラゴンはあるけどさ。
稲木 アラゴンの何でしょうか。
大島 演説問題についてありますよ。それも共産主義的理論なのだよ。共産主義というか、唯物論というかね。それはこういうことだ。自由詩でみんなが自由に書くというのは、個性尊重とか独自性とか、そういう名による個人主義だというのだよ。個人主義。我々の詩はそういう形式においても個人主義であってはならないというのが彼の論の根拠だ。だから、アラゴンは詩の形式でもそういう、フランスのアレキサンドラン、日本にはそういうものがないけれども、七五調とか短歌とか俳句とか、そういう形式は祖先からずっと伝わってきて磨かれた形式だというのだよ。それは民族形式だというのだよ。我々のように共産主義者が個人主義を否定するけれど、そういうところまで行くべきだというわけ。そのことが逆に大衆化の問題に結びついていくということ。これは、マルクス主義的というか、マルクス主義文学の追求というか、そういう理論の上に立って言っているわけですよ。
(2013年11月草稿)
(4)中野鈴子と金龍済
稲木 やっぱり鈴子さんは『蝋人形』誌につづけて発表しているんじゃないかと思いますね。
大島 だから、私が編集をやる頃はもう、プロレタリア主義への弾圧が進んで、そういうものはもうこの世にないというような、そういう時期だから。
稲木 弾圧の後ですね。
大島 後だから。ちょうど、小林多喜二が殺されたり、ナップや何か皆解散したりね。
稲木 鈴子さんは、金龍済という、朝鮮人で、プロレタリア文学運動時代の仲間ですけど、その人と結婚すると決めた。ところが彼が朝鮮へ強制送還されちゃう。それで彼が自分を迎えにくると鈴子さんは信じているわけですね。結婚を待っているわけです。もう結婚の約束はしてしまってあるのです。それでお金の準備もして待っているのです。
大島 その時期なの。
稲木 その時期なのです。その時期にこの『蝋人形』に詩を出されたみたいなのですね。しかし彼には若い妻がいたのですよ、日本へ来る前に結婚していて。朝鮮では、本当に若い時に結婚する慣習があった。親がそういうふうにしてしまうというところがあって、いわばそれを拒否して日本へ出てきたようなところもありましたけど。だから、彼も決して安易な気持ちで鈴子と結婚しようなんて約束したんではない、ですけど。
大島 結局日本へはもう来れないでしょう。
稲木 強制送還されちゃったものですし、鈴子さんは一度は朝鮮の家まで彼を追うのですが、いろんな状況で結婚できなかった。彼は彼で朝鮮で新聞社とかいろんな関係の中へ潜り込む、というとおかしいですが、その仕事に就いてですね、詩を書いたりしていくけれど、そこでむしろ、日本の植民地政策に迎合する詩人になってくるのです。
大島 それは生きるためにはね、朝鮮じゃなおさらだよ。
稲木 日本にいたときにはプロレタリア文学作家同盟などで活動し、投獄されても非転向を通しましたが……。
大島 でも、鈴子さんに比べたら比較にもならないよ。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
稲木 やっぱり鈴子さんは『蝋人形』誌につづけて発表しているんじゃないかと思いますね。
大島 だから、私が編集をやる頃はもう、プロレタリア主義への弾圧が進んで、そういうものはもうこの世にないというような、そういう時期だから。
稲木 弾圧の後ですね。
大島 後だから。ちょうど、小林多喜二が殺されたり、ナップや何か皆解散したりね。
稲木 鈴子さんは、金龍済という、朝鮮人で、プロレタリア文学運動時代の仲間ですけど、その人と結婚すると決めた。ところが彼が朝鮮へ強制送還されちゃう。それで彼が自分を迎えにくると鈴子さんは信じているわけですね。結婚を待っているわけです。もう結婚の約束はしてしまってあるのです。それでお金の準備もして待っているのです。
大島 その時期なの。
稲木 その時期なのです。その時期にこの『蝋人形』に詩を出されたみたいなのですね。しかし彼には若い妻がいたのですよ、日本へ来る前に結婚していて。朝鮮では、本当に若い時に結婚する慣習があった。親がそういうふうにしてしまうというところがあって、いわばそれを拒否して日本へ出てきたようなところもありましたけど。だから、彼も決して安易な気持ちで鈴子と結婚しようなんて約束したんではない、ですけど。
大島 結局日本へはもう来れないでしょう。
稲木 強制送還されちゃったものですし、鈴子さんは一度は朝鮮の家まで彼を追うのですが、いろんな状況で結婚できなかった。彼は彼で朝鮮で新聞社とかいろんな関係の中へ潜り込む、というとおかしいですが、その仕事に就いてですね、詩を書いたりしていくけれど、そこでむしろ、日本の植民地政策に迎合する詩人になってくるのです。
大島 それは生きるためにはね、朝鮮じゃなおさらだよ。
稲木 日本にいたときにはプロレタリア文学作家同盟などで活動し、投獄されても非転向を通しましたが……。
大島 でも、鈴子さんに比べたら比較にもならないよ。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
(3)
稲木 『蝋人形』の編集をなさっていたときは、だから二十代ですね。
大島 二十代から三十代。
稲木 何年から何年までやられたのでしたか。
大島 大体、二十五歳から三十五歳まで。学校を卒業したのが三四年だから。
稲木 ああそうですか。早大の第二高等学院。
大島 第二高等学院からフランス文学科へ行って。
稲木 ああそうですか。それを卒業なさったのが一九三四年ですね。
大島 三四年の春。昭和九年だから。だから『蝋人形』へ入ったのはその翌年で、昭和十年ですよ。
稲木 それから何年間やられたのですか。
大島 だから、七、八年ね、一九四二年の『蝋人形』廃刊までだから。
稲木 三十四歳までね。その何か、きっかけというのは。
大島 何の。
稲木 『蝋人形』の編集にかかわる。
大島 西條八十先生がね、そのとき早稲田の仏文の先生で、僕の卒業論文の審査をしてくれて、それで私の卒論が評価してもらって。私がランボオをやって先生もランボオ専門家だから、そういう関係で。ところが、弟子の方は、そこまではいいけど、それから上の、ブルジョアジャーナリズムやそっちへはお供しないわけだ。しないどころじゃい、ほとんどこっちへ行っちゃうわけだ。
というのは、やはりその前にさ、学内の学生運動の中で、やはりマルクス主義の洗礼を受けているから、それだけ違っているのですよ。大して理論的に把握していなくてもね、あれを受けているだけでも。
だから、そんなことは西條先生知らないからさ。俺を裏切ったなと思うかもしれないけれど、そんなものしようがないよ。
逆に言えばそういうところもあるかもしれないね。逆に言えば、『蝋人形』をやるうちでも、「赤い」部分もあったのだよ。だってそんな頃もうアラゴンの革命詩の翻訳をやっているのだから。西條八十のところにいるおかげでね、その詩を、ローマ字で訳しているのだよ、『蝋人形』に、アラゴンのそういう詩を。だから、西條八十の傘に隠れていたのだよ、逆に言えばね。
稲木 西條八十が前にいたものでやりやすかったのですね。……で、先生は結核になられて、肺結核でしたか。
大島 肺結核ですよ。
稲木 だからやっぱり体を大事にしないといけないし、西條さんがそのへん気を配ってくださった、そんなことでしょうか
大島 まあ、そういう雑誌さえ出せばいいということでね、助かりましたよ。だってさ、そんな勤めはないし、体悪くて、しかも精神もあまりよくないし。
稲木 私も二十歳の頃に肺結核にかかっています。
大島 はあ、まあ治れば長生きするから大丈夫だよ。
稲木 ちょうど、ストレプトマイシンがアメリカから来て使われるようになって、だから助かったのですけど。それまでは一般に気胸、胸に空気を入れるという治療法でしたからね。
大島 僕なんかの時でもね。ここまで生き延びたからあれだけども、あの頃はみんな死んじゃったよ。
稲木 『蝋人形』というのは、つまりどんな文学誌なのですか。
大島 それは、西條八十主宰の雑誌だからさ。それでも僕はね、自分勝手にというよりはさ、シュールレアリスムを紹介したり、ロートレアモンのことを紹介したりね。ランボオの伝記をずっと連載したり、歌謡なんかも募集していたよ。
稲木 歌謡ね。
大島 演歌だよ。僕がやっているうちは、そういうね。(笑い)
稲木 フランスとは違いますからね。
大島 でも西條先生はそういうことに寛大で、何にも言わずにね。先生だって、自分では人生詩のような詩を書いたり、そういう商売の詩を書いたりしているのだから。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
稲木 『蝋人形』の編集をなさっていたときは、だから二十代ですね。
大島 二十代から三十代。
稲木 何年から何年までやられたのでしたか。
大島 大体、二十五歳から三十五歳まで。学校を卒業したのが三四年だから。
稲木 ああそうですか。早大の第二高等学院。
大島 第二高等学院からフランス文学科へ行って。
稲木 ああそうですか。それを卒業なさったのが一九三四年ですね。
大島 三四年の春。昭和九年だから。だから『蝋人形』へ入ったのはその翌年で、昭和十年ですよ。
稲木 それから何年間やられたのですか。
大島 だから、七、八年ね、一九四二年の『蝋人形』廃刊までだから。
稲木 三十四歳までね。その何か、きっかけというのは。
大島 何の。
稲木 『蝋人形』の編集にかかわる。
大島 西條八十先生がね、そのとき早稲田の仏文の先生で、僕の卒業論文の審査をしてくれて、それで私の卒論が評価してもらって。私がランボオをやって先生もランボオ専門家だから、そういう関係で。ところが、弟子の方は、そこまではいいけど、それから上の、ブルジョアジャーナリズムやそっちへはお供しないわけだ。しないどころじゃい、ほとんどこっちへ行っちゃうわけだ。
というのは、やはりその前にさ、学内の学生運動の中で、やはりマルクス主義の洗礼を受けているから、それだけ違っているのですよ。大して理論的に把握していなくてもね、あれを受けているだけでも。
だから、そんなことは西條先生知らないからさ。俺を裏切ったなと思うかもしれないけれど、そんなものしようがないよ。
逆に言えばそういうところもあるかもしれないね。逆に言えば、『蝋人形』をやるうちでも、「赤い」部分もあったのだよ。だってそんな頃もうアラゴンの革命詩の翻訳をやっているのだから。西條八十のところにいるおかげでね、その詩を、ローマ字で訳しているのだよ、『蝋人形』に、アラゴンのそういう詩を。だから、西條八十の傘に隠れていたのだよ、逆に言えばね。
稲木 西條八十が前にいたものでやりやすかったのですね。……で、先生は結核になられて、肺結核でしたか。
大島 肺結核ですよ。
稲木 だからやっぱり体を大事にしないといけないし、西條さんがそのへん気を配ってくださった、そんなことでしょうか
大島 まあ、そういう雑誌さえ出せばいいということでね、助かりましたよ。だってさ、そんな勤めはないし、体悪くて、しかも精神もあまりよくないし。
稲木 私も二十歳の頃に肺結核にかかっています。
大島 はあ、まあ治れば長生きするから大丈夫だよ。
稲木 ちょうど、ストレプトマイシンがアメリカから来て使われるようになって、だから助かったのですけど。それまでは一般に気胸、胸に空気を入れるという治療法でしたからね。
大島 僕なんかの時でもね。ここまで生き延びたからあれだけども、あの頃はみんな死んじゃったよ。
稲木 『蝋人形』というのは、つまりどんな文学誌なのですか。
大島 それは、西條八十主宰の雑誌だからさ。それでも僕はね、自分勝手にというよりはさ、シュールレアリスムを紹介したり、ロートレアモンのことを紹介したりね。ランボオの伝記をずっと連載したり、歌謡なんかも募集していたよ。
稲木 歌謡ね。
大島 演歌だよ。僕がやっているうちは、そういうね。(笑い)
稲木 フランスとは違いますからね。
大島 でも西條先生はそういうことに寛大で、何にも言わずにね。先生だって、自分では人生詩のような詩を書いたり、そういう商売の詩を書いたりしているのだから。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
鈴子と『蝋人形』
大島 鈴子さんのリアリズムは、われわれが学び取るようなものというと、どんなふうになるかしらね。
稲木 やっぱりまず何よりも詩で生きていたということはありますね、あの方が。
大島 それはいいね。
稲木 もう生きることと詩とは一体でした。たんに生きるという意味ではないのですが、日々に生きることとかけ離れた詩は書かないというところがありましたね。そこがやっぱり、リアリズムの精神といいますか、社会、生活の現実をありのままに表そうとしていた直視の精神だろうと思うのです。しかもその思いを歌い上げていかなければいけないと。その歌い上げるという詩の姿勢ですね。それがやっぱり鈴子さんのリアリズムではないかなとは思いますけど。
大島 それはそのとおりだ。その生きることと詩とが一つになってね、そういうことの中身というものには、極めていろいろな問題もあり、複雑な問題もあり、それをいろいろ書いていくことだね。
稲木 鈴子さんの一つのテーマは、原点のことですけども、最初の結婚問題、押し付けられた結婚、人生に抵抗したこと。つまり押し付けられたということは、家柄があるし、地主でしたから、そこでしきたりにも抵抗して人間らしく生きたいとする、それが生きるということの原点であった。そこで自分の家、自分が生まれ育った家というものがどういうものであったかということを絶えず見返していく、それが彼女の詩のモチーフの一つにもなっている。そして今、現実に田んぼをやらなきゃいけないとか、そういう日々のことを考えていくということでもありましたね。
それと、共産党で、あるいは文学運動などで一緒であった仲間を歌うということも主題でした。救援活動を通してつながった小林多喜二さんについてもお母さんを通じて歌っております。宮本百合子さんの追悼詩も書いていますが。それから、戦後、福井県の共産党ができたばかりの頃、病気で倒れて自殺した県委員長さんがおられて、それに対する追悼詩を書いている。何で私たちに相談してくれなかったのですという痛切な問いかけでもってうたっている。そのように、身近な仲間を絶えず思いながら、最後には自ら「友よ、友だちよ」と、自分がもう最後の手術になりそうだと、福井の仲間たちに向けてうたうわけです。
大島 最後、何の病気ですか。
稲木 結局あの時最後は肝臓、胃を最終的には切るということで行ったのですけどね。
大島 胃癌ですか。
稲木 肝臓癌といいますね。その前に黄疸で入院した美代子さんが骨癌だったようで……。
大島 伝統的にあるのだ、じゃ。
稲木 病院へ美代子さんを連れて行ったときに、鈴子さんがすれ違った看護婦さんに「あなた黄疸じゃないか」と言われたとか。それで、今度は自分が病院へ入ることになったのが最後です。
大島 じゃ、黄色かったのだ、もう。
稲木 美代子さんや党の同志の人にも時に農作業を手伝ってもらいながら、一人で田んぼを守り、この中野家を守っていました。重治さんはもうそんなことしないでもいい、屋敷、田んぼなどは売って、東京へ来るよう鈴子さんに言っておられたようですが。
で、最終的には肝臓癌でないかなと思われますけど。東京に三井厚生病院というのがあった、今は三井記念病院というのだと思いますけど、東京の次の秋葉原駅からちょっといったところね。そこへ福井の日赤から転院して、手術を二度うけるわけです。それで亡くなられた。
大島 薄幸だね、しかし。
稲木 本当にね。借金もあったのです。
大島 どうしたのだね、借金は。
稲木 もうどうしようもないというような状況で、東京への転院にあたって福井で募金を訴えもしたし、仲間達が大分あちこち奔走してね。町会議員をしていた友人がなんと生活保護が取れないかとか骨折りましたが、屋敷が一応あって、田んぼもあるという、そういう者が生活保護なんか取れないという、そういうふうなことやらいろいろ条件が悪くて。
大島 最後には逆に家に押しつぶされたようなものだよ。そんなもの背負わなきゃいいのに。
稲木 本当はそれ背負いたくなくて、上京したのですから、一旦は。戦後も一度は上京したけれども、結局、元へ戻っていかざるを得なかった。恋愛が実らなかったこともあります。しかし故郷に鈴子さんの人生の原点があり、自身の詩の原点があることをつらぬいたのです。その際、祖父に対して親愛の想いがあったと思えます。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
大島 鈴子さんのリアリズムは、われわれが学び取るようなものというと、どんなふうになるかしらね。
稲木 やっぱりまず何よりも詩で生きていたということはありますね、あの方が。
大島 それはいいね。
稲木 もう生きることと詩とは一体でした。たんに生きるという意味ではないのですが、日々に生きることとかけ離れた詩は書かないというところがありましたね。そこがやっぱり、リアリズムの精神といいますか、社会、生活の現実をありのままに表そうとしていた直視の精神だろうと思うのです。しかもその思いを歌い上げていかなければいけないと。その歌い上げるという詩の姿勢ですね。それがやっぱり鈴子さんのリアリズムではないかなとは思いますけど。
大島 それはそのとおりだ。その生きることと詩とが一つになってね、そういうことの中身というものには、極めていろいろな問題もあり、複雑な問題もあり、それをいろいろ書いていくことだね。
稲木 鈴子さんの一つのテーマは、原点のことですけども、最初の結婚問題、押し付けられた結婚、人生に抵抗したこと。つまり押し付けられたということは、家柄があるし、地主でしたから、そこでしきたりにも抵抗して人間らしく生きたいとする、それが生きるということの原点であった。そこで自分の家、自分が生まれ育った家というものがどういうものであったかということを絶えず見返していく、それが彼女の詩のモチーフの一つにもなっている。そして今、現実に田んぼをやらなきゃいけないとか、そういう日々のことを考えていくということでもありましたね。
それと、共産党で、あるいは文学運動などで一緒であった仲間を歌うということも主題でした。救援活動を通してつながった小林多喜二さんについてもお母さんを通じて歌っております。宮本百合子さんの追悼詩も書いていますが。それから、戦後、福井県の共産党ができたばかりの頃、病気で倒れて自殺した県委員長さんがおられて、それに対する追悼詩を書いている。何で私たちに相談してくれなかったのですという痛切な問いかけでもってうたっている。そのように、身近な仲間を絶えず思いながら、最後には自ら「友よ、友だちよ」と、自分がもう最後の手術になりそうだと、福井の仲間たちに向けてうたうわけです。
大島 最後、何の病気ですか。
稲木 結局あの時最後は肝臓、胃を最終的には切るということで行ったのですけどね。
大島 胃癌ですか。
稲木 肝臓癌といいますね。その前に黄疸で入院した美代子さんが骨癌だったようで……。
大島 伝統的にあるのだ、じゃ。
稲木 病院へ美代子さんを連れて行ったときに、鈴子さんがすれ違った看護婦さんに「あなた黄疸じゃないか」と言われたとか。それで、今度は自分が病院へ入ることになったのが最後です。
大島 じゃ、黄色かったのだ、もう。
稲木 美代子さんや党の同志の人にも時に農作業を手伝ってもらいながら、一人で田んぼを守り、この中野家を守っていました。重治さんはもうそんなことしないでもいい、屋敷、田んぼなどは売って、東京へ来るよう鈴子さんに言っておられたようですが。
で、最終的には肝臓癌でないかなと思われますけど。東京に三井厚生病院というのがあった、今は三井記念病院というのだと思いますけど、東京の次の秋葉原駅からちょっといったところね。そこへ福井の日赤から転院して、手術を二度うけるわけです。それで亡くなられた。
大島 薄幸だね、しかし。
稲木 本当にね。借金もあったのです。
大島 どうしたのだね、借金は。
稲木 もうどうしようもないというような状況で、東京への転院にあたって福井で募金を訴えもしたし、仲間達が大分あちこち奔走してね。町会議員をしていた友人がなんと生活保護が取れないかとか骨折りましたが、屋敷が一応あって、田んぼもあるという、そういう者が生活保護なんか取れないという、そういうふうなことやらいろいろ条件が悪くて。
大島 最後には逆に家に押しつぶされたようなものだよ。そんなもの背負わなきゃいいのに。
稲木 本当はそれ背負いたくなくて、上京したのですから、一旦は。戦後も一度は上京したけれども、結局、元へ戻っていかざるを得なかった。恋愛が実らなかったこともあります。しかし故郷に鈴子さんの人生の原点があり、自身の詩の原点があることをつらぬいたのです。その際、祖父に対して親愛の想いがあったと思えます。
(つづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』──「大島博光氏に聞く 中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃」)
大島博光氏に聞く
中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃
中野鈴子への尊敬
稲木信夫 昭和十年代の詩誌『蝋人形』の頃、中野鈴子をご存知だったのでしょうか。
大島博光 僕らその頃から尊敬していたよ。
稲木 一九三七年頃の鈴子さんの作品「われ坐りて」とか「人々は持つだろう」「時待たずして」など、これらがみな文芸誌『蝋人形』に発表したのではないかって思うのですが、お覚えがありなさるかどうか。
大島 私が編集に関わる前に載せればね、載せているかもしれないし。いや、僕はこれ初めて読むよ。
稲木 そうですか。その頃の『蝋人形』に発表でないかというのですが。「われ坐りて」は鈴子詩集『花もわたしを知らない』に『蝋人形』発表とあるのですが、ほか二篇は不明なのです。私は直接それに当たっていないものですから、ちょっとはっきりしたこと言えないのですけども。中野鈴子さんは、自分の作品を非常に大切になさったのです。それで、例えば入院なさるときでも、その原稿の入った袋、風呂敷包みを病院まで持って行くくらいに大切にしていなさったのですよ。それだけにね。
大島 僕は初めてだ。
稲木 そうですか。三篇あるのです。『蝋人形』でないかということなのですが。お覚えがなければ……。鈴子さんは、スクラップ帖に貼っていたのです、印刷されたものを。そこに「われ坐りて」だけは「ろう人形」って書いてあったのです。
大島 そうなんだ。じゃそうかもしれないね。
稲木 ですけど、あとで調べた結果でもわからなかったようです。先生は『蝋人形』のバックナンバーはお持ちでないでしょうか。
大島 みんな捨てちゃった。
稲木 日本近代文学館にあるかもしれないですけど。私も以前に調べたことはあるんですが、その時はわからなくて。ところで、その頃、先生は鈴子さんにお会いになったことはないわけですね。
大島 ええ、僕はない。ただもうあれでね、当時の。
稲木 名前だけ知っていなさったと。
大島 今度あなたのお仕事見たからなおさら。
稲木 思い出されましたか。
大島 「私は深く兄を愛した」なんかすごいね。あんな詩ぐらい中野鈴子自体を表しているものないよ。まあ、あの詩だけでも珍品だよ。
稲木 戦時体制に向かう厳しい時代の兄の転向、裁判所での、そのときの鈴子さんの想いの詩、あの思い、本当に痛切な兄の苦痛に対する彼女の思いというのがあそこに出ています。あの詩は転向から二年ぐらい後でした、書かれたのが。この作品が『文学評論』に発表の際は、非常に悩まれたあとですが、兄への同情というより、批判としてはっきりした思いが書かれたのです。戦後出した詩集『花もわたしを知らない』では、その部分を鈴子自身が削っておりますが。
大島 おもしろいね、僕はね、中野(重治)君を思うとね、フランスの詩人ルイ・アラゴンと比べてみるのだよ。
稲木 アラゴンとね。
大島 両方とも中央委員で、それから天才で、多くの仕事をし、ね、ちょっと超人的な仕事と才能を持ちさ。似ているのだよ。
それでね、アラゴンなんかはもっと攻撃されるわけよ、党内と党外から。スターリンの肖像画のことね。
稲木 ピカソが描いたスターリンの肖像画問題……。
大島 アラゴンはピカソを擁護した。それで、あれだけレジスタンスで働いた者でも今度はブルジョア批判でものすごい非難がくるわけ、非難というか、なんというの、やっつけられるわけよ。
稲木 攻撃される。
大島 言葉によるリンチだよ。そういう中でもアラゴンは……。
稲木 アラゴンはきちんと自分の立場を述べられて。
大島 一番そこで僕感じるのはね、彼はいつでも「人民の立場」ということを言うのだよ。これこそがやはり基本だよ。人民の立場に立てばさ、そんな……。
稲木 そんな迷いも何もね。
大島 迷うことないよ、文壇で原稿を売っていく必要もないよ、別に。僕はそれがけじめだと思うよ。アラゴンは「人民のために」という、これをね、詩でも絶えず言っているもの。そういうことをうたっていてだね、裏切れないよ。
稲木 はい。ある程度、共産党に批判的な立場をとっていれば、文壇の方で使われる、賞ももらえるとか。
大島 やはりフランスでもそうなんだよ。フランスはアラゴンの著書をガレマーロという大きな本屋から出しちゃう。そうするとガレマーロがやっつけられるんだよ。ガレマーロは左翼の兵だ、ガレマーロは国民の敵だと言って。
稲木 そうですね。
大島 そういう点では日本なんかは、黙殺でしょ。ところがフランスの方は、ジャーナリズムでもう集中砲火を浴びせるらしいね。ひどいものらしいよ。もうその当時、妻のエルザが歎いているんだよ。あれだけレジスタンスで働いて、私たちは美しい戦後がくると思ったら、もう地獄だって。だから、レジスタンスの栄光の後がね、そういう社会的にはブルジョア階級の階級闘争が逆に激化してね、ブルジョア階級は利用しているわけだよ、共産党なんかのこのレジスタンスをね。
大島 ほとんどこの国の七〇%から八〇%の地域は共産党系のレジスタンスが解放したってんだから。ところが戦後になれば、手を返して、ドゴールがみんないいところを入れて、今度は追い出すわけだよ。
稲木 そういう意味で、中野鈴子をもっとね。
大島 それはそうだよ、中野鈴子なんかね、もう。
稲木 大事にしたい、日本の詩人として。
大島 我々の先人としてね、先輩としても。あなたの『詩人中野鈴子の生涯』、立派なものだよ。
稲木 いや、未熟です。私はこの本を出しましたもので、出版社の方から送られたときにすぐ中野家に送りました。そして、一昨年、詩人会議で会合がありまして、その上京の際に、直接、世田谷の中野家へも行きました。妻といっしょでしたが、外に妻を待たせて家に入りました。家には長女の鰀目卯女さんがおられまして、初対面で、よく会っていただけたなとは思うんですけど、私はお礼のつもりで伺いまして。
卯女さんは読んではおられてですね、あちこち具体的に何点か、これは違っているよということは、例えば父の母親は文盲ではなかったよとか話されました。それは私もそれでありがたいと思いました。
(「鈴子と『蝋人形』」へつづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』)
中野鈴子と詩誌『蝋人形』の頃
中野鈴子への尊敬
稲木信夫 昭和十年代の詩誌『蝋人形』の頃、中野鈴子をご存知だったのでしょうか。
大島博光 僕らその頃から尊敬していたよ。
稲木 一九三七年頃の鈴子さんの作品「われ坐りて」とか「人々は持つだろう」「時待たずして」など、これらがみな文芸誌『蝋人形』に発表したのではないかって思うのですが、お覚えがありなさるかどうか。
大島 私が編集に関わる前に載せればね、載せているかもしれないし。いや、僕はこれ初めて読むよ。
稲木 そうですか。その頃の『蝋人形』に発表でないかというのですが。「われ坐りて」は鈴子詩集『花もわたしを知らない』に『蝋人形』発表とあるのですが、ほか二篇は不明なのです。私は直接それに当たっていないものですから、ちょっとはっきりしたこと言えないのですけども。中野鈴子さんは、自分の作品を非常に大切になさったのです。それで、例えば入院なさるときでも、その原稿の入った袋、風呂敷包みを病院まで持って行くくらいに大切にしていなさったのですよ。それだけにね。
大島 僕は初めてだ。
稲木 そうですか。三篇あるのです。『蝋人形』でないかということなのですが。お覚えがなければ……。鈴子さんは、スクラップ帖に貼っていたのです、印刷されたものを。そこに「われ坐りて」だけは「ろう人形」って書いてあったのです。
大島 そうなんだ。じゃそうかもしれないね。
稲木 ですけど、あとで調べた結果でもわからなかったようです。先生は『蝋人形』のバックナンバーはお持ちでないでしょうか。
大島 みんな捨てちゃった。
稲木 日本近代文学館にあるかもしれないですけど。私も以前に調べたことはあるんですが、その時はわからなくて。ところで、その頃、先生は鈴子さんにお会いになったことはないわけですね。
大島 ええ、僕はない。ただもうあれでね、当時の。
稲木 名前だけ知っていなさったと。
大島 今度あなたのお仕事見たからなおさら。
稲木 思い出されましたか。
大島 「私は深く兄を愛した」なんかすごいね。あんな詩ぐらい中野鈴子自体を表しているものないよ。まあ、あの詩だけでも珍品だよ。
稲木 戦時体制に向かう厳しい時代の兄の転向、裁判所での、そのときの鈴子さんの想いの詩、あの思い、本当に痛切な兄の苦痛に対する彼女の思いというのがあそこに出ています。あの詩は転向から二年ぐらい後でした、書かれたのが。この作品が『文学評論』に発表の際は、非常に悩まれたあとですが、兄への同情というより、批判としてはっきりした思いが書かれたのです。戦後出した詩集『花もわたしを知らない』では、その部分を鈴子自身が削っておりますが。
大島 おもしろいね、僕はね、中野(重治)君を思うとね、フランスの詩人ルイ・アラゴンと比べてみるのだよ。
稲木 アラゴンとね。
大島 両方とも中央委員で、それから天才で、多くの仕事をし、ね、ちょっと超人的な仕事と才能を持ちさ。似ているのだよ。
それでね、アラゴンなんかはもっと攻撃されるわけよ、党内と党外から。スターリンの肖像画のことね。
稲木 ピカソが描いたスターリンの肖像画問題……。
大島 アラゴンはピカソを擁護した。それで、あれだけレジスタンスで働いた者でも今度はブルジョア批判でものすごい非難がくるわけ、非難というか、なんというの、やっつけられるわけよ。
稲木 攻撃される。
大島 言葉によるリンチだよ。そういう中でもアラゴンは……。
稲木 アラゴンはきちんと自分の立場を述べられて。
大島 一番そこで僕感じるのはね、彼はいつでも「人民の立場」ということを言うのだよ。これこそがやはり基本だよ。人民の立場に立てばさ、そんな……。
稲木 そんな迷いも何もね。
大島 迷うことないよ、文壇で原稿を売っていく必要もないよ、別に。僕はそれがけじめだと思うよ。アラゴンは「人民のために」という、これをね、詩でも絶えず言っているもの。そういうことをうたっていてだね、裏切れないよ。
稲木 はい。ある程度、共産党に批判的な立場をとっていれば、文壇の方で使われる、賞ももらえるとか。
大島 やはりフランスでもそうなんだよ。フランスはアラゴンの著書をガレマーロという大きな本屋から出しちゃう。そうするとガレマーロがやっつけられるんだよ。ガレマーロは左翼の兵だ、ガレマーロは国民の敵だと言って。
稲木 そうですね。
大島 そういう点では日本なんかは、黙殺でしょ。ところがフランスの方は、ジャーナリズムでもう集中砲火を浴びせるらしいね。ひどいものらしいよ。もうその当時、妻のエルザが歎いているんだよ。あれだけレジスタンスで働いて、私たちは美しい戦後がくると思ったら、もう地獄だって。だから、レジスタンスの栄光の後がね、そういう社会的にはブルジョア階級の階級闘争が逆に激化してね、ブルジョア階級は利用しているわけだよ、共産党なんかのこのレジスタンスをね。
大島 ほとんどこの国の七〇%から八〇%の地域は共産党系のレジスタンスが解放したってんだから。ところが戦後になれば、手を返して、ドゴールがみんないいところを入れて、今度は追い出すわけだよ。
稲木 そういう意味で、中野鈴子をもっとね。
大島 それはそうだよ、中野鈴子なんかね、もう。
稲木 大事にしたい、日本の詩人として。
大島 我々の先人としてね、先輩としても。あなたの『詩人中野鈴子の生涯』、立派なものだよ。
稲木 いや、未熟です。私はこの本を出しましたもので、出版社の方から送られたときにすぐ中野家に送りました。そして、一昨年、詩人会議で会合がありまして、その上京の際に、直接、世田谷の中野家へも行きました。妻といっしょでしたが、外に妻を待たせて家に入りました。家には長女の鰀目卯女さんがおられまして、初対面で、よく会っていただけたなとは思うんですけど、私はお礼のつもりで伺いまして。
卯女さんは読んではおられてですね、あちこち具体的に何点か、これは違っているよということは、例えば父の母親は文盲ではなかったよとか話されました。それは私もそれでありがたいと思いました。
(「鈴子と『蝋人形』」へつづく)
(稲木信夫評論集『詩人中野鈴子を追う』)