昭和十九年
五月七日 軽井沢沓掛の宿にて
永遠と時間、人間の偉大さと惨めさ、有限と無限・・・
これら両極のあひだを動揺することによって、わが日日は流れ去る。このやうなイデエたちが友のごとくわれに語りかける。不可見が可視的に身近かに感じられる。光りと闇がだんだん溶けてくる・・・しかしわれ自ら、わが内なる深淵に溺れはせぬか、それが怖ろしい。しかしまたその時には、翼が役立たう。そのやうな時には、わが深淵を天空に投げかへさう。
五月十一日
夜、暗たんとして強き風あり。宿を出でて、追分への道を彷徨す。嵐の夜の底より天空に叫べど、叫び声はただ風に運び去られ、死せる暗黒の天体(ほし)にひとり佇み立てるもののごとし。パスカルの「永遠の沈黙」を想へり。知性の疲れはて、黙する時、心臓が不安に戦くならむ。これは一個の心理学的問題たるべし。──暗黒の夜の天空の彼方になほ永遠の光彩を描き見るは精神の操作のみ。
* * *
昭和19年4月、『蝋人形』が解散したため、博光は信州に疎開して療養生活を始めた。この日記によって5月と8月に軽井沢に逗留していたことがわかった。清沢洌の「暗黒日記」に──昭和19年5月13日(土)鮎沢つゆ子さんの友人の詩人大島博光という人尋ね来たる。つゆ子さんが駅で逢ったのだという。詩の雑誌をやっていたが統合されて無職である。──と書いてある。博光が鮎沢露子と逢った理由が軽井沢啓明学園への就職に関わったことかと推測していたが、啓明学園とは関係ないようだ。軽井沢を逍遥していた博光が鮎沢露子と偶然会ったのか、別の理由があったのかは不明。
ちなみに、この日記には5月14日の記載が2回あるのに、5月13日の記載はない。清沢洌や鮎沢露子も出てこない。
・五月十四日
朝食後、宿を出でて、追分に向ひ散歩の道を辿る・・・
・五月十四日 快晴なれど風強し
浅間の全貌を望むべく、沓掛南部の野を逍遥す・・・
・六月七日 千曲河畔にて
・六月十日 若葉に漂ふ緑がかった黄昏の明るみの中に・・・
・七月六日 田舎の静けさの中には・・・
・八月十日 沓掛にて
・八月十二日 沓掛にて
・八月十三日 今朝、浅間が爆発した・・・
・八月十四日 沓掛にて
・八月二十九日 千曲河畔にて
・9月8日 千曲川畔にて
・9月9日 ヴァレリイの『海辺の墓場』を訳したり、キエルケゴールの『饗宴』を訳していながら、絶えずわが脳裏に去来するのは詩と詩人の場所の問題である。
・12月29日 遠き世界のひびき、神秘のひびきを獲得して・・・
・(ノート後部 日付なし)またすこし熱がでると共に、不吉な幻影に襲はれ・・・(友人だった画家酒井正と山鹿正純の死について)
・(ノート後部 日付なし)リルケに就いて
・(ノート前部 日付なし)今朝は風もないしづかな春の朝であった・・・
・(ノート前部 日付なし)春はまづ音からはじまる。
・(ノート前部 訳詩)海べの墓地
<ノート戦前-S19>
五月七日 軽井沢沓掛の宿にて
永遠と時間、人間の偉大さと惨めさ、有限と無限・・・
これら両極のあひだを動揺することによって、わが日日は流れ去る。このやうなイデエたちが友のごとくわれに語りかける。不可見が可視的に身近かに感じられる。光りと闇がだんだん溶けてくる・・・しかしわれ自ら、わが内なる深淵に溺れはせぬか、それが怖ろしい。しかしまたその時には、翼が役立たう。そのやうな時には、わが深淵を天空に投げかへさう。
五月十一日
夜、暗たんとして強き風あり。宿を出でて、追分への道を彷徨す。嵐の夜の底より天空に叫べど、叫び声はただ風に運び去られ、死せる暗黒の天体(ほし)にひとり佇み立てるもののごとし。パスカルの「永遠の沈黙」を想へり。知性の疲れはて、黙する時、心臓が不安に戦くならむ。これは一個の心理学的問題たるべし。──暗黒の夜の天空の彼方になほ永遠の光彩を描き見るは精神の操作のみ。
* * *
昭和19年4月、『蝋人形』が解散したため、博光は信州に疎開して療養生活を始めた。この日記によって5月と8月に軽井沢に逗留していたことがわかった。清沢洌の「暗黒日記」に──昭和19年5月13日(土)鮎沢つゆ子さんの友人の詩人大島博光という人尋ね来たる。つゆ子さんが駅で逢ったのだという。詩の雑誌をやっていたが統合されて無職である。──と書いてある。博光が鮎沢露子と逢った理由が軽井沢啓明学園への就職に関わったことかと推測していたが、啓明学園とは関係ないようだ。軽井沢を逍遥していた博光が鮎沢露子と偶然会ったのか、別の理由があったのかは不明。
ちなみに、この日記には5月14日の記載が2回あるのに、5月13日の記載はない。清沢洌や鮎沢露子も出てこない。
・五月十四日
朝食後、宿を出でて、追分に向ひ散歩の道を辿る・・・
・五月十四日 快晴なれど風強し
浅間の全貌を望むべく、沓掛南部の野を逍遥す・・・
・六月七日 千曲河畔にて
・六月十日 若葉に漂ふ緑がかった黄昏の明るみの中に・・・
・七月六日 田舎の静けさの中には・・・
・八月十日 沓掛にて
・八月十二日 沓掛にて
・八月十三日 今朝、浅間が爆発した・・・
・八月十四日 沓掛にて
・八月二十九日 千曲河畔にて
・9月8日 千曲川畔にて
・9月9日 ヴァレリイの『海辺の墓場』を訳したり、キエルケゴールの『饗宴』を訳していながら、絶えずわが脳裏に去来するのは詩と詩人の場所の問題である。
・12月29日 遠き世界のひびき、神秘のひびきを獲得して・・・
・(ノート後部 日付なし)またすこし熱がでると共に、不吉な幻影に襲はれ・・・(友人だった画家酒井正と山鹿正純の死について)
・(ノート後部 日付なし)リルケに就いて
・(ノート前部 日付なし)今朝は風もないしづかな春の朝であった・・・
・(ノート前部 日付なし)春はまづ音からはじまる。
・(ノート前部 訳詩)海べの墓地
<ノート戦前-S19>
ジャン・バティスト・クレマン
ジャン・バティスト・クレマンは、一八三六年五月三十日、パリ郊外のブローニュ・シュル・セーヌに生まれた。父親は水車小屋をもっていて、製粉業を営んでいた。
かれは十四歳から働きはじめ、大工、酒屋の小僧、人夫など、いろいろな職業について苦労をなめる。モンマルトルに住んでいた叔母の家によく遊びにゆき、そこで芸術家や作家と知り合いになる。こうして学校へ行かなかったクレマンは、独学で勉強する。
一八四八年(二月革命)のシャンソニエたち──エゲシップ・モロー、ピエル・デュポンらの影響のもとに、かれは『パン層の歌』や反抗の歌、恋の歌などを書く。反抗の歌は、第二帝制の検閲によってしばしば発禁となる。
一八六六年、クレマンはベルギーに滞在中、あの有名な『さくらんぼの熟れる頃』を書く。この愛のシャンソンは、ただ、さくらんぼの実の熟れる短い季節と恋のつらさをうたった詩のようにも見えるが、しかしまた、人間のよろこび、苦しみ、希望を表現した、多くの意味をもった詩でもある。のちに(一八八五年)、この詩を収めた『シャンソン集』を刊行したとき、クレマンは、コミューン最後のバリケードのひとつでめぐり会った勇敢な看護婦ルイズに、この詩をささげた。こうして、この詩の書かれた一八六六年という日付は忘れられて、一八七一年の春の思い出を、人々はこの詩に見出すことになる。
ベルギーから帰国するや、かれは筆を執り弁論をふるって帝政と闘い、プルードン主義的な政治評論のために投獄される。一八七〇年九月、出獄すると、かれは国民軍に参加し、ヴァレスの『クリ・デュ・プープル(人民の叫び)』紙に筆をとる。かれは、パリ第十八区(モンマルトル)の監視委員会の委員に選ばれ、十月二十一日、一月二十一日、三月十八日などの革命的行動および蜂起に参加する。
コミューンの成立後、かれはコミューンの委員に選ばれ、居住区モンマルトルの自治に専念すると同時に、いろいろな任務を果たす。かれはヴェルサイユ軍にたいして徹底的抗戦を主張し、最後までバリケードで戦う。コミューン敗北後は、ベルシー河岸の隠れ家に二ヵ月のあいだ潜伏したのち、イギリスに逃れる。
一八七一年の事件によって、かれは階級闘争の現実に眼をひらく。『シャンソン集』(一八八五年)の序文にかれは書く。
「勝利者と敗者とのあいだには、もはや和解はありえなかった・・・人民は自分の貧困をはっきりと見つめ、自分の利益をはっきりと知り、偉大な社会問題の解決の時を速めさせなければならない・・・」
追放中も、大赦ののちも、クレマンは近代的な下層貧民の感情と運命を反映した社会的なシャンソンを書こうと努める。
一八八〇年、追放から帰国するや、かれはゲードの労働者党に加盟し、もちまえの雄弁と宣伝の才をふるって有名となる。のちにアルデンヌにおける社会主義的な労働組合活動を指導し、一九〇三年に死ぬまで、労働運動に参加した。
<新日本新書『パリ・コミューンの詩人たち』─詩人たち>
ジャン・バティスト・クレマンは、一八三六年五月三十日、パリ郊外のブローニュ・シュル・セーヌに生まれた。父親は水車小屋をもっていて、製粉業を営んでいた。
かれは十四歳から働きはじめ、大工、酒屋の小僧、人夫など、いろいろな職業について苦労をなめる。モンマルトルに住んでいた叔母の家によく遊びにゆき、そこで芸術家や作家と知り合いになる。こうして学校へ行かなかったクレマンは、独学で勉強する。
一八四八年(二月革命)のシャンソニエたち──エゲシップ・モロー、ピエル・デュポンらの影響のもとに、かれは『パン層の歌』や反抗の歌、恋の歌などを書く。反抗の歌は、第二帝制の検閲によってしばしば発禁となる。
一八六六年、クレマンはベルギーに滞在中、あの有名な『さくらんぼの熟れる頃』を書く。この愛のシャンソンは、ただ、さくらんぼの実の熟れる短い季節と恋のつらさをうたった詩のようにも見えるが、しかしまた、人間のよろこび、苦しみ、希望を表現した、多くの意味をもった詩でもある。のちに(一八八五年)、この詩を収めた『シャンソン集』を刊行したとき、クレマンは、コミューン最後のバリケードのひとつでめぐり会った勇敢な看護婦ルイズに、この詩をささげた。こうして、この詩の書かれた一八六六年という日付は忘れられて、一八七一年の春の思い出を、人々はこの詩に見出すことになる。
ベルギーから帰国するや、かれは筆を執り弁論をふるって帝政と闘い、プルードン主義的な政治評論のために投獄される。一八七〇年九月、出獄すると、かれは国民軍に参加し、ヴァレスの『クリ・デュ・プープル(人民の叫び)』紙に筆をとる。かれは、パリ第十八区(モンマルトル)の監視委員会の委員に選ばれ、十月二十一日、一月二十一日、三月十八日などの革命的行動および蜂起に参加する。
コミューンの成立後、かれはコミューンの委員に選ばれ、居住区モンマルトルの自治に専念すると同時に、いろいろな任務を果たす。かれはヴェルサイユ軍にたいして徹底的抗戦を主張し、最後までバリケードで戦う。コミューン敗北後は、ベルシー河岸の隠れ家に二ヵ月のあいだ潜伏したのち、イギリスに逃れる。
一八七一年の事件によって、かれは階級闘争の現実に眼をひらく。『シャンソン集』(一八八五年)の序文にかれは書く。
「勝利者と敗者とのあいだには、もはや和解はありえなかった・・・人民は自分の貧困をはっきりと見つめ、自分の利益をはっきりと知り、偉大な社会問題の解決の時を速めさせなければならない・・・」
追放中も、大赦ののちも、クレマンは近代的な下層貧民の感情と運命を反映した社会的なシャンソンを書こうと努める。
一八八〇年、追放から帰国するや、かれはゲードの労働者党に加盟し、もちまえの雄弁と宣伝の才をふるって有名となる。のちにアルデンヌにおける社会主義的な労働組合活動を指導し、一九〇三年に死ぬまで、労働運動に参加した。
<新日本新書『パリ・コミューンの詩人たち』─詩人たち>
若葉が目に映え、千曲川の土手に上がってみると、強い風に吹かれて草も若葉も波打つばかり。シャッターチャンスは決まらず、体が冷えこんでしまって・・・
夜の名画鑑賞会は「風の又三郎 ガラスのマント」・・・雨はざっこざっこ雨三郎、風はどっこどっこ又三郎・・・強風に木々が揺れ大雨が降りしぶくクライマックスに、撮影者や出演者の苦労を思ってしまった。
── 風よ、子供たちよ、大自然を駆けめぐれ──
子供たちが生き生きと走り回り、美しい映像と音楽、宮沢賢治のファンタジーの世界に触れ、期せずして拍手。昼間の強風も風の又三郎の挨拶だったのね?



廃線となった長野電鉄屋代線の代替のバスが走っていました。


昨年移植した杏の木に実がつきました。
夜の名画鑑賞会は「風の又三郎 ガラスのマント」・・・雨はざっこざっこ雨三郎、風はどっこどっこ又三郎・・・強風に木々が揺れ大雨が降りしぶくクライマックスに、撮影者や出演者の苦労を思ってしまった。
── 風よ、子供たちよ、大自然を駆けめぐれ──
子供たちが生き生きと走り回り、美しい映像と音楽、宮沢賢治のファンタジーの世界に触れ、期せずして拍手。昼間の強風も風の又三郎の挨拶だったのね?



廃線となった長野電鉄屋代線の代替のバスが走っていました。


昨年移植した杏の木に実がつきました。
お手紙とクロッキイありがたう存じました。久しぶりに線の魅惑に接しました。線がそこに描かれていない触感をさへ抱きかかえていることに驚きました。あなたのクロッキイは、私にマイヨオルの或る彫刻を連想させました。今度はあなたの自画像のそれを見せて下さい。
あなたが、豊富な色彩感とプラスティクに対する感覚をもちながら、さらにあの利根川の風景描写の中には音楽的律動を捉えていることは、驚異を私に与へます。ヴァレリイは、コロオの風景画を批評して、たしか「歌っている」と言っていました。あなたの風景画も歌っているに相違ない。あなたはそれをムウヴマンと言っているやうですが。──実を言へば、いつも私に想ひ浮んでくるのは、貴方の声なのです。それは、もう美しいソナタの小楽節、それもピアニッシモでつづくアンダンテのやうに、私の耳に残っているのです。ソプラノには堪えられない私の耳が、どんなにあなたの静かなアルトに憩ふたか、私は今も阿佐ヶ谷の夜を想ひうかべることができます。このやうな音調(タンブル)、音色(トオン)は、またあなたの画面に現れているかも知れない。それはジョン系の色彩と、ブルウ・グレエなどに対するあなたの偏愛が物語っているやうにおもはれます。しかし詩には、かういふ微妙な色彩や音感を盛ることは至難であるのみか、殆ど不可能なのです。ただコレスポンダンスによって、類推によって、近似値を創造するよりほかないのです。しかし、詩もそこまで行けばもう傑作たらざるを得ませんが、とてもいきがたいところです。
もう寒く、フィッシングにも行けず、久しぶりに家に閉じこめられていますと、もう何から手をつけてよいか分りません。あまり永いこと原始人の幸福に浸っていたので、思索することが、迷宮の道を辿るやうに、難事に見えて、一向に進みません。昨日は一日中、プルウストの小説を読み耽って、意識過剰、分析癖、神経の綾織、などに自己を移し入れてみました。しかし、それも倦怠に色どられています。早くマラルメかヴァレリイに戻って行かねばならないのですが、時に、このやうな高度な純粋さは恐怖を与へます。それは、大きな自己集中と努力を要求するからです。しかし、美しい秋を忘却のうちに過ごしたのですから、この冬は何か獲得しなければなりません。精神は何ものかを発見するでせう。
御精進を祈ります。
十一月十九日
大島博光
鈴木静江様
*昭和十九年十月に初めて静江に手紙を書いたが、それに続く手紙。
あなたが、豊富な色彩感とプラスティクに対する感覚をもちながら、さらにあの利根川の風景描写の中には音楽的律動を捉えていることは、驚異を私に与へます。ヴァレリイは、コロオの風景画を批評して、たしか「歌っている」と言っていました。あなたの風景画も歌っているに相違ない。あなたはそれをムウヴマンと言っているやうですが。──実を言へば、いつも私に想ひ浮んでくるのは、貴方の声なのです。それは、もう美しいソナタの小楽節、それもピアニッシモでつづくアンダンテのやうに、私の耳に残っているのです。ソプラノには堪えられない私の耳が、どんなにあなたの静かなアルトに憩ふたか、私は今も阿佐ヶ谷の夜を想ひうかべることができます。このやうな音調(タンブル)、音色(トオン)は、またあなたの画面に現れているかも知れない。それはジョン系の色彩と、ブルウ・グレエなどに対するあなたの偏愛が物語っているやうにおもはれます。しかし詩には、かういふ微妙な色彩や音感を盛ることは至難であるのみか、殆ど不可能なのです。ただコレスポンダンスによって、類推によって、近似値を創造するよりほかないのです。しかし、詩もそこまで行けばもう傑作たらざるを得ませんが、とてもいきがたいところです。
もう寒く、フィッシングにも行けず、久しぶりに家に閉じこめられていますと、もう何から手をつけてよいか分りません。あまり永いこと原始人の幸福に浸っていたので、思索することが、迷宮の道を辿るやうに、難事に見えて、一向に進みません。昨日は一日中、プルウストの小説を読み耽って、意識過剰、分析癖、神経の綾織、などに自己を移し入れてみました。しかし、それも倦怠に色どられています。早くマラルメかヴァレリイに戻って行かねばならないのですが、時に、このやうな高度な純粋さは恐怖を与へます。それは、大きな自己集中と努力を要求するからです。しかし、美しい秋を忘却のうちに過ごしたのですから、この冬は何か獲得しなければなりません。精神は何ものかを発見するでせう。
御精進を祈ります。
十一月十九日
大島博光
鈴木静江様
*昭和十九年十月に初めて静江に手紙を書いたが、それに続く手紙。

文芸評論家の東栄蔵先生がこのほど刊行した「信州の教育・文化を問う」(「文芸出版」2012年5月)。信州の教育と文化に関わる評論・随想30篇を3章に構成しています。その第3章は文学に関わるもので、「愛と平和の詩人 大島博光」は2010年11月に大島博光生誕100年記念のつどいで行った講演「信州文学と大島博光」をもとに書かれています。博光の生涯と著作を概括したうえで、その詩の魅力、源流をわかりやすく解明、1)千曲川のほとりで思春期をすごしたこと、2)西條八十主宰の『蝋人形』の編集を通じてフランス語の力と抒情的美意識を培ったこと、3)戦後、アラゴンやエリュアールらの詩集の翻訳を通して社会的な抵抗をリアリズムで詠む領域を身につけたこと、この3要素が底辺を形成していると論じています。
ついで、愛誦したい詩として数篇挙げています。「わたしは歌いたい」(腰原哲朗の『長野県文学全集・詩歌編』解説に共感していると)「わたしのうちにもそとがわにも」「鳩の歌」を掲示して紹介、「硫黄島」「ひろしまのおとめたちの歌」「ヒロシマ・ナガサキから吹く風は」などの反戦詩は独自のリアリズムに立った詩群で、核廃絶のモチーフは今日いよいよ人びとの胸に響くものをひそめていると。
さいごに千曲川を詠んだ詩について論評、原子朗の「博光の詩はどの詩にも千曲川の流れが ”野太い旋律”となって流れている」との指摘に共鳴できるとして、「友よわたしが死んだら」「灰を撒く」を掲示、「千曲川 その水に」は千曲川の詩の集大成のような透明な詩であるとしています。
ウジューヌ・ポティエ
コミューンの詩人たちのなかで、最大の詩人は疑いもなくウジューヌ・ポティエであった。『インタナショナル』の作詞者ポティエは、一八一六年、パリの労働者の家に生まれた。十三歳から徒弟となって働き、独学で勉強する。詩人ベランジェが好きで、十二歳のときに、すでにかれの詩を暗誦することができた。
一八三〇年の革命のなかで、かれは十四歳にして最初のシャンソン『自由万歳!』を書いた。その後も、働きながら書きつづける。
一八四八年の「六月革命」に参加し──その頃、かれはフーリエ主義者であった──あやうくバリケードで銃殺されるところであった。
一八五一年のナポレオン三世による十二月政変後、ポティエはインタナショナル加盟の組合運動に参加する。
一八七〇年七月、かれは、インタナショナル・パリ支部がドイツの労働者に送った戦争反対の呼びかけに、署名する。プロイセン軍のパリ侵攻を前にして、かれはフランス大革命(一七九三年)の愛国的伝統の名において、人民の大衆的蜂起を呼びかける。かれは第二区の監視委員に指名される。コミューンが成立するや、かれはコミューン評議員に選出され、居住区および「芸術家連盟」に参加しコミューンを守るため、かれはバリケードの上で闘い、ヴェルサイユ軍の弾圧が始まると身を隠して、のちにイギリス、ついでアメリカに亡命する。
かれは、一八七三年からー八八〇年までアメリカに滞在し、苦しい生活を送りながら、アメリカの資本主義を研究する。コミューンの同志たちと連絡をとりながら、アメリカの労働運動に参加し、コミューンの経験と教訓とをもつて、アメリカにおける最初の社会主義党の創立を援助する。
一八八〇年、貧窮と病身をかかえて帰国すると、かれはただちに「労働党」にはいって、ふたたび筆をとって闘争に参加する。しかし一八八七年、中風症のために没する。一八八七年十一月八日、パリの労働者は、ポティエの遺骸を、銃殺されたコミューン戦士たちの埋葬されているペール・ラシェーズ墓地に埋葬した。大群衆がこの市民葬に参加し、「ポティエ万歳!」を叫んだ。
詩人ポティエの真価が大衆に知られたのは、かれの死の直前、コミューンの同志たちの援助の下に出版された『革命歌集』によってであった。(この歌集は、一九〇八年と一九三七年に再刊され、数版を重ねた。)
詩人ポティエは、世界文学史上、科学的社会主義の思想をわがものとした最初の詩人のひとりであった。かれがこの思想をわがものとしたのは、むろん、理論家としてではなく、詩人としてであった。歴史的・社会的な諸問題は、ポティエにあっては、人間の運命をとおして、世界の具体的なイメージとその展望において、反映されている。
一八四八年頃、ポティエの詩はまだ冷やかし半分の風刺詩か、慰めの歌であった。かれの詩が豊かになり、芸術的円熟を見せるのは、コミューン以後である。コミューンは、かれの詩的円熟への出発点であった。
『蜂起者』という詩は、十九世紀末のフランスの労働者たちによってひろく愛誦された詩であるが、詩人はそこで、新しい世界のために闘う新しい人間像を与えている。
きみの前には 野蛮きわまる貧乏があり
きみの前には 重苦しい奴隷暮らしがある
蜂起者は
銃を手に 立ち上った!
蜂起者! 彼の真の名は「人間」だ
「血の週間」の翌日に書かれた『インタナショナル』において、かれはコミューンの教訓を要約し、未来の道をプロレタリアートに指し示している。『インタナショナル』は革命詩人ポティエの成熟を示すと同時に、フランスのプロレタリア階級の成熟をも示しているのである。
レーニンは、ポティエを高く評価し、『その死去二十五周年によせて』で、つぎのように書いている。
「一八七六年、亡命中にポティエは『アメリカの労働者はフランスの労働者に訴える』という詩を書いた。彼はこの詩のなかで資本主義のくびきのもとにある労働者の生活、その貧困、その苦役労働、その搾取、その事業のきたるべき勝利にたいする彼らの固い信念をえがきだした。・・・
ポティエは貧困のうちに死去した。だが彼は自分について不朽の記念碑をのこした。彼は歌による最大の宣伝家の一人であった。彼が最初に歌をつくつたときには、社会主義的労働者の数は、たかだか数十をもつてかぞえられた。しかし、いまでは何千万というプロレタリアがウジェーヌ・ポティエの歴史的な歌を知っているのである」 (大月版『レーニン全集』第十八巻六六七ページ)

<新日本新書『パリ・コミューンの詩人たち』──詩人たち>
コミューンの詩人たちのなかで、最大の詩人は疑いもなくウジューヌ・ポティエであった。『インタナショナル』の作詞者ポティエは、一八一六年、パリの労働者の家に生まれた。十三歳から徒弟となって働き、独学で勉強する。詩人ベランジェが好きで、十二歳のときに、すでにかれの詩を暗誦することができた。
一八三〇年の革命のなかで、かれは十四歳にして最初のシャンソン『自由万歳!』を書いた。その後も、働きながら書きつづける。
一八四八年の「六月革命」に参加し──その頃、かれはフーリエ主義者であった──あやうくバリケードで銃殺されるところであった。
一八五一年のナポレオン三世による十二月政変後、ポティエはインタナショナル加盟の組合運動に参加する。
一八七〇年七月、かれは、インタナショナル・パリ支部がドイツの労働者に送った戦争反対の呼びかけに、署名する。プロイセン軍のパリ侵攻を前にして、かれはフランス大革命(一七九三年)の愛国的伝統の名において、人民の大衆的蜂起を呼びかける。かれは第二区の監視委員に指名される。コミューンが成立するや、かれはコミューン評議員に選出され、居住区および「芸術家連盟」に参加しコミューンを守るため、かれはバリケードの上で闘い、ヴェルサイユ軍の弾圧が始まると身を隠して、のちにイギリス、ついでアメリカに亡命する。
かれは、一八七三年からー八八〇年までアメリカに滞在し、苦しい生活を送りながら、アメリカの資本主義を研究する。コミューンの同志たちと連絡をとりながら、アメリカの労働運動に参加し、コミューンの経験と教訓とをもつて、アメリカにおける最初の社会主義党の創立を援助する。
一八八〇年、貧窮と病身をかかえて帰国すると、かれはただちに「労働党」にはいって、ふたたび筆をとって闘争に参加する。しかし一八八七年、中風症のために没する。一八八七年十一月八日、パリの労働者は、ポティエの遺骸を、銃殺されたコミューン戦士たちの埋葬されているペール・ラシェーズ墓地に埋葬した。大群衆がこの市民葬に参加し、「ポティエ万歳!」を叫んだ。
詩人ポティエの真価が大衆に知られたのは、かれの死の直前、コミューンの同志たちの援助の下に出版された『革命歌集』によってであった。(この歌集は、一九〇八年と一九三七年に再刊され、数版を重ねた。)
詩人ポティエは、世界文学史上、科学的社会主義の思想をわがものとした最初の詩人のひとりであった。かれがこの思想をわがものとしたのは、むろん、理論家としてではなく、詩人としてであった。歴史的・社会的な諸問題は、ポティエにあっては、人間の運命をとおして、世界の具体的なイメージとその展望において、反映されている。
一八四八年頃、ポティエの詩はまだ冷やかし半分の風刺詩か、慰めの歌であった。かれの詩が豊かになり、芸術的円熟を見せるのは、コミューン以後である。コミューンは、かれの詩的円熟への出発点であった。
『蜂起者』という詩は、十九世紀末のフランスの労働者たちによってひろく愛誦された詩であるが、詩人はそこで、新しい世界のために闘う新しい人間像を与えている。
きみの前には 野蛮きわまる貧乏があり
きみの前には 重苦しい奴隷暮らしがある
蜂起者は
銃を手に 立ち上った!
蜂起者! 彼の真の名は「人間」だ
「血の週間」の翌日に書かれた『インタナショナル』において、かれはコミューンの教訓を要約し、未来の道をプロレタリアートに指し示している。『インタナショナル』は革命詩人ポティエの成熟を示すと同時に、フランスのプロレタリア階級の成熟をも示しているのである。
レーニンは、ポティエを高く評価し、『その死去二十五周年によせて』で、つぎのように書いている。
「一八七六年、亡命中にポティエは『アメリカの労働者はフランスの労働者に訴える』という詩を書いた。彼はこの詩のなかで資本主義のくびきのもとにある労働者の生活、その貧困、その苦役労働、その搾取、その事業のきたるべき勝利にたいする彼らの固い信念をえがきだした。・・・
ポティエは貧困のうちに死去した。だが彼は自分について不朽の記念碑をのこした。彼は歌による最大の宣伝家の一人であった。彼が最初に歌をつくつたときには、社会主義的労働者の数は、たかだか数十をもつてかぞえられた。しかし、いまでは何千万というプロレタリアがウジェーヌ・ポティエの歴史的な歌を知っているのである」 (大月版『レーニン全集』第十八巻六六七ページ)

<新日本新書『パリ・コミューンの詩人たち』──詩人たち>
春になると
大島博光
貝がら虫にたかられた庭のもちの木を
手入れにやってきてくれた植木屋が話してくれた
この町に わしほどのびんぼうにんはいない
だが わしらのこの胸のしんには何があるか
だれも知りはしない と
腹がけの胸をぶ厚い手のひらでたたきながら言う
大男の植木屋のおやじが話してくれた
春になると
いままでねむっていた木が水を吸いあげる
大きなけやきの幹などに
ききなれた耳をおしあててきくと
ずー ずー と 暗い幹のなかで
水を吸いあげる音がきこえるのだ
あの無数の葉で吸いあげるんだから
まるで つるべで汲みあげるように
一日に 一斗も二斗も吸いあげるのだ
それで 木の芽どきには
井戸の水が ひくくなるのだ
五三・三
大島博光
貝がら虫にたかられた庭のもちの木を
手入れにやってきてくれた植木屋が話してくれた
この町に わしほどのびんぼうにんはいない
だが わしらのこの胸のしんには何があるか
だれも知りはしない と
腹がけの胸をぶ厚い手のひらでたたきながら言う
大男の植木屋のおやじが話してくれた
春になると
いままでねむっていた木が水を吸いあげる
大きなけやきの幹などに
ききなれた耳をおしあててきくと
ずー ずー と 暗い幹のなかで
水を吸いあげる音がきこえるのだ
あの無数の葉で吸いあげるんだから
まるで つるべで汲みあげるように
一日に 一斗も二斗も吸いあげるのだ
それで 木の芽どきには
井戸の水が ひくくなるのだ
五三・三
春がきたら
大島博光
春がきたら 耳をあててごらん
大きな けやきの樹の幹に
きこえるだろう その暗い幹のなかを
樹液のかけのぼる音が
千の若芽 若葉が
水を吸いあげる音が
だから 木の芽どきになると
井戸の水が ひくくなる
三月の空にもえる 千の若葉が
千のばけつで汲みあげるから
春がきたら 耳をあててごらん
大きな けやきの樹の幹に
この詩は、二年ほどまえに書いて「詩学」にのせた詩を改作したものです。はじめの詩稿では、
貝がら虫にとりつかれたもちの木を
手入れにきた年老いた植木屋が話してくれた
というような説明の部分がつけくわわっていたのを、こんどは取りさったうえに、二行一節にかきあらためてみた。はじめの詩稿からとりさった部分からわかるように、この詩はじっさいにひとりの植木屋がはなしてくれた話をもとにして、書いたものです。その植木屋のほうが、あるいははるかに、春の樹木がさかんに水を吸いあげるさまを、如実に話してくれたかも知れない。「ズーズーと吸いあげる音がきこえますよ。もっとも、ききなれた耳でないときこえませんがね。」と、そんなふうに、擬音(オノマトペ)をまじえて話してくれたのです。そのとき、きいていたわたしの耳には、樹木たちがほんとうに、ズーズーと音をたてて水を吸いあげている音がきこえようにさえ思えました。ちょうど春さきで、ながい冬から解放されて、すべての生命がよみがえったように活動をはじめる、そのさかんな生命の力が、そこにまざまざと見えるような気もちがしたのです。
わたしはこの話を、日記に書きとめておきました。わたしは、すこしながい春の詩を書きたいような心の動きがあったので、いつかその役に立つかも知れないとも考えて。しかし、プランはとうとう実現せずに、結局、植木屋からきいた話だけの部分の、この小さな詩ができあがることになってしまったのです。
この詩には、わかりにくいようなところは一つもないでしょう。むしろ、わかりきっていることばかりとさえいえましょう。けれども、「大きな樹の幹に耳をつけて聞くと、水を吸いあげる音がきこえる」というようなこの詩のモチーフ(動機)は、一見、きわめて平凡のように見えますが、やはり年とった、経験をつんだ植木屋でなければ、なかなかつかめないところだと思います。
きこえるだろう その暗い幹のなかを
樹液のかけのぼる音が
この二行には、暗い幹のなかでいとなまれている植物の生命の不思議さにたいする、作者自身の感動がうたいこめられています。「暗い幹のなか」ということのなかには、わたしたち人間の内部をも暗示させたい作者の気もちが、はいってもいるのです。この、耳にうったえる詩句、生命の内部でいとなまれている眼にみえない営みをうたった詩句にたいして、
だから 木の芽どきになると
井戸の水が ひくくなる
という、眼にうったえるイメージが対置されます。樹木の生命のいとなみは、井戸の水位をさげるほどにもさかんだ、ということなのですが、これはただそういう形容句であるばかりでなく、大地のなかでの樹木と地下水の関係のおもしろさも、ここでうたわれているのです。だから、そういうあらわでないところでの関係のおもしろみというものを、このなにげない詩句から、感じとってほしいというのが、作者のねがいでもあります。
三月の空にもえる 千の若葉が
千のばけつで汲みあげるから
という詩句は、井戸というイメージにつづいて、自然に出てきたものです。ここで、「千の若葉が 千のばけつで」といったのは、たんに、漠然と生命のさかんなありさまを歌うにではなしに、若葉のようなものまでも、千、万と集まって、つまり集団として水を吸いあげれば、井戸の水位さえひくくなるので、ということを強調したいためなのです。
ぜんたいとして、「春がきたら」というこの詩は、地上にやってくる春ばかりでなしに、わたしたち人間界にも訪れてくる春のことをも、それにふくませて歌っているのです。
<『中学生のために 続・現代詩鑑賞』昭和30年9月 宝文館>
大島博光
春がきたら 耳をあててごらん
大きな けやきの樹の幹に
きこえるだろう その暗い幹のなかを
樹液のかけのぼる音が
千の若芽 若葉が
水を吸いあげる音が
だから 木の芽どきになると
井戸の水が ひくくなる
三月の空にもえる 千の若葉が
千のばけつで汲みあげるから
春がきたら 耳をあててごらん
大きな けやきの樹の幹に
この詩は、二年ほどまえに書いて「詩学」にのせた詩を改作したものです。はじめの詩稿では、
貝がら虫にとりつかれたもちの木を
手入れにきた年老いた植木屋が話してくれた
というような説明の部分がつけくわわっていたのを、こんどは取りさったうえに、二行一節にかきあらためてみた。はじめの詩稿からとりさった部分からわかるように、この詩はじっさいにひとりの植木屋がはなしてくれた話をもとにして、書いたものです。その植木屋のほうが、あるいははるかに、春の樹木がさかんに水を吸いあげるさまを、如実に話してくれたかも知れない。「ズーズーと吸いあげる音がきこえますよ。もっとも、ききなれた耳でないときこえませんがね。」と、そんなふうに、擬音(オノマトペ)をまじえて話してくれたのです。そのとき、きいていたわたしの耳には、樹木たちがほんとうに、ズーズーと音をたてて水を吸いあげている音がきこえようにさえ思えました。ちょうど春さきで、ながい冬から解放されて、すべての生命がよみがえったように活動をはじめる、そのさかんな生命の力が、そこにまざまざと見えるような気もちがしたのです。
わたしはこの話を、日記に書きとめておきました。わたしは、すこしながい春の詩を書きたいような心の動きがあったので、いつかその役に立つかも知れないとも考えて。しかし、プランはとうとう実現せずに、結局、植木屋からきいた話だけの部分の、この小さな詩ができあがることになってしまったのです。
この詩には、わかりにくいようなところは一つもないでしょう。むしろ、わかりきっていることばかりとさえいえましょう。けれども、「大きな樹の幹に耳をつけて聞くと、水を吸いあげる音がきこえる」というようなこの詩のモチーフ(動機)は、一見、きわめて平凡のように見えますが、やはり年とった、経験をつんだ植木屋でなければ、なかなかつかめないところだと思います。
きこえるだろう その暗い幹のなかを
樹液のかけのぼる音が
この二行には、暗い幹のなかでいとなまれている植物の生命の不思議さにたいする、作者自身の感動がうたいこめられています。「暗い幹のなか」ということのなかには、わたしたち人間の内部をも暗示させたい作者の気もちが、はいってもいるのです。この、耳にうったえる詩句、生命の内部でいとなまれている眼にみえない営みをうたった詩句にたいして、
だから 木の芽どきになると
井戸の水が ひくくなる
という、眼にうったえるイメージが対置されます。樹木の生命のいとなみは、井戸の水位をさげるほどにもさかんだ、ということなのですが、これはただそういう形容句であるばかりでなく、大地のなかでの樹木と地下水の関係のおもしろさも、ここでうたわれているのです。だから、そういうあらわでないところでの関係のおもしろみというものを、このなにげない詩句から、感じとってほしいというのが、作者のねがいでもあります。
三月の空にもえる 千の若葉が
千のばけつで汲みあげるから
という詩句は、井戸というイメージにつづいて、自然に出てきたものです。ここで、「千の若葉が 千のばけつで」といったのは、たんに、漠然と生命のさかんなありさまを歌うにではなしに、若葉のようなものまでも、千、万と集まって、つまり集団として水を吸いあげれば、井戸の水位さえひくくなるので、ということを強調したいためなのです。
ぜんたいとして、「春がきたら」というこの詩は、地上にやってくる春ばかりでなしに、わたしたち人間界にも訪れてくる春のことをも、それにふくませて歌っているのです。
<『中学生のために 続・現代詩鑑賞』昭和30年9月 宝文館>
プラント街三六番地──画家末永胤生に
大島博光
パリの南門 ポルト・ド・ルレアンの近く
地下鉄のアレジア駅から浮かび上がると
そこに 画家のやさしい微笑みが待っていた
三十年ぶりに握った画家の手は柔かかった
うちつづくニセアカシヤの並木が
白い小さな花群れを 花火のようにつけて
さわやかな風に 香っていた
夏のパリの 長くて明るい夕ぐれに
画家は アトリエで
若者のような熱っぽさで語る
──パリの光は油絵の色によくマッチするんだ
佐伯祐三もそれを感じとっていたから
パリでしか絵が描けなかったのだ
この光 この明るい軽やかな光
これが 絵を生むのだ・・・
その光ととけあった
かろやかな色彩たちの
はてしないヴァリエーションが
アトリエの壁のうえで歌っていた
オウレの うすみどりの広い河と白い橋を
リュクサンブールのマロニエの緑の壁と噴水を
ひろい野のなかの白い馬と少年を
地中海のほとりマントンのブルーと船を
見ることのすばらしさと
生きることのしあわせを
老画家は語る
──「ノヴァ*」で飲んで「山小屋」へ流れて
それから屋台で飲んで 明け方
幡ヶ谷ちかくのアトリエに辿りつく
あの頃 楠田一郎が 二年も
ぼくんところに転がり込んでいた
楠田は「山小屋」のみっちゃんが好きだったのに
気の弱いかれは
とうとう それを言わずじまいだった・・・
そうだ その頃だ
新宿三丁目裏の 花園神社の軒下で
「黒い歌」の詩人が寝たというのは──
その楠田一郎が死んで四十年
遠いパリの空の下で
彼の思い出を語りあおうとは──
プラント街三六番地
うちつづくニセアカシヤの並木が
白い小さな花群れを 花火のようにつけて
さわやかな風に 香っていた
夏のパリの 長くて明るい夕ぐれに
一九八〇年八月十八日
パリ コロネル・ファビアン広場のほとりで
*注「ノヴァ」── 一九三五年頃、現在の新宿の伊勢丹前のマルイの裏の路地に「ノヴァ」という小さな酒場があって、その頃のボヘミヤンたちのたまり場でもあり、名所でもあった。
「山小屋」という酒場は新宿三丁目裏の迷路のような小路にあって、美人の姉妹が店に出ていて、はやっていた。楠田一郎は死ぬ前のひと頃、毎晩のように「山小屋」で飲んでいた。みっちゃんは妹の方だった。
(自筆原稿)
大島博光
パリの南門 ポルト・ド・ルレアンの近く
地下鉄のアレジア駅から浮かび上がると
そこに 画家のやさしい微笑みが待っていた
三十年ぶりに握った画家の手は柔かかった
うちつづくニセアカシヤの並木が
白い小さな花群れを 花火のようにつけて
さわやかな風に 香っていた
夏のパリの 長くて明るい夕ぐれに
画家は アトリエで
若者のような熱っぽさで語る
──パリの光は油絵の色によくマッチするんだ
佐伯祐三もそれを感じとっていたから
パリでしか絵が描けなかったのだ
この光 この明るい軽やかな光
これが 絵を生むのだ・・・
その光ととけあった
かろやかな色彩たちの
はてしないヴァリエーションが
アトリエの壁のうえで歌っていた
オウレの うすみどりの広い河と白い橋を
リュクサンブールのマロニエの緑の壁と噴水を
ひろい野のなかの白い馬と少年を
地中海のほとりマントンのブルーと船を
見ることのすばらしさと
生きることのしあわせを
老画家は語る
──「ノヴァ*」で飲んで「山小屋」へ流れて
それから屋台で飲んで 明け方
幡ヶ谷ちかくのアトリエに辿りつく
あの頃 楠田一郎が 二年も
ぼくんところに転がり込んでいた
楠田は「山小屋」のみっちゃんが好きだったのに
気の弱いかれは
とうとう それを言わずじまいだった・・・
そうだ その頃だ
新宿三丁目裏の 花園神社の軒下で
「黒い歌」の詩人が寝たというのは──
その楠田一郎が死んで四十年
遠いパリの空の下で
彼の思い出を語りあおうとは──
プラント街三六番地
うちつづくニセアカシヤの並木が
白い小さな花群れを 花火のようにつけて
さわやかな風に 香っていた
夏のパリの 長くて明るい夕ぐれに
一九八〇年八月十八日
パリ コロネル・ファビアン広場のほとりで
*注「ノヴァ」── 一九三五年頃、現在の新宿の伊勢丹前のマルイの裏の路地に「ノヴァ」という小さな酒場があって、その頃のボヘミヤンたちのたまり場でもあり、名所でもあった。
「山小屋」という酒場は新宿三丁目裏の迷路のような小路にあって、美人の姉妹が店に出ていて、はやっていた。楠田一郎は死ぬ前のひと頃、毎晩のように「山小屋」で飲んでいた。みっちゃんは妹の方だった。
(自筆原稿)
国内の原発がすべて停止した今日、東京新聞は脱原発の報道に総力をあげているようです。

買って応援「通販生活」、預けて応援「城南信金」、聴いて応援「ソコトコ」・・・とツイートを紹介しているサイトがありました。<読んで応援「東京新聞」>の声が続いています。

その「通販生活」夏号は「買物のページ」と「暮しのページ」がありますが、「暮しのページ」は執筆者も多く、なかなか中身が濃くて面白い。そして原発関連が8本と大半を占めています。松崎菊也の東電・原発へ突撃しての記事は8シーン、鋭く追及して「この現実をため息とともにあきらめるか、こぶしを突き上げるか、わたくしたち一人びとりが試されている。」


落合恵子と城南信用金庫理事長の吉原毅さんとの対談では、吉原「信用金庫の目的は、おカネ中心の世の中がもたらす弊害を是正し、地域を守り、地域を幸せにすることです」「(福島第一原発の水素爆発の映像をテレビで見たとき)原発には地域を失うリスクがあることを知ったわけで、地域に根ざした信用金庫として原発にどう向き合うのかが問われていると思いました」「あのとき、脱原発宣言をしなければ、城南信用金庫が存在する意味がなくなってしまうと思ったんです」移動図書館車を2台買って、職員がボランティアで被災地の仮設住宅を回って支援しているそうで、このような金融機関応援したくなりますね。

買って応援「通販生活」、預けて応援「城南信金」、聴いて応援「ソコトコ」・・・とツイートを紹介しているサイトがありました。<読んで応援「東京新聞」>の声が続いています。

その「通販生活」夏号は「買物のページ」と「暮しのページ」がありますが、「暮しのページ」は執筆者も多く、なかなか中身が濃くて面白い。そして原発関連が8本と大半を占めています。松崎菊也の東電・原発へ突撃しての記事は8シーン、鋭く追及して「この現実をため息とともにあきらめるか、こぶしを突き上げるか、わたくしたち一人びとりが試されている。」


落合恵子と城南信用金庫理事長の吉原毅さんとの対談では、吉原「信用金庫の目的は、おカネ中心の世の中がもたらす弊害を是正し、地域を守り、地域を幸せにすることです」「(福島第一原発の水素爆発の映像をテレビで見たとき)原発には地域を失うリスクがあることを知ったわけで、地域に根ざした信用金庫として原発にどう向き合うのかが問われていると思いました」「あのとき、脱原発宣言をしなければ、城南信用金庫が存在する意味がなくなってしまうと思ったんです」移動図書館車を2台買って、職員がボランティアで被災地の仮設住宅を回って支援しているそうで、このような金融機関応援したくなりますね。
四月三十日
快晴。子供達は学校へ行く。秋しょうの姿を見ると、もうこんなに大きくなって・・・とつくづく思う。朝選挙をすませてきてから働きはじめる。村越さんのけやきも随分茂ってきてしまった。午前三千、午後五千、働く。大島が二度運搬してくれた。売り終わると、クタクタになって坐り込んでしまう程だった。夜十二時半頃、文学学校から彼が帰る。珍らしく夜のお帰りを迎へてペッティングをしたら、とんだ結末になってしまった。夜半より雨になる。
五月十日 晴 遠足の日
朋光は日野からのハイキングへ喜んで出かけていった。昨夜、大島と吉祥寺へ行って、すばらしいリュック(659円)を買って来、水筒の皮も私が買ってやったので。中身はおすしとゆで卵を早々作ったのと、クリームキャラメル、ソフトチョコレート、ドロップ、のしいか、バナナ。夜になって大島が買ってきた夏みかん等々・・・秋光も同じものを買って用意しておいたのに昨夜から熱を出し、アスピリンを呑ませたが直らず、休んで寝ている。大島と桃子と、お散歩がてら学校へおことわりに行った。よい五月の天気で、金魚が皆浮いている。太って鮮やかな色。
ここ疲れと忙しさでちっとも日記をつけなかった。昨夜はコンサート。ブラームスのVソナタ第三番─スターン、とメンデルスゾーンのV協、チャイコフスキーの第五をききに行った。
V協が、実によく入ったヴァイオリンがなまの様に美しかった。──スターンの技巧をきいた。ブラームスはやはりよい。終って店へ出ると坊やと主人がブランコのところへ居たので、まあ、遠足なのに、どうして早く寝ないの、と言って急いで自転車に乗せて帰った。
今年の五月節句は失敗した。二日に市場に行って、まだ』早い様な気がして紫しょうぶも全然買わず、アイリスも二円パ位の小さいのを二口位買い、あと並物で、四千円程買ってきた。三日になって考えると、四日の仕入れには間に合わないので、三日又市場に行き、主にさやものと紫しょうぶを買う。
兎に角、ミッちゃん式に、これからは買いすぎない事が大切。
快晴。子供達は学校へ行く。秋しょうの姿を見ると、もうこんなに大きくなって・・・とつくづく思う。朝選挙をすませてきてから働きはじめる。村越さんのけやきも随分茂ってきてしまった。午前三千、午後五千、働く。大島が二度運搬してくれた。売り終わると、クタクタになって坐り込んでしまう程だった。夜十二時半頃、文学学校から彼が帰る。珍らしく夜のお帰りを迎へてペッティングをしたら、とんだ結末になってしまった。夜半より雨になる。
五月十日 晴 遠足の日
朋光は日野からのハイキングへ喜んで出かけていった。昨夜、大島と吉祥寺へ行って、すばらしいリュック(659円)を買って来、水筒の皮も私が買ってやったので。中身はおすしとゆで卵を早々作ったのと、クリームキャラメル、ソフトチョコレート、ドロップ、のしいか、バナナ。夜になって大島が買ってきた夏みかん等々・・・秋光も同じものを買って用意しておいたのに昨夜から熱を出し、アスピリンを呑ませたが直らず、休んで寝ている。大島と桃子と、お散歩がてら学校へおことわりに行った。よい五月の天気で、金魚が皆浮いている。太って鮮やかな色。
ここ疲れと忙しさでちっとも日記をつけなかった。昨夜はコンサート。ブラームスのVソナタ第三番─スターン、とメンデルスゾーンのV協、チャイコフスキーの第五をききに行った。
V協が、実によく入ったヴァイオリンがなまの様に美しかった。──スターンの技巧をきいた。ブラームスはやはりよい。終って店へ出ると坊やと主人がブランコのところへ居たので、まあ、遠足なのに、どうして早く寝ないの、と言って急いで自転車に乗せて帰った。
今年の五月節句は失敗した。二日に市場に行って、まだ』早い様な気がして紫しょうぶも全然買わず、アイリスも二円パ位の小さいのを二口位買い、あと並物で、四千円程買ってきた。三日になって考えると、四日の仕入れには間に合わないので、三日又市場に行き、主にさやものと紫しょうぶを買う。
兎に角、ミッちゃん式に、これからは買いすぎない事が大切。
フランス大好き人間の尾池和子さんがフランスの写真家ドアノーの写真展の案内を送ってくれました。
<アラゴンとエルザのポートレートの他、占領下のレジスタンスの様子、ビラ配りや印刷などわかり面白いです。アラゴンやエリュアールの詩がこのように「手から手へ」渡されていったのか・・と想像されます。>

広い会場に200点の作品がぎっしり。占領下のパリシリーズでは地下印刷やポスターはり、ビラ配りなど、どれも緊迫感に充ちています。
が、なんといっても戦後のパリの人々の日常を撮ったものが素晴らしい。子供たち、恋人たち、酒場で、街角で。一枚一枚、どれも登場人物が生き生きとしていながらユーモラス、それぞれに物語を思い浮かべたくなります。
ヨーロッパで数多く知り合った写真家の中でドアノーが好きだったというエッセイストのデュラン・れい子さん。「セ・ラ・ヴィ通信」という連載エッセイで書いていました。
・・・(写真集『グラン・バカンス』にふれて)1936年、レオン・ブルムの人民戦線内閣によって有給休暇という権利を手にしたフランス人たちが、法律で保障された「休む権利」をどう満喫していたか!その喜びが画面一面に現れている写真集でした。・・・ドアノーの写真は、どの決定的瞬間も幸せにあふれています。特にこの『グラン・バカンス』に登場する名もないフランス人たち。その表情の豊かさはプロのモデルでは絶対表現できないものです。・・・(「しんぶん赤旗」2011.11.9)
ドアノーは一時ファッション誌「ヴォーグ」の契約カメラマンとなったが、上流階級のモデルを撮る仕事がいやで3年で辞めた(辞めさせられた)といいます。

山手線 恵比寿駅からすぐの東京都写真美術館


入り口の壁面を飾る巨大な写真もドアノーの有名な作品「パリ市庁舎前のキス」でした。


ドアノーは「イメージの釣り人」といわれたそうです──決定的瞬間がくるまでじっと待つ。
待っていると決定的瞬間が過ぎ去ってしまう凡人はなんというのでしょうか?
<アラゴンとエルザのポートレートの他、占領下のレジスタンスの様子、ビラ配りや印刷などわかり面白いです。アラゴンやエリュアールの詩がこのように「手から手へ」渡されていったのか・・と想像されます。>

広い会場に200点の作品がぎっしり。占領下のパリシリーズでは地下印刷やポスターはり、ビラ配りなど、どれも緊迫感に充ちています。
が、なんといっても戦後のパリの人々の日常を撮ったものが素晴らしい。子供たち、恋人たち、酒場で、街角で。一枚一枚、どれも登場人物が生き生きとしていながらユーモラス、それぞれに物語を思い浮かべたくなります。
ヨーロッパで数多く知り合った写真家の中でドアノーが好きだったというエッセイストのデュラン・れい子さん。「セ・ラ・ヴィ通信」という連載エッセイで書いていました。
・・・(写真集『グラン・バカンス』にふれて)1936年、レオン・ブルムの人民戦線内閣によって有給休暇という権利を手にしたフランス人たちが、法律で保障された「休む権利」をどう満喫していたか!その喜びが画面一面に現れている写真集でした。・・・ドアノーの写真は、どの決定的瞬間も幸せにあふれています。特にこの『グラン・バカンス』に登場する名もないフランス人たち。その表情の豊かさはプロのモデルでは絶対表現できないものです。・・・(「しんぶん赤旗」2011.11.9)
ドアノーは一時ファッション誌「ヴォーグ」の契約カメラマンとなったが、上流階級のモデルを撮る仕事がいやで3年で辞めた(辞めさせられた)といいます。

山手線 恵比寿駅からすぐの東京都写真美術館


入り口の壁面を飾る巨大な写真もドアノーの有名な作品「パリ市庁舎前のキス」でした。


ドアノーは「イメージの釣り人」といわれたそうです──決定的瞬間がくるまでじっと待つ。
待っていると決定的瞬間が過ぎ去ってしまう凡人はなんというのでしょうか?
神秘をとっ払おう
天皇制と人民の姿 エリュアールの詩の読み方
大島博光
◇天皇制なるものこそ「神秘」
わたしは、宮本顕治『天皇制批判について』を読んで抜き書きをしていた。
「・・・神話を基礎として天皇が日本民族の宗主であるように断定するのは、科学的根拠にもとづかない主観的独断にすぎない。奴隷が奴隷所有者を、被征服民が征服者を、尊崇しなければならぬ宗家であるというのは、奴隷の論理にほかならない。天皇の家系が一貫していようと、いまいと、彼らが絶対権力者であるときには、人民大衆はつねに搾取され、抑圧される対象であった」(四十五ページ)
それから、本紙の「黙ってはいられない」欄(二月二日付)で、住井すゑのつぎの言葉を読んだ。
「天皇制は時代錯誤、人類の進歩、発展を阻害する制度です。つまり人間の理性(科学)を眠りこませるマヤクのようなものです・・・」
これらの言葉を読んでわたしは、この天皇制なるものこそ、エリュアールの言う「神秘」にほかならないと思いあたった。わたしはエリュアール晩年の詩「もろもろの神秘をとっ払おう」を思い出したのである。
それは巨人たちの手ではない
それは精霊たちの手でもない
おれたちの鎖を打って造ったのは
その手は目もくれず気にもかけなかった
けもののように餌食にならないものには
おれたちの多数者の手で
ばかげた死をうち砕き
もろもろの神秘をとっ払わねばならぬ
◇非合理主義と奇弁を弄し
この「もろもろの神秘」が、ここでは何より「おれたちの鎖を打って造り」だすものたちの神秘を意味し、支配権力がつくりだし利用する政治的社会的神秘を意味することはまちがいない。そして天皇制ほど権力によってつくりあげられ、でっちあげられ、人民におしつけられた神秘もまれであろう。こんにちブルジョワ・イデオローグたちはふたたび、この半封建遺制を、あらゆる非合理主義の意匠をもって、あらゆる奴隷的な奇弁を弄(ろう)して礼賛し、復権させようと躍起になっている。
さて、わたしはエリュアールの詩をこのように読んだわけだが、その根拠をエリュアールの詩の文脈のなかに見てみよう。
◇ ”詩は生活のなかにある”
同じ頃書かれた「詩は伝染しやすい」(一九五二年)のなかにはこう書かれている。
おれたちは自分を信じる権利を手にするために、
ひじょうに高く支払った
ぼろを着て泥まみれになって、血を流し勇気をふるって、
言落で、沈黙で支払った
やつらはおれたちを奴隷のようにこき使った、
自分の主人になることもできたおれたちを。
やつらはおれたちを飢えさせた、
自分のパンをつくりだしたおれたちを。
やつらはおれたちを辱かしめた
この上なく立派だったおれたちを。
やつらはおれたちを喪の悲しみに陥した、
死と闘ったおれたちを。
やつらはおれたちに毒を飲ませ、拷問にかけ
吊し首にし、銃殺し、首を切り落し、ギロチンにかけた。
というのは、辱かしめられることも、
奴隷の身にされることも、けもののようにさせられることも、
無知蒙昧にされることも、おれたちは望まなかったからだ・・・
ここに描かれている「おれたち」の姿はそのまま天皇制下の人民の姿ではないか。──治安維持法などによって、裁判抜きで虐殺されたり、苛酷な拷問を加えられた日本人民の姿ではないか。
「古い虚偽はあばかれた」と叫び、「詩は生活のなかにある」「詩は闘いのなかにある」と叫んだエリュアールが、ここでも唯物史観の視点で書いていることはまちがいない。
(おおしま はっこう 詩人)
<「赤旗」1988.2.10>
天皇制と人民の姿 エリュアールの詩の読み方
大島博光
◇天皇制なるものこそ「神秘」
わたしは、宮本顕治『天皇制批判について』を読んで抜き書きをしていた。
「・・・神話を基礎として天皇が日本民族の宗主であるように断定するのは、科学的根拠にもとづかない主観的独断にすぎない。奴隷が奴隷所有者を、被征服民が征服者を、尊崇しなければならぬ宗家であるというのは、奴隷の論理にほかならない。天皇の家系が一貫していようと、いまいと、彼らが絶対権力者であるときには、人民大衆はつねに搾取され、抑圧される対象であった」(四十五ページ)
それから、本紙の「黙ってはいられない」欄(二月二日付)で、住井すゑのつぎの言葉を読んだ。
「天皇制は時代錯誤、人類の進歩、発展を阻害する制度です。つまり人間の理性(科学)を眠りこませるマヤクのようなものです・・・」
これらの言葉を読んでわたしは、この天皇制なるものこそ、エリュアールの言う「神秘」にほかならないと思いあたった。わたしはエリュアール晩年の詩「もろもろの神秘をとっ払おう」を思い出したのである。
それは巨人たちの手ではない
それは精霊たちの手でもない
おれたちの鎖を打って造ったのは
その手は目もくれず気にもかけなかった
けもののように餌食にならないものには
おれたちの多数者の手で
ばかげた死をうち砕き
もろもろの神秘をとっ払わねばならぬ
◇非合理主義と奇弁を弄し
この「もろもろの神秘」が、ここでは何より「おれたちの鎖を打って造り」だすものたちの神秘を意味し、支配権力がつくりだし利用する政治的社会的神秘を意味することはまちがいない。そして天皇制ほど権力によってつくりあげられ、でっちあげられ、人民におしつけられた神秘もまれであろう。こんにちブルジョワ・イデオローグたちはふたたび、この半封建遺制を、あらゆる非合理主義の意匠をもって、あらゆる奴隷的な奇弁を弄(ろう)して礼賛し、復権させようと躍起になっている。
さて、わたしはエリュアールの詩をこのように読んだわけだが、その根拠をエリュアールの詩の文脈のなかに見てみよう。
◇ ”詩は生活のなかにある”
同じ頃書かれた「詩は伝染しやすい」(一九五二年)のなかにはこう書かれている。
おれたちは自分を信じる権利を手にするために、
ひじょうに高く支払った
ぼろを着て泥まみれになって、血を流し勇気をふるって、
言落で、沈黙で支払った
やつらはおれたちを奴隷のようにこき使った、
自分の主人になることもできたおれたちを。
やつらはおれたちを飢えさせた、
自分のパンをつくりだしたおれたちを。
やつらはおれたちを辱かしめた
この上なく立派だったおれたちを。
やつらはおれたちを喪の悲しみに陥した、
死と闘ったおれたちを。
やつらはおれたちに毒を飲ませ、拷問にかけ
吊し首にし、銃殺し、首を切り落し、ギロチンにかけた。
というのは、辱かしめられることも、
奴隷の身にされることも、けもののようにさせられることも、
無知蒙昧にされることも、おれたちは望まなかったからだ・・・
ここに描かれている「おれたち」の姿はそのまま天皇制下の人民の姿ではないか。──治安維持法などによって、裁判抜きで虐殺されたり、苛酷な拷問を加えられた日本人民の姿ではないか。
「古い虚偽はあばかれた」と叫び、「詩は生活のなかにある」「詩は闘いのなかにある」と叫んだエリュアールが、ここでも唯物史観の視点で書いていることはまちがいない。
(おおしま はっこう 詩人)
<「赤旗」1988.2.10>
四月二十八日
今日も疲れてクタクタ。鏡を見つけようと思って彼の引き出しをあけると、山口さんのラヴレターが入っていて、ふと見てしまったので彼が帰ってきたらひやかしてやろうと思ってニヤニヤしている。彼氏は今、バターを買いに駅の方へお散歩中。『三十五才の乙女が東京までのランデヴーに来たら、貴方どうするつもり?』と言うつもり。
今日も時々絵への欲望をそそられる。つまり自分の絵を見ていると、もっと重厚にしたいとか、もっとこう表現したいとか意欲が湧いてきている処へ、新川方面へ自転車をとばしている時、村越の栗林が、とても美しいので、何とか物にしたいと意気込んでしまった。芽ののびないうちに描かなくてわ──。
朋しょうも秋しょうも、明日休日なので何となくうれしそう。朋しょうさんは深大寺へアトリエの子たちと描きに行く予定。桃子、かわいい。随分背も伸びてきた。
四月二十九日
午前に小熊さん、◯嬢ら角笛同人が来る。市場へ行くのでそそくさとあいさつして出かけてしまう。やはり大島にいい背広を作っておいてよかったなあと思う。帰ってから雨降りになり、体の具合がわるいのでベッドで寝る。夕方、多羅尾さんへおけいこ花をとどける。朋しょうは深大寺に写生に行ったが、雨にずぶぬれになって帰る。疲れたらしい。絵は描いてこない。
今日も疲れてクタクタ。鏡を見つけようと思って彼の引き出しをあけると、山口さんのラヴレターが入っていて、ふと見てしまったので彼が帰ってきたらひやかしてやろうと思ってニヤニヤしている。彼氏は今、バターを買いに駅の方へお散歩中。『三十五才の乙女が東京までのランデヴーに来たら、貴方どうするつもり?』と言うつもり。
今日も時々絵への欲望をそそられる。つまり自分の絵を見ていると、もっと重厚にしたいとか、もっとこう表現したいとか意欲が湧いてきている処へ、新川方面へ自転車をとばしている時、村越の栗林が、とても美しいので、何とか物にしたいと意気込んでしまった。芽ののびないうちに描かなくてわ──。
朋しょうも秋しょうも、明日休日なので何となくうれしそう。朋しょうさんは深大寺へアトリエの子たちと描きに行く予定。桃子、かわいい。随分背も伸びてきた。
四月二十九日
午前に小熊さん、◯嬢ら角笛同人が来る。市場へ行くのでそそくさとあいさつして出かけてしまう。やはり大島にいい背広を作っておいてよかったなあと思う。帰ってから雨降りになり、体の具合がわるいのでベッドで寝る。夕方、多羅尾さんへおけいこ花をとどける。朋しょうは深大寺に写生に行ったが、雨にずぶぬれになって帰る。疲れたらしい。絵は描いてこない。













