千曲川

大島博光記念館へようこそ。
長野詩人会議が中心となって建設運動をすすめ、2008年7月にオープンしました。
愛と抵抗を歌った博光の詩の世界にふれていただけます。


ロシア革命

ロシア革命に関する聽濤弘(きくなみひろし)さん(元参議院議員)の講演会が習志野市内でありました。

1.ロシア十月革命の国際的意義
1)「くらし」の問題。世界最初に8時間労働制を実施。全般的社会保障制度の導入。医療・教育の無料化。
2)古い19世紀の外交を刷新。秘密外交の廃止と民族自決権の確立。
3)大量虐殺兵器の禁止。平和共存の原則を明記(1922年ジェノバ国際会議)。毒ガス兵器・細菌兵器使用禁止条約の締結(1925年ジュネーブ)。

2.十月革命のエネルギーはどこにあったか?
・1917年、第一次世界大戦の最中に起きた二月革命と十月革命は、どちらも中心課題は「戦争はやめろ」「土地は農民へ」だった。
・二月革命では民衆の数十万のデモでツアーリ専制が打倒された。指導者は皆亡命していたか流刑されていて、指導者のいない民衆革命だった。その結果、二重権力(ブルジョア政権とソヴィエト政権=ボリシェビキ、メンシェビキ、エス・エル)が誕生。ブルジョア政権は戦争継続を宣言、メンシェビキとエス・エルはこれに賛成した。
・4月にレーニンが帰国、社会主義への一歩、数歩の前進となる民主主義革命を唱え、メンシェビキとエス・エルに連合政権をつくるよう呼びかける。
・4月に10万人規模のデモ、6月、7月に50万人のデモ。8月、王政復古の反動派の反乱をボリシェビキが鎮圧。9月、いっせい地方選挙で10大都市でボリシェビキが圧倒的支持。農村は別。
・レーニンはメンシェビキとエス・エルに統一政権をつくるよう再度提起するが両党に拒否され、武装蜂起を決意する。
・十月武装蜂起。ペテルブルグでは武装蜂起の是非を市民に問う集会。トロツキーは軍を説得して重要な役割を果たした。死者は数名程度で武装蜂起は成功した。

3.今日の日本の世論について
・朝日新聞、東京新聞の記事について
・池田嘉郎『ロシア革命 破局の8ヶ月』について、自分の好みで歴史を歪曲。

4.なぜボリシェビキは農村で多数派になれなかったのか
・革命後もエス・エルが農民の多数の支持を得る。「すべての農民への土地の均等割」「土地の社会化と農業の共同化」
・レーニンは農業の集団化と機械化を主張したが支持されなかった。土地所有が農民の基本的要求。
・ネップは成功したのではないか?
・1925-6年になると工業と農業の矛盾がおこる。都市でネップが進展するにつれて農村の階級分化がすすみ、ソヴィエト政権に反対する闘争が激化。
・スターリンによる暴力的集団化(1929年末決定)。「階級としての富農の絶滅」(数百万の死者、流刑者)

・十月革命の変質とスターリン独裁体制の成立。
・きっかけはキーロフの暗殺
・1934年、第17回党大会は勝利者の大会と呼ばれ、大会の議事録は「スターリン万歳!」で埋まっていたが、中央委員選挙ではキーロフがトップ当選、スターリンは最下位71番の当選だった。定員71名という数も不自然だが、投票数計算委員会41名のうち39名が、その後銃殺された。キーロフは34年12月、暗殺され、その後、レーニンを知るあらゆる党員・人物にたいする大テロルが開始され、ロシア共産党は完全に変質した。

5.現代社会を考える
1)中国をどうみるか
・市場経済が「決定的」にかわる。
・生産力を発展させるのに一番適した生産関係が一番いい生産関係。(それは資本主義)
・「新自由主義の観点と主張の影響が中国経済にとって最も大きい」(邸海平中国人民大学教授)

2)ヨーロッパ左翼
・ドイツ左翼党、チェコ共産党が前進
・イギリス労働党党首コービン、アメリカのサンダースの健闘

3)マルクスと現代社会
・レーニンはマルクスに忠実だった。しかし具体的条件に合わない時はマルクスを教条としなかった。ネップにきりかえた。
・社会主義理論も創造的発展を必要とする課題が多々ある。

十月革命の成功は第二次大戦でのファシズム・軍国主義の打倒、植民地の解放と民族自決権の確立、先進国での福祉の前進などを鼓舞した。しかし、資本主義は1980年の新自由主義で巻き返し、1991年のソ連崩壊で息をふきかえす。社会体制として資本主義しかないというイデオロギー攻勢に負けてはならない。これがロシア革命100年を迎える精神。

常岡
ロシア革命


「十月革命」から100年・・・ロシア革命100周年記念講演のお知らせ

プ口セリアンドの森

 アラゴンが『殉難者たちの証人』を書いていたとき、ドイツ軍の赤と黒のポスターが、一九四二年三月、占領軍にたいする破壊活動で銃殺された七人の若者の名前を知らせた。五月には、すでに書いたように、ポリッツェル、ドゥクールらが処刑され、アラゴンは「詩法」を彼らにささげた。この頃、アラゴンは「プロセリアンド」を書く。ブルターニュの古い神話が眼の前の現実に重ねられ、新しいフランスの英雄たちの偉大さが告知される。
 「一九四一年にもまして一九四二年には、フランスじゅうがプロセリアンドの森に似ていた。森のなかで、ヴィシイの魔法使いどもとゲルマニアの龍騎兵どもが、すべての言葉に呪文めいた、ゆがめた意味あいを与えていた。もはや何ものもそのものの名前で呼ばれなかった。あらゆる偉大さが卑(いや)しめられ、美徳は嘲笑され迫害された。ああ、それは奥方たちが魔法にかけられ、姫君たちが囚われる時代であった。いたるところの路上で遭遇戦が起こった。突如として現れた騎士たちが年寄りや子どもたちを助けた。墜格子(おとしごうし)を揚げた城からは不審な呻めき声が聞こえてきた。時が進むにつれて、ますます多くの無名の騎士たちが武器を手にとって立ち上がった。かれらの名はロジェやピエールであり、ダニエルやジャンであった。ますますたくさんの勇士たちが現われ、かれらの武勲(いさおし)は武装した兵隊や首切り人や、鬼どもや大男どもの眼をかすめて口から口へと、フランスの森じゅうに伝えられた……」(「詩における歴史的正確さについて」)
 「プロセリアンド」は一九四二年十二月三十一日『カイエ・デュ・ローヌ』誌に発表された。サドゥールはこの詩の一部分を解く手がかりを与えている。

  わたしは聞く 犠牲(いけにえ)となったきみたちの声を
  わたしはきみたちを信じた
  いやわたしはきみを忘れはしなかった 鉄を曲げる男よ(タンボー)
  きみはたった一言(ひとこと)で街じゅうのものを振り向かせた
  きみをもまた忘れはしない きみは近づく車を見る
  澄んだ転轍手の眼を生に向けていた(ピエル・セマール)
  わたしはまたきみを忘れなかった 赤毛の哲学者よ(ポリッツェル)
  また白髪の年の前に休むのを潔(いさぎよ)しとしなかったきみをも(リュシアン・サンペィ)
  そして白鳥のように歌ったあの男の思い出も
  彼はあのフェニキアの粘土で作られた王子にも似ていた
  その見ごとさの秘密は古代から一度も発見されなかった(ガブリエル・ペリ)
  わたしはいつかきみらのように死ねるだろうか
  だがこれはただきみらとわたしだけのことだ
  道なかばに倒れたわが戦友たちよ

 詩句の下に書き込まれた名前が、サドゥールの示した鍵である。ここでも人間と武勲(いさおし)が歌われているのである。
 クロード・ロワは一九四二年にアラゴン夫妻と知合いになった。かれの証言は当時のアラゴンの状況をみごとに要約している。
 「アラゴンとエルザは、あの足枷(あしかせ)をはめられた不幸な数年ほど、幸福で自由だったことはかつてなかったように思われる。激しい調子でしかも闊達に発せられたアラゴンの言葉は、フランスのはじからはじへとひびき渡った……アラゴンは活動家としての生活のなかで、ハリコフ会議以来味わわなかった(とわたしの怖れる)楽しい自由を味わっていた……」(『わたし』)
 この頃、アラゴンは小説『オウレリアン』の制作で愛の夢想にふけりながら、一方ではその怒りを『グレヴァン蠟人形館』の痛烈な風刺にぶちまけていたのである。

新日本新書『アラゴン』

タンボー
タンボー(左から二人目)、ギイ・モケ(右端)ら 1941年10月14日、シャトーブリアンの収容所にて

 ランスの微笑み

 同じような発見をもう一つ、わたしはランスのカテドラルで経験した。シャルルヴィル・メジェールからパリに帰える途中、わたしはランスで下車してこの有名なカテドラルを訪ねて行った。さっきのアラゴンの国めぐりの詩『涙より美しいもの』のなかには、つぎのような一節がある。

 おん身のみごとな唇に浮かべたランスの微笑みは
 処刑されてゆく聖者や予言者たちが最後に見た
 とある夕ぐれの 夕焼けの色にも似ており
 髪には シャンパーニュの葡萄を絞(しぼ)る匂いがしている

 この「おん身」とは、むろん祖国フランスを擬人化して、こう呼んでいるのである。このくだりを訳したとき、わたしは、カテドラルそのものが微笑みのように美しいのだろうぐらいに思っていた。
 ランスの駅に降り立って、まずわたしは感嘆した。駅前広場の向うに鬱蒼と茂ったノワゼッチェ(はしばみ)の森林公園が横たわり、何本かの通りがこの森のなかを、放射線状に、市内に向かって伸びているのである。駅への往復は、いやでもおうでも、このはしばみ(ノワゼッチェ)の緑のトンネルのなかを通ることになる。なんという優雅さであろう…… 左手の大通りをしばらく行って、右に折れると、小さな広場を前に、ランスのカテドラルはさりげなく立っていた。さりげなくというのは、あたりに門前町らしい雰囲気もなく、観光客もわたしたちのほかにはほとんど見あたらないのである。広場に面した町角はカフェテラスになっていて、市民たちが挨拶を交わしたり、コーヒーやビールを飲みながら歓談していて、ちょっとした町の社交場ともなっているらしい。そこからはカテドラルを仰ぎ見る格好になる。カテドラルは夏の西陽のなかに淡いクリーム色に映えて、西にむかって、高く、やさしく立っていた。十三世紀に建てられたカテドラルは、たび重なる戦争の砲弾で傷ついたり焼かれたりし、ドイツ兵たちが聖堂のなかで焚き火をしたりしたという。長い時間と歴史をくぐり抜けた、その台石の角はもうぼろぼろと崩れて丸くなっていた。そしてわたしの驚いたことに、正面左側の入り口の壁面に、多くの聖者像とならんで、「ランスの微笑み」が立っていたのである。精確にいえば、「微笑みの天使」とよばれる、これももうぼろぼろと剥げ落ちて、背中にせおった翼も傷(いた)んだ石の彫像が、まるでとろけるような、やさしい甘い微笑みを浮かべて立っていたのだ。
 それはあたりにならんだ、暗い、きびしい表情をした聖者像のなかにあって、暗い中世から近世へと微笑みかけているようにさえ見えた。そしてこの「微笑みの天使」は、中世彫刻の一典型として、美術愛好者のあいだでは極めて有名なものだったのである。それらのことを、わたしはランスに来て、カテドラルの正面入口(ファサード)に立っているこの彫刻を見て、ようやく知ったのであった。そしてもう一度、「おん身のみごとな唇に浮かぶ ランスの微笑みは……」と口ずさんで見ると、わたしの初めの解釈は、無知によるものとはいえ滑稽というほかはない。そうしてここでも、アラゴンのこの詩句が、けっして比喩や象徴ではなく、現実の具象的なもの──「微笑みの天使」像にむすびついており、そうしてフランスの歴史的現実にむすびついていることを知るのである。
 カテドラルの内部の壁には、もう色褪せて、そのうえすすけたような感じを与える、大きなタピスリイ(壁掛)が何枚となく、かけてあって、そこに描かれているというか、縫いこまれている聖画はよくわからないながら、わたしはその巨大さに圧倒された。
 カテドラルからの帰り道、はからずもシャペル・フジタの前に出た。これはフジタ・ツグジが壁画を描いた教会であり、またかれの葬式は、さっきのカテドラルでとり行われたという。時刻がもう遅くて、シャペルのなかを見ることはできなかった。シャペルの屋根のうえに立った風見鶏が、夕ぐれのうすらやみのなかに印象的だった……
(おわり)

(自筆原稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

天使
微笑みの天使
ランス
ランスの聖堂
フジタ
シャペル・フジタの門




 エイモンの四人息子

 ところで、ランボオ博物館で買った風景の絵はがきの一枚に「エイモンの四人息子」という名がついているのを発見して、わたしははっと驚いた。アラゴンの詩の一節を思い出したからである。

 嵐は ダンケルクからポール・バンドルへと荒れ狂い
 おれたちの愛するすべての
 声を かき消してしまうのか
 いや 誰にもできぬはずだ 伝説を追いちらし
 エイモンの四人息子から アルデンヌの地を奪いとることは
      (飯塚書店版『アラゴン選集』第一巻二五一ページ)

 これは、アラゴンの抵抗詩集『エルザの眼』のなかの『涙よりも美しいもの』という詩の一節である。一九四一年、アラゴンの旧友であり、いまは対独協力者となっていたドリュ・ラ・ロシェルは、ある右翼の機関紙上で、アラゴンを攻撃する。
 「……アラゴンが、レジスタンスとその強化のためにふりまいているあの悲憤梗概、祖国の尊厳に注いでいるあの感涙、あの片言の呼びかけなどは、排他的かつ熱狂的な讃美でフランスをほめたたえているかに見えても、けっしてフランスに奉仕するものではない。……この邪悪な偽作者は、あらゆる価値を変質させて、横取りしてしまい、それを、自分の猿まねの贋金(にせがね)につくり変え、ロシヤ狂(きちが)いでロシヤ贔屓(びいき)の贋金につくり変え、頑迷な国際主義の贋金につくり変えてしまう。彼にとっては、「わが祖国よ」というトレモロも、文学的弥次馬どもがよく使ういんちきなトリックに過ぎない」

 この罵倒にたいして、アラゴンは『涙よりも美しいもの』を書いて、それに答えたのである。
 この詩は、フランスにたいする詩人の祖国愛をあかしだてるために、フランスの国巡(くにめぐ)りをして,地方地方の美しさや、歴史や歴史的人物をうたい描いている。一九四三年の初めには、ド・ゴール将軍もアルジェ放送を通じて、この詩の数行を朗読したのであった。そして、「エイモンの四人息子」というのは、アルデンヌ王の四人息子で、かれらは名馬バイヤールにまたがってシャルルマーニュと戦い、アルデンヌの地を守りぬいたという、十二世紀の武勲詩の主人公たちであり、アラゴンはこの故事を引用して、そこに祖国解放の呼びかけを託したのである。

 ところで、この絵はがきに写っている風景はといえば、なんのことはない、博物館のすぐ裏手を流れているムーズ河を前景として、その向こう岸に、長くこんもりと横たわっている丘を背景とした、見るからに美しい眺めである。丘は鬱蒼とした森におおわれていて、むかしはこの森のなかに、例のカスミ網やワナなどがしかけられたのにちがいない……博物館のすぐ上手に橋がかかっていて、向こう岸の丘で夏休みのキャンプ生活を楽しんできたらしい若者たちの一群が、リュクサックをせおって通り過ぎて行った……おそらく、このムーズ河の向う岸の大きな丘が、いまでも「エイモンの四人息子」と呼ばれているのであろう。とにかく、そう名づけられた風景をまのあたりに見ると、あのアラゴンの詩の一節が、たんなる修辞的な引用や比喩ではなく、このような現実の地理と伝説にむすびついているのに、むしろ驚くのである。
(つづく)

(自筆原稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

エイモン
Les quatre fils Aymon et Meuse「エイモンの四人息子とムーズ河」

 黒いムーズ河

 博物館を出て向うを見ると、「黒いムーズ」河が、褐色のささにごりを浮かべて、流れるともなくゆっくりと流れていた。水量のたっぷりある、利根川の中流ほどに広い大きな河だが、日本の河のようにせせらぎの音をたてて流れるというおもむきは全くない。この河に面したマドレェヌ河岸は、今はランボオ河岸とよばれていて、三,四人の釣りびとが糸を垂れていた。この河岸の家に、ランボオは1869年から1875年まで住んでいた。『酔いどれ船』はそこで書かれた。ちょっと下流の辺りに船着場があって、むかしは荷物を積んだ船が行き交っていた。ランボオはそれを窓の下に眺めて暮らした。こうしてこの見なれた風景は、『酔いどれ船』の詩想を若い詩人に与えずにはおかなかったのであろう。

 おれは  非情の「川」をくだっていたとき
 もう 舟曳きたちに導かれるわが身を忘れはてた
 ……
 おれは 舟乗りたちのことも 気にかけず
 フラマンの小麦や イギリスの綿を運んだ

 ドラエイの回想によれば、少年のランボオはマドレェヌ河岸から川辺に降りて、兄のフレデリックと一緒に、あたりにつないであった舟に乗り、舟を揺さぶって波を荒だてる遊びに興じたと言う。「アルチュルは舟の中に腹ばいになって、波がだんだん静まって平らになるのを見ていた、彼の眼は食い入るように深い水にじっと注がれていた」(ドラエイ)ランボオはその時もうつぶやいていたのかもしれない。

 おお おれの龍骨よ 砕けろ おれは海へ行こう

 さて、さっきのケースの中の説明書に戻って言えば、ランボオが1871年3月から5月末にかけてのパリ・コミューヌに参加したのかどうか、その期間にパリにいたことがあるのかどうか、ということがよく問題になる。ケースの中の説明書も疑問を投げているわけである。しかし、はっきりわかっていることは──しかも重要なことは、ランボオがコミューヌを讃える『ジャンヌ・マリーの手』を書き、『再び賑わいに返えるパリ』『パリ戦争の歌』などにおいて、コミューヌを圧殺したティエールの輩を痛烈に罵倒し、風刺したことである。
『パリ・コミューヌ史』の著者で詩人のジョルジュ・ソリヤも、なぜコミューヌに関心を抱いたか、という一文のなかに、こう書いている。

 「……わが国のもっとも偉大な詩人であるアルチュル・ランボオは、このパリの春を「輝くばかりの美しさ」と歌い、血にまみれたコミューヌの終焉とともに、「この時代は崩れ去った」とつけ加えた。難破した一つの時代!「頭と二つの乳房を『未来』の方に向けた なかば死んだ首都パリ」の殉難!しかしそれはまた新しい世界の誕生の約束であった。コミューヌはわたしには一度にそれらすべてのもののように思われた……」
 はっきりしていることは、ランボオはパリ・コミューヌの時代の太陽のひかりの下で書いた詩人であり、また書くことをやめた詩人であるということだ。この反抗の天才はパリ・コミューヌのなかに、おのれの反抗を読みとって、これを讃美したのである。
(つづく)

(自筆原稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

ムーズ河
ランボオ河岸にて



皆神山
松代の街の北側すぐ近くにある皆神山。山頂が平坦で広く、特徴的な形をしています。
あそこにはなにがあるのでしょうか?
皆神山
ちょうど黄葉に彩られています。
黄葉
登山道(自動車が登れる)
黄葉
登り切ると野原と畑が広がり、とても山頂とは思えません。
山門
皆神神社の山門
山門
黄葉
クロサンショウウオが産卵する池があるそうです
皆神山
自然に同化したような池が四つ、境内の脇にありました。
皆神山
皆神山
黄葉
カエデの紅葉が鮮やかでひときわ目立ちました。
皆神山
本堂
DSCF6853太陽光発電パネル
東側が小高い丘になっていますが、大規模な太陽光パネルが作られていて、眺望が得られません。
DSCF6862眺望
西側に北アルプスと松代の街がおぼろに見えます。千曲川は見分けが困難。
DSCF6907下山
東側の山は下りたほうがよく見えました。
黄葉
奇妙山の隣の山
黄葉
一番大きい奇妙山
あまかざり
尼巌山(あまかざりやま)
黄葉
今日は栄村九条の会の人たちによる象山の地下壕見学がありました。
黄葉
象山もきれいに紅葉していました。
黄葉
記念館の前の山も美しく色づいています。


展望
冠着橋
姨捨の上にある冠着山(かむりきやま)から千曲川を眺めたい、
なんといっても信濃百名山、登山口から1時間で登れるそうだ。
冠着橋を渡ると正面左に見える。
ガイド
行き止まり
工事中(がけ崩れ?)で通行止め。
ここはあきらめて、聖高原(ひじりこうげん)が近いようなので、こちらに方針変更。
聖高原は40数年前、学生時代にスキー場にラグビー部の仲間と行って以来です。
姨捨駅
姨捨駅の前を移動。
国道
国道403号線は黄葉の盛りでした。

聖高原
10分ほどで聖池に到着。へらぶな釣りをしていました。
向かいの山がスキー場と展望台。
聖高原
公園
ボートは終わっていました
紅葉
聖高原
公園の横に巨大な大砲と戦闘機がおいてあります。
DSCF6665大砲
平和な公園にまったくそぐわないです。
聖高原
聖博物館の別館が航空博物館で、航空機を野外展示しているそうです。
しかし戦艦陸奥の主砲を展示する理由は???
聖高原
ゲレンデに上がる階段。昔と変わっていません。
聖高原
シンプルな1面のみのゲレンデ
リフト
リフトも「今シーズンの夏山営業は終了しました」
聖高原
展望台の眺望は期待通りでした。
聖高原
高い位置からの眺めなので、千曲川にかかる橋が4本見分けられます。
手前から千曲橋、平和橋、松本に向う長野自動車道、長野新幹線。
聖高原
ここは三峯山山頂になるのですね。
冠着山
すぐ隣に冠着山
聖湖
足もとに聖湖
聖山
聖湖の向かいにある聖山(ひじりやま)
麻績村(おみむら)
山の合間に見える麻績村(おみむら)
棚田
帰り道で、姨捨サービスエリアのすぐ上にも棚田が続いていました。


平和橋
姨捨(おばすて)から千曲川を望む眺望は素晴らしいです。篠ノ井線の下には有名な姨捨の棚田。正面は千曲市街で右手の橋が平和橋。ずっと下流にある白い高い塔の橋が千曲橋で、その先が長野市篠ノ井と松代になります。

冠着橋
上流に見える赤い橋が冠着(かむりき)橋。向こう側が博光が詩「千曲川その水に」に読み込んでいるかつての五加村。背後が大峯山。

冠着山
すぐ上に長野自動車道姨捨サービスエリアとスマートICがあります。後ろに見えるのが冠着山(姨捨山)。
 とてつもない 至高のかけ

 ランボオ記念室の下の、アルデンヌの郷土資料館もまた独特のものであった。この地方で使われていた、むかしの鍛冶屋の、黒ぐろとした道具類が眼をひく。古いフイゴもある。十八世紀から十九世紀中頃まで、一日十五時間労働で、この鍛冶道具で釘などをつくった──と説明書きがしてある。それらはマニュファクチュアーという言葉に、汗の匂いと労働のひびきで肉付けしているもののように見えた。それから、大きくて重そうな鋤(すき)や、やはり重そうな木靴(サボ)などが、アルデンヌの野づらでの、つらい畑仕事をいまに物語っている。そうかと思うと、森のなかで小鳥やけものたちをとらえるワナやカスミ網に似た網仕掛けなどが陳列されており、その網を操作する絵図や、その網を使って森のなかで猟をしている風景を描いた油絵までが懸けてある。
 またこの地方の古い家具、調度品、陶器、皿、ランプのたぐいも並べてある。それらはいわば、フランスのこの辺境の地方において、人民が遠いむかしから、フイゴを動かして釘をたたき、木靴(サボ)をはいて畑を耕やし、小鳥をとったり狩りをして、一生懸命に生きてきた、その息づかいや、そのなかであげた陽気な歌声さえをも、いまに伝えているのである。ランボオの母親の実家も、この地方の小地主であって、ランボオじしんも時にはそこで畑仕事を手伝ったのだった……

 この資料室の上に、二十世紀のうえに大きな影を落した偉大な詩人アルチュール・ランボオの記念室はあった。黄色く色あせた詩人の写真や手紙や詩集などが、ケースに入れて陳列されていた。はかり知れない影響を詩の世界に与えつづけているランボオも、眼で見るその資料といえば、何ほどのこともない。それは当然のことだ。ランボオの偉大さ、その魅惑は、やはりかれの詩のなかにあるのだから……そのケースのひとつの、小さな説明書きがわたしの目をひいた。
 「一八七一年二月二十五日、ランボオは三度目のパリ行きをくわだて、首都の街まちをさまよったのち、徒歩で帰ってきた。かれはコミュ-ヌに参加するため、四月─五月、四度目のパリ行きを敢行したのだろうか?」
 帰えりしなに、博物館の受付の青年は、わたしのノートにつぎの言葉を記念に書いてくれた。(すばらしい達筆で。)
「ランボオは、シャルルヴィルの生んだ、とてつもない賭(かけ)である。
 だが、なんと至高の賭であろう」 
(つづく)

(自筆原稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

博物館
ランボオ博物館

ランボオ博物館

 公園を出ると紅(べに)すももの街路樹のならんだ通りが伸びている。紅すももはまだ植えたばかりの若木だが、赤茶色の葉っぱを夏の陽に輝かせている。あたりには、こんもりと繁った、紅すももの大樹も眼についた。どうやら、紅すももはこの寒い北国によく育つ樹木なのかも知れない。この通りを五百メートルも行って、右手に折れると、ほどなくランボオの生家があり、いまは本屋になっている。さらに百メートルほどゆくと、まんなかに銅像の立った、四角い小さな広場があって、ちょうど市(いち)が立っていて賑わっていた。広場をつっ切った正面に、朱色もあざやかな「ランボオ博物館」という看板が見える。近づいてみると、街通りはそこでムーズ河にぶつかっていて、河岸になっている。それまでムーズ川は家並みにかくれていたのだ。そしてランボオ博物館も、ムーズ川の中州の島にまたがって立っていた。十七世紀に建てられた、三階建ての石の家で、むかしは水車小屋であって、ランボオが少年の頃は、まだ水車が音をたてて廻わり、小麦粉をひいていたという。

 ランボオ博物館といっても、この建物の三階がそれであって、一階と二階はアルデンヌ地方の郷土資料館になっている。フランスではどの町にもこういう郷土資料館というのがあって、そこにその町や地方の生んだ詩人や芸術家の記念室を併設するのがならわしのようである。
 パリ北郊のサン・ドニにあるエリュアール記念館も、サン・ドニ郷土館のなかの一室にある。この郷土館は、パリ・コミューヌの資料を保管していることでも有名である。そのことが、はからずも。詩人と郷土とのむすびつきやかかわりあいを、無言のうちに、しかも具象的に、あるいは歴史的に、物語っていてもくれる。サン・ドニがどんな町か知らずに行っても、ここの郷土資料館にゆけば、「サン・ドニとパリ・コミューヌ」という小冊子を、エリュアールのカタローグや絵はがきといっしょに売っている。そこでこの町は、革命とゆかりのある労働者の町だということが、町のたたずまいとあわせて、よくのみこめるのである。
(つづく)

(自筆原稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

ランボオ
ムーズ川に建つランボオ博物館

 この公園の北の入口近く、小さな四角い花園のなかに、ランボオの胸像が町の方に向かって台座のうえに置かれていた。台座には「酔いどれ船の詩人」と刻んであった。しかし、この胸像のランボオは髪も短かく刈りこんで、まるで優等生のような若者で、「酔いどれ船」の詩人にはふさわしくないように思われた。パリのモンパルナス通りの辻公園に立っていたロダンの迫力にみちた「寝まき姿のバルザック」像を見てきたばかりのわたしには、いっそうこの胸像のランボオが小さくあわれに見えた。アラゴンがシェイクスピアにも比すべき詩人だと言った、そのランボオが。──
 じつは、この胸像はいわくつきのものであった。最初は一九〇一年に建てられたが、第一次大戦中、ブロンズの胸像は溶かされて砲弾となり、一九二七年につくられた胸像もまた、第二次大戦で消えてしまい、現在の胸像は一九五四年に建てられたものである。ところで、一九二七年の胸像の除幕式に際しては、当時シュルレアリストであったアラゴン、エリュアールたちが胸像を建てたシャルルヴィルの町長やアルデンヌ詩人協會にあてて激烈な抗議文を書いたのだった。
 「あなた方は今日、ふたたびアルチュール・ランボオ記念像の除幕式をおこない、小さな地方的な祝典を催すということだ。残念なことに、あなた方の企てにはまたしても公的な容認が欠けている……
 あなた方は、愛国的熱狂に赴くには恐らく機会を誤ったことを認められるであろう。あなた方がいまほめ讃える男は、あなた方にむかって、ひたすら嫌悪の身ぶりをふりまき、憎悪の言葉を吐いた男であり、フランスのために死んだ作家の栄光とは全く相反する栄光をになうことになる男である。
 まことにあなた方は、ランボオとは何者であるかを知らない。彼の言葉から彼の正体を見られるがよい。

 <──おれの生まれた町は、田舎の小さな町のなかでもとびきり愚劣だ。こんな所に、おれはもう幻想も抱いていない。この町はメジェールのそばにあるからだ……町の通りを二、三百人の兵隊どもがぶらつき、あの殊勝ぶった町の連中が、メッスやストラスブールの攻囲された人たちとはちがって、勿体ぶった剣客気どりで、身ぶりよろしくまくしたてているからだ。退役軍人の乾物屋の親父が、ふたたび軍服を着込んでいるのには、ぞっとする!公証人、硝子屋、収税吏、指物師など、猫も杓子も、祖国は立てり!とばかりに、勇気りんりん、シャスポ銃を胸に、メジエールの城門でパトロールの真似をしているのは、素敵だ!だが、おれはじっと座った町の方が好きだ。長靴を動かすな!それがおれの信条だ>(一八七〇年八月十五日の手紙)……
 ランボオとは?……かれは酔っぱらった。喧嘩した。橋の下で寝た。虱(しらみ)にたかられた。……
 地上にもどこにも、かれはどんな希望も抱かず、あなた方のけっして知ることのないだろうあの恐るべき嫌悪(アンニュイ)のとりこになって、絶えず遠くへ出かけてゆくことばかりを夢みていた……」
(つづく)

(自筆原稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

ランボオ像

 この詩のとおり、木立やベゴニヤの花壇などでこぎれいな公園をつっきろうとすると、かたわらのベンチで休んでいた若い女と老婆が立ち上ってきて、「東洋(ロリヤン)からきたのか」とたずねる。「日本人だ」と答えると、両手にもった杖で身を支えていた老婆が「わたしも日本人です」という。そういわれてみれば、小柄な顔だちに日本人らしいところもなくはないが、尖ったワシ鼻や身ぶりなど、とても日本人とは見わけがつかない。聞けば、出身は東京で、イトオ・ヒロという名前で、娘がルージレールとかいう提督の息子と結婚したので、いっしょについてきて、この町に住みついてしまったのだという。もう九十歳になるとも言った。老婆は思いがけぬ日本人にめぐり会ったなつかしさを、小さなからだいっぱいに表現していた。逆にいえば、遠い異国にただひとり残された者の、それは口では言いあらわしえない孤独と寂寥をのぞかせていた……わたしもまたランボオの故郷で、帰化した日本婦人に出会おうとは夢にも思わなかった。
(つづく)

(自筆原稿「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

音楽堂


ランボオの故郷シャルルヴィル

 一九七四年八月十六日
 パリの東駅(ガール・レスト)から、ランボオの生地シャルルヴィル──いまはシャルルヴィル・メッチエールと呼ばれている──へ向う。東駅(ガール・レスト)は、ギリシャ風なレリーフの正面(フロントン)をもった、がらんとした古い大きな建物である。およそ百年前、家出したランボオは無銭乗車でこの駅に着いたところを捕まって、マザスの牢獄へぶちこまれたのだった。そんなことを想いながら、わたしは古ぼけた急行に乗った。シャルルヴィルは、パリから急行で二時間半ほどの距離で、もうベルギーとの国境にちかい。パリをはなれると、なだらかで広い小麦畑、とうむろこし畑、ぶどう畑が、これまた広大な森とこもごもにつづく……部落や人家というものが、たいへん少ない。ひろいぶどう畑のうえに、ランスのカテドラルの尖塔がひょっこりと現われたりした。あたりはもうアルデンヌの野である。

 「風をはいた男」ランボオが、パリをめざしてかぜのように歩いた野である。そうして、普仏戦争や二回にわたる世界大戦で、激戦地となったところであり、第二次大戦ではドイツの機械化部隊は、ムーズ河を渡って、この美しい野に轍(わだち)の跡を刻み、パリに向けて怒涛の進撃をした。しかし、いまはそんな爪跡は見えない。ほとんど山も見えず、ときおり低いなだらかな丘が見えるばかり。川も濃いみどり色によどんだまま、流れるともなく、ゆっくりと流れている。ときおり、岸べや舟で、釣り糸を垂れているひとが見える。

 シャルルヴィルの駅は、アルデンヌ県の県庁所在地にしては貧弱な印象を与える小さな駅だ。駅前には、小さな音楽堂のある小さな辻公園があった。ランボオが『音楽堂で』という詩で歌った、その辻公園そのままである。

   音楽堂で
          シャルルヴィル駅前広場

  木立も花も みんな こぎれいな辻公園
  見すぼらしい芝生をあしらった 広場のうえ
  毎木曜日の夕ぐれ 暑さにうだったブルジョワどもが
  喘(あ)えぎ喘(あ)えぎ 愚劣さを大事にかかえてやってくる

  公園のまんなかでは 軍楽隊が 軍帽を振りふり
  「横笛のワルツ」などを かなでている
  そのまわり いちばん前には きざな洒落者が陣どり
  公証人は 頭文字のついた鎖などをぶらさげている

  鼻めがねをかけた金利生活者(くらし)は 調子っぱずれの音楽に聞き入り
  でっぷり ふとった役人は でぶっちょの細君と連れ立ち
  そのわきを おせっかいな案内人たちが歩いてゆく
  細君たちの裾飾りは 広告のように あでやかだ

  緑のベンチのうえには、乾物屋の隠居どもが集まり
  握りのついたステッキで 砂地をかきたてながら
  ひどく大まじめに 講和条約などを論じ合っている
  銀の嗅(か)ぎたばこ入れを嗅(か)いでは また始める「つまり……」

  はでなボタンを飾りつけ フラマン風な太鼓腹をした
  ブルジョワがひとり 丸い尻をどっかとベンチに据えて
  こぼれるばかり 煙草をつめたパイプをふかしている
  ──おわかりかな これは 密輸入ものですぜ!

  緑の芝生のふちでは ちんぴらどもがひやかし笑い
  トロンボーンの歌をきいて 恋ごころをあふられた
  うぶな兵隊どもは ばらの香りを吸いながら
  子守女をくどこうと 赤ん坊らをあやしている

  ──おれはといえば 学生のようにだらしない身なりで
  緑のマロニエの下で すばしっこい小娘たちを追い廻す
  彼女たちはそれを承知で 笑いながら振り返える
  いたずらっぽい 色気たっぷりのながし目で

  おれは ものも言わずに じっと見つめるのだ
  みだれ髪のしたにのぞいた 白いうなじを
  彼女たちの胴着や うすい衣装のしたの
  まるい肩から みごとな背なかを 目で追うのだ

  おれはすばやく 小さな靴や靴下まで見ねまわし
  美しい熱の燃えるからだを 胸に思い描いてみる
  彼女たちは おかしな男と思って ささやき合い
  おれの激しい欲望はもう 彼女らの唇に吸いついて離れない……

 少し長く引用したが、それはランボオが自分の町のブルジョワたちを描いているそのレアリズムと、彼の反抗の精神をちょっとばかし思い出すためである。
(つづく)

(自筆原稿)

(「詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行」)

シャルルヴィル


浅井忠
浅井忠がお出迎え
美術館
美術館
美術館
裸婦
菊池一雄「手を挙げる」

美術館
高田博厚「ロマン・ロラン」

美術館
佐藤忠良「ラップ帽」

美術館
郡司和男「天使」

美術館
天使の隣が平和を願う美術展の会場
DSCF6056館内
絵画
山嵜早苗さんが「悠久の詩」「庵への誘い」「若者・冬」の三作品を出品していました。

絵画
菅野美香子さん「カサブランカと鈴バラ」。
鈴バラという言葉が初めてだったので撮影させていただきました。
花よりも赤い実が美しいので名付けられたそうです。絵もとても素敵です。

平和を
山形秀夫さんの「軽井沢郊外」など三作品が、浅間山を親しみを込めて描いてあって惹かれました。
前回も感動して撮影しましたが、今回は自重(後悔)。
天木繁男さんの絵も見たかったのですが、見つかりませんでした。
千葉県立美術館で「平和を願う美術展 」(20012年11月)

カラス
柳原義達「風の中の鴉」

レストラン
レストランで一休み

お茶
この隣にポートタワーと千葉港に面した公園があります。

美術館
「白いポエジー」

美術館
浅井忠とバルビゾン派の展覧会もやっています

美術館
椅子の女

美術館
藤野天光「ああ青春」1962年

美術館
四つの姿

美術館
零駒無蔵「集う人々の列」

美術館
零駒無蔵「過ぎし日のアパート

美術館
鈴木武右衛門「帰雲・春」

美術館
藤野天光「銃後工場の護り」1938年──国策にそってつけたタイトルだったのですね。

美術館
木村賢太郎「海」

ポートタワー
ポートタワーの前では大きなシャボン玉に子どもたちが大喜び
海


楽しい夢のような
あの頃を思い出せば
サン・トワ・マミー
悲しくて 眼の前が暗くなる
サン・トワ・マミー

赤バラ